気温35度、湿度80%のある国で、筆者の理性を狂わせたものがある。相次ぐ格闘。次々と送られてくる刺客。どこにでもいる(たまに売り切れ)。
果たして筆者は勝利したのか?
1 旅立ち
Nは函館空港に立っていた。5月の日差しは降り注いでいるものの、ここ函館はまだ肌寒さを残している。
関空行きANA235便の搭乗時刻まであと1時間少々。同行している黒犬は彼女同伴で婚前旅行さながらの様子である。HRMとnallyの姿は見えない。ツアコンが忙しく弁当を配っている。弁当を1つもらい中身を見る。鮭、メンチカツ、煮物。「まあこんなものだろう。」弁当を1/3だけ口にし、足早にドリンク・カウンターヘ向かう。
「サッポロ黒ラベル生一つ」おもむろに注文すると、初老の店員は地からわき出るような低い声で「はいよ」と答えた。店員は慣れた手つきでグラスを取り上げ、斜め45度に傾けたかと思うと、一気にビールを注いで見せた。よく磨かれたグラスは、泡と液体2:8の見事な比率を映し出していた。もう少し眺めていたい思いがあったが一気に喉に注ぎ込む。半分ほど飲み終えてグラスをテーブルに置くと、グラスの上部には綺麗な泡の輪郭が浮かび上がっていた。「あんた、ドラフトマスターか?」と訪ねるが、初老の男は無言でグラスを洗い続けている。訳ありなのか。まあそもそも男というものは年を取るごとに無口になっていくものである。多くを語らず、ただ旅行者にうまいビールを飲ませるために彼はそこにいる。それ自体が彼のアイデンティティなのだろう。彼自身の人生の奥深さが、目尻のしわに年輪のごとく刻まれている。じゃあ俺も静かにこのひとときをたのしむこととしよう。
サラリーマンが足早に目の前を走りすぎていく。この国の人間は働き過ぎなのだ。もともと生真面目な農耕民族である日本人。戦後、敗戦の憂い目に遭い、そのコンプレックスを跳ね返すべき掲げられた高度成長時代の風。日本は名実共に世界で1,2を争う先進国へと変貌を遂げた。しかし、物質的に豊かになればなるほど、ゆとりからは遠ざかっていく。イタリアの公務員は11時から昼休みを取り、ランチにはワインを飲む。2時に戻ればいい方で、最悪仕事に戻らず帰宅するという。忙しそうに携帯で連絡を取り合うサラリーマンを尻目に、昼間からビールを飲める幸せをかみしめる。
残りのビールを飲み干し勘定を聞くと、また低い声で「450円」。500円玉を渡すとき、男がおもむろに言った。「南国には気をつけな」。なぜ行き先を告げていないのに彼は悟ったのだろう。「なぜそれを」と訪ねると、「この商売長くやってるとわかるんですよ」と言いながらおつりの50円玉を手渡し、また黙々とグラスを洗い始めた。「手荒れにはアトリックスがいいんだとよ」と言い席を立つと、彼は振り向かずニヤリと笑みを浮かべた。
まもなく関空までの1時間半のフライトである
2 関空にて
まもなく関空に到着する。飛行機の窓から下を眺めると、飛行場の明かりが浮かび上がっていた。ここが以前海だったとは想像しがたい光景だった。
到着ゲートに降り立ち、国際線の搭乗手続口へ向かう。手続きが完了するまでの待ち時間をもてあましていると、急に小腹がすいてきた。無理もない、昼食の弁当を1/3しか口にしていなかったのである。とりあえず食事のできるところを探す。ふと、うどん屋の暖簾が目に飛び込んできた。せっかく関西に来たんだから関西風うどんでも食ってみるか。暖簾をかき分け店に入る。5人がけのカウンターだけのこぢんまりとしたたたずまい。俺の外にはカップルが一組とサラリーマン風の中年男性が一人。「きつね一つ」。「はいよ」と低い声。どこかで聞いたことのある声。いや気のせいだろう。店主の差し出したうどんを一気にすする。
北海道育ちの俺にとっては薄すぎる、しかし、むしろこの薄味がうどん本来の風味を引き立て、飽きさせない仕上がりとなっている。関西風うどん恐るべしである。
なにげに函館の男が頭をよぎった。店主に「函館で、南国には気をつけなと言われたんだか、何なんでしょうね」と言ってみた。一瞬怪訝そうな表情を浮かべた店主は静かに切り出した。「虎でしょうかねー」静かに言葉が響く。いつの間にか客は一人もいなくなっていた。なんとなく肌寒い。勘定は650円。金を渡すとき言ってみた「もうかりまっか・・・」。お約束のように「ぼちぼちでんな」。にやついていたが、どことなく冷たい店主の表情が印象的だった。
搭乗手続きを終え出発ゲートへ向かう。途中免税店へ立ち寄る。俺はヘビースモーカー、もちろん目当てはタバコだ。通常1カートン2,500円のケントマイルドを1,700円で購入する。
出発まで30分。もう一杯ビールをいただくとしよう。
ANA354便シンガポール行きの出発時刻は刻々と迫りつつあった。
3 機内にて #1
出発案内のアナウンスが出発ロビーに響いた。足早にゲートへ向かう。案の定行列ができている。なぜ血眼になって先を急ぐのか。ゆっくりと順番通りに進めば飛行機に乗れるし、早く飛行機に乗ったからと言って景品やプレゼントをもらえるわけではない。なんとも旅慣れていない人々である。
セキュリティーチェックを受ける。案の定「ビー」という音が鳴り。係員に呼び止められる。「おじょうさん、手早くすませてくれよ」。「いやん、お客様」こんな会話をすませながらゲートを通過し、搭乗する。スッチーが雑誌を手渡す。もちろん読むのはスポニチと決めている。
スポニチをひととおり読み終え、暇つぶしに音楽でも聴いてみた。「よみがえるモダンジャズ」というプログラムが目を引く。聴診器のようなイヤホンを耳に当て、座席手すりのボタンへ手を伸ばす。間違ってスッチーを呼ぶボタンを押そうものなら、恥ずかしさのあまりせっかくのフライトがブルーになってしまうので、正確な操作が求められることは言うまでもない。チャンネルを合わせるが、いっこうにジャズはかからない。もしやと思いプログラムを確認する。「一部の路線では放送しておりません」の文字。やられた。野球のナイター中継で、延長戦に突入した際にアナウンサーがよく言うあの一言。その後放送が中断されたとき、自分が住んでいる地域がまさにその一部の地域であったことに愕然とするような。ジャズはあきらめてスクリーンに映っている画像で楽しむことにしよう。よくある観光宣伝番組で、東南アジアの観光地をPRしている番組が放送されていた。自分がこれから向かうシンガポールの情報などもオンエアされていると思い見続けたが、ベトナムの情報だけでシンガポールはいっこうに出てこない。15分少々番組はベトナム一色である。ベトナム料理とコーヒーは確かに旨そうではあるが、ベトナムに行くわけではないので、意味がない。ANAの番組にはやられっぱなしである。
機内食と飲み物のサービスがやってきた。機内食はまずくはないが、これと言っておいしいものでもなかった。飲み物はもちろんビールである。現地では日本のビールは売っていないものと思われるため、しばし日本のビールを味わうとしよう。一番搾りをオーダーする。機内では酔いやすいというのが定説であるため、慎重に飲むが、いつもの悪い癖で4本も飲んでしまう。しかし、これには訳があったのだ。Nは全くと言っていいほど飛行機では眠れないのでる。機内の音楽や映像に飽き飽きしているため、酔いに任せて眠る作戦である。心地よい睡魔が訪れる・・・。
機内にて #2
突然眠りが妨げられる。一時間ほど眠っただろうか。Nは激しい尿意に襲われていた。無理もない、一番搾り4本と、搭乗前に飲んでいたビール、ミネラルウォーター効いたのだろう。「急げ、時間がない」そう心の中で叫びながら足早にトイレへ。Nは信じられない光景を目の当たりにした。トイレの前で5人も並んでいるのである。急いで別のトイレへ急ぐが、そこにも3人が待っていた。しかもこちらは全員女性。女性のトイレにかかる時間は男性の1.7倍という統計が頭をかすめる。早急にしかも確実に結論を出さなければ、Nのバルブは機内通路で全開になってしまう。やむなく元のトイレに戻るという結論に達する。
待っている間、じっとしていられないものであるが、あからさまにモジモジするのは恥ずかしいものである。
続く・・・・・