引越しグラフティー 1
僕は今までに5回ほど引っ越したことがある。
1回目の引越しは出身地の四日市から大学に進学するために松本へ引っ越した時で、僕が18歳の時である。なぜか、僕は大学に受かっている事に妙な自信があったらしく、合格発表の日、家族みんなで松本のキャンパスまではるばる発表を見に来た。そして、その日は近くの市内にある浅間温泉に泊まって、次の日に不動産まわりをしてアパートを決めてきたのである(そのときもし合格していなかったら、と考えると非常に恐ろしい)。
その時は住宅に対する自分の価値観なんてなかったから、「だいたい5万円弱が一番人気のある価格帯ですね、この物件はユニットバスで大学から徒歩にて10分で云々」という不動産屋さんのハナシを鵜呑みにするしかなかった。そこで、僕は岡田松岡の45000円のアパートに住む事に決めた。
このアパートには2年間住む事になったのだけれど、このころの思い出って言うのは、初めての一人暮らしとか、ギターの練習とか、とにかく毎日が刺激だったな、ということに終始する。何かと出歩く事が多かったみたいで、不思議とアパートの中での記憶って言うのはあまり多いとは言えないのだが、思い出せる事といえば、
1 化学概論の2回目テストの前夜、高野悦子を読んでタバコを吸ってみる。案外旨い。
2 初めてのオリジナル曲の詩を書いてみる。
3 20歳の誕生日、友達に祝ってもらいながら12時を迎える。
4 ギターの練習をかなり自分勝手に行っていたため、おそらく隣近所には迷惑をかけていたはずだ。
5 恐ろしく散らかった部屋。本類の中に埋もれている靴。
6 新聞勧誘員の勧誘を断ったら「アパートに火をつけるぞ」と脅される
7 なぜかこの頃はしっかりと日記をつけている
などである。1に書いた化学概論のテストというのは、実は大学1年生のときに落とし、2年生になって受け直したものである。結局2年生の時にはギリギリで「可」と通ったのだが、このときの安堵感たるや、ちょっと表現する事が出来ない(そんな僕でも大学院は地球化学を専攻したし、今の仕事だって環境化学である。人生と言うのは、ホントによくわからないものだと思う)。とにかく、いろいろおもしろかった。
あと、それまでちっとも観ていなかったくせに映画を突然がんがんみだしたり、小説を1週間に5冊読んだり、なんてことも繰り返していた。特にそういう本とか映画とかが好きでもなかったのに、そういうものに興味を持ってきたのは、周りの影響もあるけれど、「理想的な大学生活像」を求めていった結果のように思われる。今でも本を読んだりするのは、実は純粋に本を読みたい、という動機よりも、理想の実現であったり、自分に対する戒めであったり、そういういわば不純な理由によるものが多い。ま、動機はどうであれ、この頃に読みふけった本とかは今でも繰り返し読んでいるし、今の自分の血となり肉となっているので、とてもよかったと思っている。もちろん、とりあえずヒマだったということも、多分にある。
昔、高校のときに大学受験本で菅野って言う人が書いた日本史の実況中継という本があって、これを多くの受験生は勉強していたのだけれど、この中で菅野先生が、「大学時代に本を1000冊読め。本の置き場所が困って、床に敷き詰めて、屋根が低くなるまで読め」っていうようなことを言っていた。なるほど、と思う。そういう大学生活も悪くはないような気がする。
結局、この岡田松岡のアパートは、ユニットバスが性にあわなかったことと、家賃がちょっと高いと思っていたこと、NHKの集金が来てしまった事、そろそろ気分を変えたいな、と考えていた事などから、大学3年に上がる春に、市内の中ではあるが引っ越しする事になった。
(つづく)
2002年03月02日 00時58分17秒
引越しグラフティー 2
次に引っ越した先は蟻が崎というところで、1ヶ月の家賃が3万円だった。この物件のいいところは、電気代も、ガス代も、水道代も、灯油代も含めて3万円、という点にある。
ここは普通の一軒家の4つの部屋があって、そのひとつひとつに各人が住めるようになっている。僕の部屋は1号室で、入り口のすぐ横の部屋だった。4月頃は、隣の2号室、その隣の3号室に人の住んでいる気配もなく、非常に平穏な日々だったが、夏前に同じ学科の友達が、その2号室と3号室に引っ越してくる事になって、そのときから、この下宿生活はとても賑やかになった。
他にもこのいろんな長所があった。
1 庭がある(けっこう多くの植物が植えられていたが、この前に住んでいた人が植物学者だったらしく、わりと珍しい植物が生えていた、とのハナシだった)
2 風呂が普通(ユニットではない)
3 8畳もある
4 台所が広い(共同だが)
5 トイレも広い(共同だが)
6 豆腐屋が近い(手作り。ボールをもって買いに行く)
7 和菓子屋が近い(5歩で行ける。いちご大福がおいしい)
8 おいしいラーメン屋が近い(万両。牛乳ラーメンがおいしい)
自宅の近くにおいしいお店が多い、ということは非常に大事なファクターだと僕は思う。とにかく、いろんな面で気ままにできたので、この下宿は最高だった。同居人の友達には申し訳なかったけれど、そのときのサイクリング部の友達が集まってよく森邸で飲む、ということがあったりして、朝まで大騒ぎ、ということも多かった。この部屋で何回鍋をしたかわからないし、何回焼肉をしたかわからない。とにかく何回も酒を飲んでは、朝まで笑った。けっこう飲み会の写真なんかも残っていたりして、これを見ていると、なかなか懐かしいものがある。
大学3年のときに松本深夜を始めてからは、当然この部屋で録音とかしたわけで、当時は深く考えてなかったのだけれど(なぜか)、たぶん隣にはもちろん、近所とかにもけっこうな騒音だったか、と思う。今、社会人になってみて思い出すと、これはかなり冷や汗ものだ。今、仕事で騒音苦情とかに対処したっていうハナシを聞いていると、ホント申し訳なかったなと思う。どうもすみませんでした。
しかし、この理想的な下宿も、僕が外部の大学院に行く事になって、ついに離れる事になった。4年間の松本生活を考えると、けっこう切ない気分にもなったが、名古屋でも同じようなカラフルな大学生活があるのだろう、と勝手に推測なんかしたりして、とくに生活の変化について深く考える事はなかった。1999年の3月、僕は大学を卒業して、この下宿を引き払い、四日市の実家に戻った。
(つづく)
2002年03月02日 01時28分41秒
引越しグラフティー 3
四日市から大学のある名古屋まで電車通学を始めたものの、いろんな研究上の都合で夜が遅くなる事なども多く、1時間半の通学時間もどうしても無駄のように思えてきたので、名古屋市内に安い物件がないか、探しはじめた。修士1年のある8月の日に同じ講座の助手の先生が、あそこなら安くてイイと思う、と教えてくれた下宿にその日のうちに見に行ったら、なんと家賃1万2千円ということで、僕はその宮東町のその場で即決して、明日からここに住ませて下さいということになった。
その日の家に引越しは完了し(オオモリに手伝ってもらった)、僕の名古屋ライフが始まった。またひとり暮らしである。部屋は4畳半で風呂/トイレ共同、炊事場も共同(キャンプ場なみ)、洗濯機は2槽式、しかも風呂は2日に1回なので入れない日は近くの銭湯に行く、という正に神田川風苦学生の典型となったのだが、四日市から通っている時よりも格段にラクになった。しかも1万2千円だったら、定期券を買ってなんやかんや、とやっているよりも安かったりしちゃうのである。
この頃の生活と言うのは、まさに修士研究中心であって、たぶん仕事をしている今よりも拘束時間は長かったように思う。模範的な修士生活は、9時頃に学校に来て12時間研究をやって夜9時に帰る、と誰か言っていたが、平均的な院生はまあそれに近い生活をしていたため、「これが名大の大学院生の生活か」と妙な感動を覚えてしまった。中部地方では、元帝大として名大はやはり確固たる地位を確立しているが、この信頼は決して過去の遺産によるものでゃなく、こういう努力によってもたらされていることを知った。
ちなみに残念なながら遊び好きな僕は、そこまで熱狂的に研究に打ち込む事はなかったけれど、自分で決めた道でもあるし投げ出す事もできないので、ま、それなりにがんばって研究を行った。このけっこう大変だったと感じる院の二年間は、僕にとってもけっこう自信になった。
名古屋の街は、なかなか特殊な街だと思う。なぜかというと、名古屋出身の人はわりと名古屋のこと好きだと言う人が多く、逆に名古屋出身でない人は名古屋のことを嫌う傾向にあるからだ。なぜかは知らないけど、名古屋には名古屋のイメージがあって、それは名古屋以外の人は直にそれを信じ、名古屋の人はそういった負の情報をフィルタリングしているんだろう、と勝手に推測している。
さっきも書いたけれど、家の風呂がない時に、近くの銭湯まで歩いたり自転車で行くのが好きだった。大学に行って勉強し、帰ってきて「山花温泉」という銭湯で風呂に入り、帰りにコンビニでビールを買って帰り、4畳半の部屋でビールを飲みながらウトウト眠るのである。こんな幸せな気持が他にあるだろうか(いや、ない)。
この下宿には名前がついていなかった。大家さんの名前をつけて「○○様方」という風に最初は書いていたが、そのうち味気なくなってきたので、勝手にこの下宿を「月光荘」と呼ぶ事にした。親しい人には住所に「月光荘」と書いて教え、その友達からくる「月光荘」と書いた郵便物はちゃんと届いていたので、たぶん下宿の名前とかって郵送の上ではあんまり関係ないんだな、と感じた。
2001年3月にに無事になんとか修了証書をいただき、修了した。最後のガランとした部屋の中で、花束を持って写った写真がある。スーツは伊那のそねさんから借りたもの、前夜にあずきのライブを伊那でみていたため、すごく疲れぎみで写真に写っている。
その後、今度はまたえらく田舎で、えらく遠くて、えらく海が綺麗な場所に勤務する事になったので、やはりこの下宿を移る事になった。
(つづく)
2002年03月02日 02時10分35秒
引越しグラフティー 4
僕は就職するときに、いちおう実家の近くにしたい(あるいは、すべき)という意志があったため、それなりに実家近くに住めそうな就職口を探し、就職した。たぶん、実家から通えるか、まあ、下宿になったとしてもそんなに遠くはないだろう、と思っていたら、松本と同じくらい遠い場所に赴任になってびっくりした。この前、普通電車で四日市から赴任地までガタンゴトンと揺られてみたら、実に5時間かかった。
とはいったものの、僕はこの5時間という時間が嫌いではない。まず、かばんから本を取りだし本を読み、いやになったら、MDを取り出しMDを聴き、いやになったら、実用書を出して勉強をし、いやになったら(すぐいやになる)、また本を取りだし本を読む。なんと理想的な時間のつぶし方ではなかろうか。
そして、最近(昨日だ)この5時間の「ローカルトレインタイム」に、また強い味方が現れた。IBMのThink Pad君である。これで電車にのりながら、あんなこともこんなこともできちゃうわけである。いやっほー(しかし、よくよく仕様書を見たら、バッテリーが2.5時間しかもたないことに気づいた。つまり残りの2.5時間はやっぱり本を読んだり音楽を聴いたりするわけである。でもこの1:1の比率はこれはこれでいなせである)。
さて、この僕が今住んでいる市は、人口2万強ではあるが、「過疎山村地域」である(法律で決まっている)。実際、マクドナルドも吉野屋もなく、辛うじてジャスコはあるが寿がきやはなく、ガソリンはレギュラー112円、海は広く空は青く、やっぱり原発の設置運動なんてのも昔あったり、廃校のニュースが地方新聞の一面になったり、人が優しかったり、いろんなことで田舎具合を感じ取ることができる。
この周辺に住んでいる住民はあんまりお金とか時間とかに執着がないように思う。だから結局経済発展しなかったのだし、人口流出も起こるのだけれど、だからといって何かの対策を立てよう、というわけではない。要するにのんびりしていて、楽観的なのである。そうやってのんびりすることには、たまにうらやましくなったり時には心配になったりもするけれど、全国的に見たら三重県全体が十分「のんびり気質」である。悪いわけじゃないけれど、どうだろうかと思うことも今の立場では(学生の時にはまだしも)ないこともない。
今、住んでいるところは5階建てで、今まで住んできた住居のどれよりも快適である。しかもエアコン完備、風呂も広く、食堂もあり、自動販売機もある。やろうと思えば誰かが置いていったゲームもできるし、マンガも読める。コンビニもある。ポストもある。駐車場も誰かが間違えて停めていっても1か月くらいは気づかれないくらい余裕がある。
お家賃も、実はここには書けないくらいお安い。なんていうか、働くっていうことはとても苦労も多いけれど、それなりの見返りはあるのだ、と感じてしまう。
ちなみに、歩いて駅まで行ける。歩いて職場までも行ける。そして歩いて海までもいける。
海は、約30kmにわたるじゃり浜で、初めての人が見たら絶対にきれいだというと思う。僕も一番最初にここに来たときは、この海岸で義兄さんときゃっきゃ言いながら走ったのだ。そしてその後、寿司を食べた。
しかし、慣れとはおそろしいもので、最近は海に対して何の感情も持たなくなってしまった。たまにきれいだとは思うのだが、所詮景色は景色である。景色は景色でしかなくて、物事の実体にはなり得ない(この無感動さはなんたることか)。
概して、今のこの街も悪くない。松本の時も、名古屋のときも思ったのだが、「住めば都」とはまさにその通りである。しかし、街を「都化」していくのは自分であって、それはある意味、努力とも呼べる労力が必要なのかもしれない。
あと、もう1年?2年はここにいると思うので、引越しグラフティーは今のところ、4で終わり。5が書ける頃には、僕ももう少し使いものになっているハズだ、と好意的に理想してみる。
(おわり)
2002年03月04日 21時31分25秒