第113話グラデ左 グラデ右矢口と加護

 コン、コン。

 矢口は軽く2回、石川と加護の寝室である101号室の扉をノックした。
 自分たちが寝泊まりしている客室はまるでホテルのような真っ白く金色の縁取りが施された重厚なドアだが、それとは対照的に木目の安っぽいベニヤが張られた簡素な扉。おそらくリゾートホテルだったころの名残で、ここは従業員の休憩室か何かといったところであろう。

 返事は無かった。

―――中にいないのか。

―――それとも聞こえなかったのか。

 閑静は山奥とはいえ、ときどき微風でも木々のざわめきが沸き起こる。今日はそれほど風が強くないものの、山奥という場所柄天候が変化しやすい。窓を開けていれば、森の囁きで自分の声がかき消されてしまったのかもしれない―――矢口はそう思った。
 所在なく居間に向かう扉へと振り返ると、廊下に踏み入れるかそうでないかといった位置に半開きのドアの隙間から安倍がジッとその様子を見守っている。

 もう一度、今度は強めにノックを繰り返す。

 コン、コン。

「はぅ・あ!」
 嬌声(きょうせい)。

 加護か、石川の声かの判別は出来なかった。
 またノックに対する返事としても、やや不自然であることも感じていた。

 だが、身体が反射的にその返事を聞いてドアノブを回す。ノックし、返事がある、そしてドアを開けるといった一連の行動が、今までの人生の中で何度も繰り返すうち身に染み着いているのは、何も矢口に限ったことではないだろう。安倍の無言のプレッシャーもあって、後押しされるようにゆっくりと、丁寧に、音をなるべく立てないよう矢口はノブを捻(ひね)る。やけに古びた扉を前に押し出すときも同様だった。

 矢口は恐る恐る101号室(Love & Peace!)に足を踏み入れる。
 室内灯は点いていなかった。唯一の光源はベッド脇のスタンドライトのみ。それでも窓という窓のカーテンはすべて開け放たれており、雲一つない晴天に浮かび上がる満月の明かりが外から射し込み、思ったよりも暗闇に包まれているといった印象を受けない。むしろ青白いライトで照らされ続けているかのような錯覚さえおぼえる。

 スタンドとその周辺だけが黄色いライトで正球状に包まれており、ベッドとその脇に寄り添っている加護の車椅子を照らす。
 入口からはその後ろ姿しか確認できないものの、確かに加護は車椅子に鎮座しているようだ。
 しかしベッドには―――さきほど会食の際に体調を崩した石川が、そこに横たわっている姿を矢口は想像していた―――誰もいなかった。のちにシングルベッドを二つ繋げたものだと知ったが、この時の矢口はそのヴォリュームからダブルベッドに見えた。自分らの個室のベッドに比べるとやけに広々としている。
 ベッドの上には皺くちゃに絡まったシーツが無造作に放り出されている。ライトに照らされることによって浮き出る皺の影がその存在を主張している。

(石川はどこ・・・?)
 矢口がそう思うのは当然だった。ここでその疑問を投げかける相手は加護しかいない。
 だが、未だに部屋に入り込んだ矢口の存在に加護は気付いているのかいないのか、特に反応を示すこともなく、車椅子の上からはみ出している肩から上、後頭部しか確認できない。仕方なく矢口は加護の左側―――車椅子を軸としたベッドの反対側へと回り込もうとすると―――そこに石川はいた。
 石川は車椅子に座っている加護の前にひざまづくような格好で、彼女の下半身にうつ伏せの状態で覆い被さっていた。
 車椅子が矢口の視界を遮断し、死角となってその存在を確認できなかったのだ。
 矢口がその石川の姿を瞳に捉えたのと、加護が横から回り込んでこようとしている彼女に気付いて振り返るのがほぼ同時。
(しまった)
 加護の憂いを含んだ目が、そう語っているように矢口には映った。
「ちょっと、あんたたち何・・・」
 その震えた声に呼応するように、伏せていた石川が矢口を見上げる。
 涙、鼻水、よだれ・・・あらゆる体液で染めあげられた顔を。そして、石川が覆っていた場所には、加護の白い太股があらわになっていた。

 加護の花柄のロングスカートは、完全にまくし上げられていた。
 そして本来隠されているはずの加護の生足に、石川は顔をうずくめていた。
 その状況の意味するところ、想像される行為・・・瞬時に矢口の脳裡を駆け巡った。

 矢口にとって「あんたたち何を」と問いかけたときの予想を遥かに超える光景が、目の前に広がっていた。
 もはや言葉にすら、ならない。
 さきほどノックの返事のように響き渡った、なまめかしい声は。そして見たままの状況を飲み込むとしたら、この二人―――石川と加護―――の結びつきに、また別の意味を帯びてしまうことになる。

 あの悲惨な事件に遭遇し、その苦難を共に乗り越えてきた最も信頼のおける仲間。―――と同時に内から沸き上がる肉体的な欲求をお互いに満たすための存在。
 身体的・精神的なハンディキャップを背負った二人が、若さゆえに次々と内より湧き上がる、されど満たされぬお互いの性欲を補完するために必要な禁断の蜜の味。

 それは、綺麗な別の言葉で表現するならば“愛”になる。

 だが目の前で突如あらわれたその状況を綺麗な言葉に変換するまでの論理的思考、またそこに至るほどの精神的余裕は、その時の矢口は持ち合わせていなかった。あるいは、この屋敷に来てから感じたいくつかの違和感、様々な異様な光景が彼女の心を少しづつ蝕(むしば)んでいったのかもしれない。

   やっぱり

   私の居場所は

   ここじゃない。

 矢口は身体が宙に浮いたような気になった。

「ねぇ、何かあったの?」
 背後から異様な雰囲気を察した安倍が、入り口の扉まで来て半分だけ顔を覗かせつつ尋ねる。
 だが、この状況をどうやって直接見ていない安倍に納得いくように説明できるだろうか。矢口は微動だにせずに、肩で息をしている石川をただ見おろす。唖然とする加護の表情は次第に、背徳の薄暗い雲に包まれていった。再び彼女の膝の上に泣き崩れる石川。
 事態は益々収集がつかない様相を呈してきた―――と思われた、その時。
「・・・出ていって」
 うつむき加減の加護から、途切れ途切れの消え入りそうな声。
 矢口は誰に言われなくとも、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。ただ、そのきっかけが今まで見つからないでいただけ。
 それも今の加護の一言で、呪縛が解けた。
「出てってよ!」
 再び今度は突き飛ばすようにわめき散らすが、そう言われるまでもなく矢口の足は部屋の出入口に向かっていた。ドアの隙間から未だにこの状況を把握できずにオロオロと覗き込んでいる安倍を、追い返すように足早にこの場を去った。

 薄暗い部屋に取り残されたのは、石川の痛々しい嗚咽だけ。
 そんな石川のうなじを加護はまるで聖母のように優しく、なぞるように愛撫した。

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