![]() THE FLIPPER'S GUITAR「DR.HEAD's WORLD TOWER」 |
| 例えば、痛みは後で傷口として認識されるからそれが「ダメージをうけた証」の形で脳髄に残るわけ。 よく「腹を刺されている事に人に言われて気がついた」っていうのはそこなんですよね。痛みにしろ喜びにしろ、感情なんてその発現の瞬間に別のものの形を借りて己を表出して、そこでようやく認知されて理解されるもの。そしてその事実は何に対しても普遍的で、例外とか万が一、っていう逃げ道を決して作らないひとつの真実であって、ある意味人間はその錠前からは絶対に逃げられない籠の鳥の様な存在であるわけだ。 そんな事実を踏まえてこのアルバムを見ると、こんなにありありとした傷口、って言うものに対する驚きというか戸惑いは未だに残るというか、ある種僕らパーフリストにとっての背後霊に近い何かを感じざるを得ないんだけども。 いまさらそのサイケデリックだとかエロだとかにごちゃごちゃ言う気はないし、彼が彼らなりのゲームだったと解釈するんならそれでいいけども(もしくは露出プレイ的SM要素を含んでる感じなのかなあ。要するにアブノーマル、だよね)、 仮にこのときの彼らの状態っていうものがこの作品の中に現れているものだと理解して解釈するのなら、彼らはなんだかんだと言う前にカメラ・トーク明けラブ・トレインをリリースしたあたりで実はもうフリッパーズ・ギターの終焉を覚悟してたんじゃないんでしょうか(そのあたりについて、なんかエピソードを聞いたことがあったような気もしたがうろ覚えなので挙げない)。というより、もう、やんなった。 だってこの作品にはカメラ・トークで彼らが演出してきた「小じゃれたイタズラ坊主」「お洒落泥棒」の匂いっていうのは全くなくて、物凄いたとえ話で恐縮ですが教室の隅っこでいっつも窓を見てるような孤独ないじめられっこの妄想の果て、みたいな空気と味しかないですからね。 よく引用して考察されるのは、「水夫が船で旅に出て沈没して笑うしかなくなった」っていう「世界塔よ永遠に」の歌詞のフレーズですね。これって、要するに何を空想してどう遊んでみたところでその先に待っている現実の前に僕らは無力だ、っていう、諦めのパーフリ終了宣言な訳ですよね。 いくら彼らが生意気言って遊んでても、その夢の先に何があるのか分からない。その不安感と焦燥感に似たなにかが結局フリッパーズ・ギター終焉のきっかけになったのではないのかな。お互いのことが嫌いになったとか、そんな朝日新聞の芸能欄記事のような感性も何もない低レベルなニュースなんかこれっぽっちも信じようともしない、文系学生の脳は考えるわけです。 だけどそれもねえ、実際作られてた時点で特に痛みとか終了とか何か、そんな具体的にマイナスな意識とかどうとかはきっとなかったはずなんだろうけどね。ただそのときの気持ちのおもむくままに曲作ったり詞書いたりやってたんだけど、実はその感情、っていうのが自分たちの背中に突き刺さってたナイフの痛みだったって、で、それに気がつかなかったって(実際気付きながら作為的にやってたのかも知んないけど。そこはわかんないよ)、そういう事なんじゃないかな。 だからこのアルバムの出来上がりを見て実は一番吃驚したのは彼ら自身だと思うよ。 「お、俺たちこんな・・・傷・・・?」 ・・・ていうかなんかドラマチックじゃない、話の流れ。あまりプライベートや裏側の出来事やエピソードについてネタが乏しい彼らの、意外な一面を覗き見れたような気がして・・・。なんかいろいろかっこよくなってきちゃったり。 というよりもなんかさ、こういうわけのわかんないテーマについてさ、さもわかったような妄想をしてみるのもたまには楽しいかな、とか思って。 |