LEGEND OF FOOTBALL PLAYERS

ワールドサッカー史上で誕生した数多くのスタープレーヤーの中でも特に輝いた4人の選手を挙げる。


「神様」 ペレ (エドソン・アランテス・ド・ナシメント)

ブラジルが生んだサッカーの天才。「20世紀最高のプレーヤー」として多くの人が認める、「キング」。

世界で唯一、3度のW杯優勝を経験している。

16歳で代表デビューすると、17歳で出場したW杯・準決勝では後半のわずか26分間にハットトリックを達成。

さらに決勝では、ボールを浮かして大柄なDFをかわし、ボレーで決めた伝説のゴールを含む2得点。

世界にその名は知れ渡った。W杯だけでなく、ブラジルリーグでも大活躍。

サントスを南米チャンピオン・世界チャンピオンに導き、さらにサンパウロ州選手権での9年連続を含む

11回の得点王の記録は当然ながら破られてはおらず今後も破られることはないと言われている。


「スーパースター」 ヨハン・クライフ

彼がいなければフットボールの歴史は20年遅れていた。彼を「空飛ぶオランダ人」あるいは「スーパースター」と呼んだ。

クライフは、アヤックス在籍時の71年、「トータルフットボール」というとてつもない戦術を指揮し、

弱小チームを欧州チャンピオンにまで導いた。

その後、72年、73年と3年連続で欧州チャンピオンズカップを制し、73年に移籍したバルセロナで

当時17位だった弱小チームを一気に優勝へと導く。

そして74年のワールドカップ。クライフ擁するオランダはその「トータルフットボール」で圧倒的な強さを見せつけ

予選を突破し、決勝進出。

相手は「皇帝」ベッケンバウアー擁する西ドイツだった。ペースは圧倒的にオランダ有利。

しかし油断したのか、PKで同点に追いつかれると

「爆撃機」ゲルト・ミュラーに逆転ゴールを許し、まさかの敗北。しかしながら、クライフが与えたインパクトは世界を轟かした。

 

71年、73年、74年に欧州最優秀選手(バロンドール賞)を獲得し、先には今世紀欧州最優秀選手にも選出された。

また、彼のドリブルテクニックの象徴である「クライフ・ターン」はあまりにも有名でもある。

監督としても、バルセロナをリーグ4連覇に導くなど、実績を残している。

クライフは現代サッカーの基礎を作った中心的存在であり、まさに「スーパースター」であった。


「皇帝」 フランツ・ベッケンバウアー

クライフが「トータルフットボール」の旗手ならば、ベッケンバウアーは「リベロ」の概念を生み出した。彼を「皇帝」と呼んだ。

64年に頭角を現すと、その正確なパスと判断力、そしてゲームメイクにも優れたベッケンバウアーは

翌年には西ドイツ代表に選出される。

66年のワールドカップ決勝ではイングランドに敗れはしたものの、MFとして出場。

翌67年にはバイエルン・ミュンヘンのキャプテンとして欧州カップウィナーズカップを制し、タイトルを獲得し、その地位を確立する。

さらに72年の欧州選手権でもキャプテンを務め、ソ連を破り優勝し、翌74年には欧州チャンピオンズカップを制した。

そして、成熟期を迎えた74年のワールドカップ。優勝候補は西ドイツではなく、「スーパースター」・クライフ擁するオランダ。

両チームは決勝で激突することになった。予想はオランダ有利だったが、ベッケンバウアーはオランダの攻撃を次々に阻止。

予想外の粘りを見せ、ついにはオランダを逆転。見事に西ドイツを優勝に導いた

 

72年、76年に欧州最優秀選手に選出され、監督として90年のワールドカップを優勝。

キャプテンとしても監督としても優勝した人は史上初だった。


「天才」 ディエゴ・マラドーナ

ワールドサッカー史上で最も記憶に残るスーパースター。その類稀なるドリブルテクニックとパスセンス、得点感覚はまさに「天才」だった。

15歳でアルヘンティノス・ジュニアーズと契約したマラドーナは、77年に16歳にしてアルゼンチン代表に選出される。

78、79、80年にリーグ得点王に輝き、さらに79、80年には全国選手権でも得点王に輝いた。

79年のU‐19世界選手権ではアルゼンチンを世界一へ導き、翌年、史上最高額でボカ・ジュニアーズへ移籍。

ボカでも81年に3年連続となる全国選手権得点王に輝いた。82年のワールドカップでは2次リーグで敗退したが

マラドーナは5試合出場で2得点を挙げ、世界にその名を轟かす。そして、当時史上最高額の300万ポンドでバルセロナに移籍。

しかしながら、執拗なマークにあい思うようなプレーが出来ずさらに故障も重なり、マラドーナらしくないシーズンとなった。

84年には再び史上最高額の500万ポンドでナポリへ移籍。イタリア・セリエAでマラドーナの真の実力が発揮されることになる。

そして86年ワールドカップ。この大会は「マラドーナのための大会」とまで言われた。

順調に勝ち進んだアルゼンチンは準々決勝でイングランドと対戦。ハーフウェー・ラインでボールを受けたマラドーナは

巧みなドリブルテクニックで2人を交わし、一気に加速。そしてもう一人も交わし、カバーに入ったDFのタックルをも交わす。

そしてGKでさえも交わして、ゴール。「5人抜き」の離れ技を見せ、イングランドを撃破。後世に語り継がれる世紀のゴールである。

準決勝でもベルギーを相手に2人のDFを交わし、GKが反応できないような所へゴールを決めるなど2得点で快勝。

決勝では絶妙なスルーパスを見せ、決勝ゴールをアシストし、世界の頂点にまでたった。

その勢いに乗ってか、86‐87にはナポリ始まって以来のスクデットとイタリア杯を制し、翌年の88‐89にはUEFA杯までをも制覇。

89‐90シーズンでもスクデット獲得。90年のワールドカップはケガに苦しみながらも決勝まで導いたが、西ドイツに敗れ、準優勝。

それでもマラドーナの世界ナンバーワンプレーヤーの称号には変わりなかった。しかし・・・91年に、薬物検査で陽性と判明。15ヶ月の出場停止。

92年にセビリアに移籍。翌年にはアルゼンチンのニュエルス・オールドボーイズに移籍。

94年のワールドカップには出場して活躍を見せたが、薬物検査で再び陽性と判明し、出場不可になった。その後、ボカ・ジュアーズへ戻り、引退。

サッカープレーヤーだけで見れば、間違いなく世界のスーパースターであった。