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| ■ | 00/09/25 当事者であるという事を前提として、「他者から見る揺るぎ無き無意味な事、どっちだっていい様な事」は生きていると其処らじゅうにゴロゴロしているわけなんだけど、「他者から見るその揺るぎ無き無意味な事」に多大なるエネルギーや多大なる時間を費やせ無くなればなるほど、空白への恐怖感が増幅して行く。 ちょっとした精神的空白、ちょっとした時間的空白、そんな類いなモノに対して。 どちだっていい様な事が本当にどっちだってよくなってしまうものだから、空白を埋める為になんだかんだ理由が必要になってしまって、アゲクノ果てには自暴自棄。何時の間にかそんな感じ。 これは他者に対するバカげた批評や悪意のこもった評論を除いての話、つまり「コキオロシ」はぬきって事。 |
| ■ | 00/06/09 時間の流れと同様に、何処へ向かっているのかそれは分からないのだけれども自意識と言われるものも生きて行く以上流れて行く訳で、この「連鎖する自意識」の中に永遠なるもの、確固たる自己、変わらない自分、そんなたぐいのモノに美意識に近い高貴な自尊心の様な、そして存在理由の様な憧れを抱くのが大抵で・・・。しかし、実際の所は、置き去りにして行ったあの時の決意や感情は何処かの棚にそっちのけ。だからとて完全にそれを忘れてしまった訳では無いものだから罪悪感みたいな感覚と怠惰に溺れた矛盾を自分自身に引きずりながらも、辱しめも無く今日も流れているのだから訳が分からないよな。 その首を絞めているのは誰だ? 6月9日・梅雨入り目前のとある日。仕事を終えて帰宅に向かったのは午後2時、憎らしき我が職場は月に何度かこの様な気のきいた日を与えてくれる。しかし、実存する今という現実は梅雨入りがそこまで来ていると言うのに日照がキツクて雨の降る気配はこれっぽっちも無く、額に汗をにじませ太陽を憎らしく雨雲と雨を恋しく思いながらも帰宅への道をとぼとぼ歩いていた。そしてとうとう我慢の限界に。気付けば喫茶店に入りアイスコーヒーで太陽への憎らしさを増縮させながらも体を冷やして落ち着かせ、隣りの席に座った老人とおもむろに目を合わせていた。そして何となく会釈を交わし、気にも留めてはいなかったがその老人がたらふく薬を飲んでいる姿を見届けるとタバコに火をつけてやっとそこで汗はひいていた。 「この歳になると良い事が少なくなってねぇ、早く死にたいねぇ。」 突然そんな事をひとり言の様にぶつけてきた。 「ははは。」俺はそれだけ。 あれだけの薬を飲んで健康に気を配っておきながら早く死にたいとは?などと思いながら。 しかし、そのほかに何か言葉をかけようとする頃にはもう老人は帰り仕度をしていて、今度は笑みを加えて、それと親しみも加えて再び会釈を交わした。それがさようならの合図となった。 そして、しばらくすると俺も席を発ち、家にたどり着いたのは夕方、朝に干された洗濯物を取り入れて、しっかりと乾いているかを確かめる。 その頃には何故か、良い天気で良かったと思っていた。 |
| ■ | 00/05/19 多くの場合、人間は経験や知識、いわゆる知性に属する所の固定概念に多大なる影響を受けモノゴトを消化し消費して行く事で颯爽とした力強さを手に入れる訳だが、その事において、それを動かす一個人が発する屈折したエネルギーの鉾先は、訳の分からない、そして掴み所の無い社会や世の中に向けられ、又、己自身に向けられ、論理的にそしてデタラメに結論へ到達する。しかし、その行為が物事に対する制限や制約を生むきっかけとなるのは当り前の話で、そこそこの生活、そこそこの自分、横一列のマンネリズム、憂鬱さへの感傷、その反動に起こる、自分自身を含めての消費、そして消化の連続。それでも、「まぁまぁ。」 すばらしき例外をさがして、 5月19日・例えばの休日の始まり。目覚めたのは朝と言うよりは昼、それでもいつもの休日に比べると2、3時間は早く、一日のスタートとしてはまずまずの滑り出しであった。しかしながら、だからとて、それ以外キワだって変わりばえは無くなんてことは無い。いつものごとく目覚めの悪さとの戦いを繰り返し、やっとの思いで勝利を勝ち取る。そしてそれに成功すれば冷蔵庫の中から冷凍のトウモロコシを手に取って朝食の準備にとりかかる。当然の話だがインスタントのコーヒーも忘れてはいけない。そして煙草も。このいずれか一つでも欠けるような事があれば、そんな事が起ってしまったなら、俺にとってはかなり重大な死活問題だ。一日を台無しにし兼ねない。しかし、今日は御安心を。例外無く顔ぶれは揃っている、イツモドオリだ。 そう、イツモドオリだった。 そして、朝食を終えると西に向いた窓のカーテンを開けて、あまり重要な事では無いが、総理大臣の答弁よりは若干気になる天気の確認をした・・。 |
| ■ | 00/05/06 どっちだっていい事の連続の「ふとした瞬間」に電光石火のごとくやってくる。それは、己の不甲斐なさを気付かせる唯一の至福の瞬間となる。その多くは不格好な姿をしているが内に秘めたる何たるかは美しさのあまり醜さだけが浮き彫りとなる。 病めるほど光を放つのは本当か、 5月6日・最高の五月晴れ、カップルや家族ずれがやけに目について仕方がなかった。夕方、それは誰もが今日一日への満足感とよろこびを体中のすべてで支えようとしていた。それでも飽和して溢れ出るソレも一緒に。 そしてその満足感やよろこびが、再びその胸に実存する紛れもない事実である事を確認し認識する為、少しばかし大きな声で話し、少しばかし下品とも言えるような笑い声を上げていた。だからとて特にイヤミには聞こえない。俺も良い気分だった。なぜなら、車内に流れるアナウンスを除けば普段そこら中にある憂鬱さなんて物は見当たらない。いいじゃないかこんな日があったって。 でもそんな時だった。電光石火のごとくやって来たのは。 それは、少女だった。身なりはお世辞にも現代風なスタイリッシュさは見えない。かといって固執した思想のもとにあるマニアックさも無い。まぁ、とにかくへたをすれば見逃してしまうほど普通の女の子だった。物静かに荷物のバックを膝の上にのせ、それをひじ掛けがわりにして腕を置きそして座っていた。ただ、脳裏に焼き付いて離れない彼女の印象はとにかく痩せていて、と言うよりは少し病的なほど痩せていた。それ以外は本当に普通の子だった。でもその事において彼女が何を思うのかは明らかな事だった。なぜなら眼球の鋭さが違ったからだ。その屈託の無い光の鋭さは平均的な生活を送るノウノウとした我らには欠落した生命の力強さがあった。そして、「私も一個の他者なのです。」(アルチュール・ランボーより)を十二分に熟知した成熟さも兼ね備えていた様にも思えた。しかしここまでだった。ここですべてがシラケテしまった。当然の話、彼女が原因では無い。周りはそんな事知ったこっちゃ無かった。 辺りを見渡せばあちらこちらでチラチラ眺めては、おまけにヒソヒソ話をした後で性懲りも無く慈愛に満ちた面持ちに変身し、わざわざ話題の起動修正までしはじめるんだからマイッタもいいところだった。そこからは急降下、いつものウヤムヤした俺にご挨拶。世の中みんな、さぞかし良い人生なんだろう。 |
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