まだまだ読むべし!

津軽三味線の歴史

 

まず、いわゆる津軽三味線と呼ばれるものが存在する以前に

重要となってくるのが竹本義太夫の存在です。

江戸時代に入ると、歌舞伎だ、長唄だ、民謡だ、と三味線が盛んになってくる。

当然、見に来るお客さんがどんどん増える。

それにあわせ舞台や客席を広くしなければいけなくなってきた。

そうなってくると、その舞台に欠かせない伴奏の音が

舞台の端まで届きにくくなってしまう・・・

当然、マイクはない。(当り前だ)

困り果てた末に改良され生まれたのが「太棹」だそうだ。

 

・・・ホンマか?

まぁ、そういうことになってるのでそうなのであろう。

とりあえず、納得はいくので次。

 

 

 

まずここで、太・中・細の使い分けを説明しておこう。

 

太棹 ⇒ 義太夫節、津軽三味線、浪曲など

中棹 ⇒ 地歌、常磐津節、清元節、新内節など

細棹 ⇒ 長唄、小唄、端唄など

 

 

 

こうして誕生した「太棹」が新潟ゴゼなどに伝わり、津軽まで行き渡った。

 

安政4年(1857年)、津軽の地吹雪地帯である北津軽金木町神原の

渡し守の子どもとして生まれた仁太坊(本名:秋田仁太郎)が

現在の津軽三味線のスタイルの基礎を作った人と言われている。

8歳のとき、天然痘で失明した仁太坊、明治元年には11歳となり

この頃から三味線で門付けを始めた。

(門付け=ひとの家の前で三味線をなど弾き物乞いをして回る)

当時、「守屈の仁太」と呼ばれ卑しめられていた。

賎民という、士農工商の四民から疎外された下級階層、

そこでは伝統芸能の仕切りも家元制度もへったくれもない。

まさに自由であった。 といえよう。

こうした津軽三味線の始まりが多くの人を惹きつけていったのであろう。

 

 

この仁太坊の弟子に白川軍八郎という人物がいる。

現在の津軽三味線奏者のほとんどすべての人が

この白川軍八郎の影響を受けているといっても過言ではない。

現在の津軽三味線の弾き方を編みだし完成させた人である。

グンパチロウ(←名前がかっこええ)は明治42年(1909年)生まれ。

彼もまた幼い頃に失明し、8歳のときに仁太坊の弟子となった。

そして2,3年もするとメキメキと頭角をあらわし始め、

師匠である仁太坊に『将来、一番の三味線弾きになる』といわしめた。

その後、15歳で独立し、唄会の一座に招かれ

そこで一番の弾き手となった彼は、それを渡り歩いて生きていくこととなる。

上京後も三橋美智也らを弟子にして活躍したが

一生、唄会一座の雇われ人で借金もしていたらしい・・・

 

 

・・・ブルースやん。

 

 

そう、津軽三味線の歴史は、アメリカにおけるブルーズなのである(涙)。

 

仁太坊の数少ない弟子の中には、この白川軍八郎、

そして木田林松栄、福士政勝がいて

この3人は昭和30年頃まで津軽三味線の三羽ガラスと呼ばれた。

まず、福士政勝が高度経済成長期直前の昭和32年に東京へ上京。

2年後の34年に白川軍八郎もとうとう上京。

日本全土に津軽三味線をアピールしていくこととなる。

更に2年後の昭和37年には木田林松栄も上京。

この頃、仁太坊の曾孫弟子にあたる高橋竹山が活躍し始めていた。

(竹山師の詳細は別記予定)

 

昭和45年、木田林松栄が名取り芸名制を定め、

津軽三味線の本格的普及を計った。

ちなみに私は アンチ名取り芸名制 である。

木田林松栄師がどういう意図でこの制度を定めたのかは知らないが

今となっては、実体のない称号に大金を払うだけというものが多い!

もちろんすべてではない。

・伝統としての津軽三味線の継承

・歴史ある会で活躍していく為

などの目的が明確にあるのならば有効なのかもしれない・・・

 

 

 

 

最後まで読んでくれた貴方、

ごくろう様 & ありがとう!

 

 

あと、現在の津軽三味線の第一人者と言われる、

山田千里氏も当然、要チェック。

毎年、弘前で開かれている全国大会の主催者であり、

弘前のライヴハウス『山唄』のオーナーでもあります。

それと・・・少しズレるが、秋田三味線の第一人者、

浅野梅若氏も素晴らしい。

今では音源もいろいろ出回っているので、とりあえずは聴くべし!です。

 

 

 

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