これは私が大学のレポートで書いたもの。だけど、適当に書いたものだし、短くて甘い部分が多々あり、あまりいいテキストとは言い難いです。ロックン・ロールについて語るHPと謳っているけど、「フォーク→フォーク・ロック→ロック」という流れも重要なのでいいかな、と。記念掲載、というところです。
軽く勉強したい人はどうぞ。
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フォーク・リバイヴァルにおけるフォークミュージックの多くは、社会的、道徳的、政治的問題について歌ったものであった。そのようなフォークミュージックは、時に、社会運動のテーマソングとして扱われ、多くの人々を勇気付けた。ここでは、フォーク・リバイバルの全体的な流れを、当時の社会的背景と照らし合わせながら、具体例を挙げつつ、見ていきたいと思う。
1920年代のアメリカは大量消費社会となり、豊かな現代アメリカを形成しつつあったが、1929年株価大暴落により、アメリカ経済は一挙に奈落の底へと転落していった。史上最高の大恐慌である。その恐慌の凄まじさは国民総生産が4年間で29%低下したことや4人に1人が失業者という統計から伺える。労働者は職を失い、家賃や住宅ローンが払えずに家を追われ、農民は農産物価格の大幅下落のために収入が入らず、農地を奪われた。大平原のカンザス、オクラホマ、コロラドなどでは大きな砂嵐が頻繁に起こっていた。砂嵐は農作物を破壊し、家畜を殺し、幼い子どもたちを窒息させ、家の中に入ってきては床や家具を厚く被った。多くの人々がポンコツ車に家財道具一式を無理やり積んで、ダスト・ボウルとなった故郷を逃げ出した。彼らの目指す先の多くが西海岸、カリフォルニアだった。
その中の1人がウディ・ガスリーである。彼は当時のことを歌詞によく表している。「ド・レ・ミ」という曲では、エデンの国カリフォルニアを目指した難民たちも所詮、金がなければ何にもできないとシニカルに歌っている。ウディ・ガスリーは仕事と住むところを求めて、妻子を置いてヒッチハイクや貨物列車に乗り込むなどしてカリフォルニアを目指した。彼は、難民たちが作ったブリキ板や木の端切れで掘建て小屋の集落(「フーヴァー村」と呼ばれた)で共に過ごし、彼らに向けて歌を歌った。そこの労働者たちに向かって、ウディは「組合を作れ」と歌い、しばしば資本家たちの怒りを買った。
この時期、チャールズ・シーガーやジョン・ロマックスなどが歌う社会的なフォークソングも保守的な人々に忌み嫌われ、左翼の陰謀と言われていた。労働組合の集会ではしばしばフォークソングが歌われ始め、フォークソンガーは「爆弾を運ぶ左翼」とレッテル付けられ、フォークソングは政府を転覆させる力をも持っていると考えられた。ウディ・ガスリーは自分が見てきたこと、聞いたこと、そしてそのとき思ったことを率直に歌にし、その歌を歌い、人々に聞かせるために全国を放浪した。彼はBPA(ボンネヴィル・パワー・アドミニストレイション)や、強制送還させるメキシコからの越境者たちを乗せた飛行機事故、第二次世界大戦にアメリカが参戦するきっかけになった商戦攻撃事件など様々な社会的事件を歌の題材にしている。ウディは「現代の反骨的バラッドの父」と称えられた。しかし、彼はそのような反骨的な歌だけでなく、子どもや綿花農場の労働者、鉄道従業員、移住労働者などに向けた歌など、様々な題材を歌にし、幅広いレパトリーを持っている。また、彼の曲作りのテンポは異常な早さだったと言われる。
40年代、50年代もピート・シーガー、ウィーバースやマッカーシーらが「アカの恐怖」と言われ、フォークミュージシャンたちの評判を落としながらも、反骨的なフォークミュージックの普及に努めていたが、58年にキングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」がチャートで一位となった。この歌は実は、自分の恋人を殺し、絞首刑を命じられたトム・ドゥーリーについて歌った殺人バラッドであり、50年代にエルヴィスvレスリーで始まるロカビリーブームのアンチテーゼとも言えるだろう。そして何より、この「トム・ドゥーリー」は今までの反骨的なフォークミュージックとは異なり、政治的に無関心な歌であるために、世間で認められたと言えるだろう。
以来、メジャーレーベルだけでなく、中小のレーベルからも次々にフォークがリリースされた。
時代はアメリカにとって激動の時代となった60年代へと移ったのであるが、激動となった原因である、ベトナム戦争時の反戦運動や公民権運動にフォークミュージックは影響力のある役割を果たしたのだ。第二次世界大戦は非常に大きな戦争であり、アメリカ社会を変えたが、人々の考え方までは変化させられなかった。むしろ、国民にアメリカ民主主義やアメリカ的生活様式の正統性を与えたと言える。しかし、ベトナム戦争ではそんな国民意識を大きく揺るがした。戦場の悲惨な光景がテレビに映し出されるのを見て、多くの人々が戦争に対して不信感を募らせていた。学生たちは「ティーチ・イン」と呼ばれる反戦集会をキャンパス内で開催し、平和運動を拡大させていった。ちなみに、40〜50年代、反骨的なフォークミュージックが受け入れられたのもキャンパスであった。
やがて、反戦運動は学生だけでなく、国民全体に広まり、若者たちの中にアメリカ的価値観や生活様式を否定し、既存の文化に反逆するヒッピーが出現した。彼らは反戦運動に参加しては、みんなでフォークミュージックを奏でた。ボブ・ディランやジョーン・バエズなどが反戦や社会批判を歌い、若者たちの支持を集めた。特に、ボブ・ディランは「ウディのジュークボックスだった」と自分で言うほど、ウディ・ガスリーの影響を強く受けており、ウディのあとを継ぐようなメッセージ性の強いフォークソングを歌った。1962年に彼の書いた「ブローウィン・イン・ウィンド」は公民権運動の非公式な応援歌となり、彼は間接的にリーダーの1人に数え上げられた。この点においてもウディの残した功績は大きい。 1960年代半ばからフォークとロックが合わさったフォーク・ロックのスタイルが現れ始めた。その代表格がビートルズとボブ・ディランである。ボブ・ディランがエレキギターを用いるようになるまで、人々はフォークミュージックは疎外感から自分たちを救ってくれる意義ある音楽だと信じていたが、今では、多くの人がフォークミュージックを単なるポピュラーミュージックの一形態として見るようになった。
こうして、世間では、メッセージ性の強いフォークミュージックは衰退していった。しかし、現在でも、そのようなフォークミュージックは草の根レベルで生き続けている。
参考文献 「アメリカの20世紀」 有賀夏紀著 中公新書
参考映画 「ウディ・ガスリー わが心のふるさと」