THE FLIPPER'S GUITAR「three cheers for our side」
11/8大幅編集版





小山田圭吾(圭悟)と小沢健二の歴史の原点。正確にはロリポップソニックの「フェイバリット・シャツ」がそうなんだけども、実質入手不可能でマニア以外には手に入っていない状況を考えてもその表現はまんざら間違っているとも思わないわけで。


基本的にこのコンテンツでは当時の背景知識を語ることに重点を置いていないから、当時のメンバー構成その他云々に関してまでは特に語ることはしないけど、僕の様な音楽素人がこのアルバムを聞いて素直に感じ取れることというのは実は意外と「フェイクな底の浅さ」、


要するに濃縮して胸にもたれるくらいにまでマニアエキスギトギトにしようと思えばいくらでもできる筈の作品を、わざと薄っぺらく作ってるような感覚を僕らに与える、まあ僕なりに例えて言うなら作為の逆説を感じさせるアルバムですよね。


流石に演奏系五人編成バンドの限界点といえばどうしようもないのだけれども、コード進行も複雑じゃないし音のの種類も全然少ないんですよ。彼らのバンドスコア見れば本当に良く分かるけれども、例えば途端にしょぼい例え方で申し訳ないんですけどこのアルバムの曲で携帯の着メロを作るとしますよね。


大抵ね、どんなアーティストのものにしてもねその譜面の和音の一つ一つまで忠実に再現しようと考えたもんならその奥深さにうんざりこくのが大概なんですよ。例えば、表面的には同じ五人編成でこれまた大して捻りのある音楽をやってないように聞えるキンモクセイですら、メロ作りは結構面倒くさいのですな。結構細かい小細工的譜面の取り方とか、やんなきゃいけないし容量もくうんです。


特に「逃げろ」・・・。聴くだけならぺらぺらなのに譜面に起こすとあんなに面倒くさい曲だとは・・・。


それが、このアルバムの曲は違う。普通に薄い(笑)。


聞く分には全く気にならないけど、楽譜にひととおり目を通して見ると・・・。


つまり、彼らについては構成のセンスとコラージュのテクニックのあまりの秀逸さ、ってのがキーワードとしてあげて考えることが出来るでしょ、話ですよね。シンプルものを最高に綺麗に魅せる配置のコーディネート。


例えば・・・実際誰でもいいんだけどここではダリの絵(誰でも良いからダリの絵)のジグソーパズルがあったとしますね。


一応それもね、まあ有名作家の絵だか何だか知らないが、細かいばらばらのピースだけで見たらそりゃ確かに単なる色の粒でしかないわけですよ。単純にシンプルすぎる。


でもジグソーを完成させて、いざ壁にかけて飾ってみますとそこに煌くのは先ほどの色の塊ではなく十分にアートであり芸術品の姿。ただしそれは必ずしも本物ではなくてコピーの独自流の解釈というかフェイクとも言える存在ではあるのだけども、それでも僕らとしてはその完成に大いに感嘆の息を漏らすわけです。おおお大したもんじゃねえか、と。


その結果がついてくれば過程なんかどうだっていい。ピースの色合いの一つ一つにいちいちそれほどまでの注意や関心を向ける人なんかいるわけがないですよね。


パーフリもそうなんですよ。


コラージュだろうが音が少なかろうが究極パクリであろうが、そんな事は全く持ってどうでもいいとしか言いようがないわけですよ。そんなごちゃごちゃ言って無粋に世界をぶち壊すより、完成品を見て満足してる方が僕ら観衆の立場からしても当の本人らにしてみてもどう考えても都合が良いに決まってるはずです。というよりも、このアルバムに「センス」以外について論評する必要性なんて、本来どこにもないんですよ。


ダイヤの原石についてまであれこれぬかしたところでその生成後が鮮明にでも見えてくるわけではありませんから。芸術ってのはそんなもんだと思うんですよ。決して色あせない世界観の基礎の構築。


そんな難しいはずの作業をいとも簡単に(かどうかは知らないが恐らく)こなしていたインディーズのロリポップ・ソニック・・・フリッパーズギターの恐ろしさというか、奥深さというのは簡単に言葉で表現できるものではないと思います。これは作り言葉ではなく、本当にそう思います。


ここからがゲームの始まりです(どっかで聞いたような言葉だなあ)。ここから実質二枚のアルバムの冒険の旅がスタートします。さあ、僕らはなんの心配もなくいるかに跨って世界の先を見に行くことにしましょう。


・・・などとこんなくさい表現はもう二度とする気はありませんが。今原稿をで読み返していて思わず赤面状態。マジで。熱でもあんのかよ、みたいな。季節ずれてるぜ、というか。まあ良くわかんないですけども、ほんとに。


ああ、気持ち悪!





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