桜
| 『お掛けになった電話は、電波の届かないに場所にあるか電源が…』 「あんの、バカ…!電源切ってやがる」 伊藤は、手にした携帯から流れてくる案内の無機質な声を切ると、無駄と知りつつ携帯の向こうで眠っているであろう黒田に悪態をついた。 「何が、起こしてくれだ。ったく!起きれないの分かってんなら電源なんか切るなっての!」 これで30分は早く家を出なければならなくなったと、伊藤は溜息をつきながら支度をする手を早めた。2000年のカウントダウンをステージで迎えてからまだ10時間も経っていないのだ。家に帰ってまた出てくること自体、時間のロスが多すぎるくらいだった。 だが、浅倉を筆頭にペットに対して親バカぶりを発揮している面々が揃っているなかで、誰もが帰ることを当然と思っていた。一番会場に近い黒田は、ラピの事もあり慌ただしく帰っていたが、帰り際に伊藤に目覚まし時計程度では起きれなさそうだからと、モーニングコールを頼んでいったのだ。 だが、それも携帯が繋がらなければ何の意味もない。電話すらない黒田の部屋を思い出し、伊藤は絶対に今年は電話を引かせてやると、心に誓った。 もう一度携帯を取り出し、マネージャーの大野の携帯を呼び出した。3度のコールで繋がった相手に、自分が黒田を拾っていく事を伝える。 『まったく、元旦早々何やってるのかしらね!今年も遅刻魔なんて許されないんだから。伊藤君、悪いけどよろしくね』 大野の怒る声に苦笑しつつ、OKと応えて、伊藤は車のキーを持ってコートを羽織った。 元旦という事もあり、道路は空いていて思ったより黒田のマンションに早く着いた伊藤は、インターフォンを何度も鳴らしたが、一向に出てくる気配のないことに諦め、スペアキーで中に入った。 勝手知ったる他人の家で、真っ直ぐ寝室に向かった。向こうからコトコトと軽い足音が近づいてくる。伊藤の足元まで来て急な来客を見上げるラピに笑顔を向ける。 「ラピ、おはよう。ご主人サマはまだ寝てんだろ?」 箱入り娘で人見知りの激しいラピも、見知った伊藤に抱き上げられてクンと甘えた声を出した。ラピを抱いたまま寝室のドアを開ける。 フローリングの部屋の真ん中にぽつねんと置かれたベッドに、シーツに包まる黒田の姿があった。 「…ったく!」 予想していた事だが、未だに爆睡中の黒田を見ると伊藤は殴ってやりたい気分になった。それを抑えてベッドに近づくと黒田の肩に手を掛けて揺さぶる。 「黒田!おい!起きろよ!もう時間が無いんだからな!」 「ん…」 伊藤の方に顔を向けて、うつ伏せて眠っていた黒田が、身じろいだが目は覚めていないようだ。冬だからなのかパジャマを着ている黒田は、どこか子供じみて見える。ゆったりとした襟元からのぞく、浮き出た鎖骨が肌の白さと相俟って妙に色っぽい。時間を気にする必要さえなければしばらく眺めていたいような姿だった。低血圧気味の黒田は時間をかけないと起きられないのは知っているが、仕事となれば話は別だった。 チッと舌打ちして伊藤は片膝でベッドに乗り上げた。強引に黒田の肩を掴んで上向かせる。 「起きろって言ってんだろ?!起きなきゃこのまま襲うぞ!」 引き起こされた衝撃と、間近で怒鳴られてようやく黒田の目が開かれた。 「ん…ん。伊藤くん…?なんで?…」 「何でじゃないだろ!さっさと起きろよ、あと30分で出掛けるぞ!」 低血圧の身体を無理やり起こされた黒田の眼が、まだボウッとシーツを見ている。 「もう11時過ぎてるんだって!」 駄目押しで、もう一度怒鳴られ、黒田の眼が見開かれる。 「え…、えっ?!ヤバッ…!」 やっと現状を把握したのか黒田は慌ててベッドから降りて立ち上がろうとした。その黒田の身体がぐらりと横に揺れる。気付いた伊藤は後ろから抱きとめた。 「バカ!急に動けるわけないだろう!低血野郎が」 「う…うん…ごめん、アリガト」 まだどうしても目覚めない体と頭をそれでも酷使している努力が見えて、伊藤は苦笑して黒田を抱きしめた。それすら認識していないような黒田がぼそぼそと呟く。 「シャワー浴びてくる…。あ、ラピにご飯あげなきゃ…」 フラフラしながらクローゼットから着替えとタオルを取り出した黒田が、足元のラピに気付いてUターンしようとする。 「あぁもう!餌なら俺がやっておくから、さっさとシャワー浴びて眼を覚まして来いよ!」 伊藤に背を押され、やっと黒田はバスルームへ消えた。シャワーの水音が聞こえてきたのを確認して伊藤はキッチンに置いてあるラピのドッグフードを取りに行った。缶を開けて皿に移してラピを呼ぶ。嬉しそうに食べ始める様子を見ながら、その可愛らしさに黒田が親バカになる気持ちが分かる気がした。 「ちゃんと面倒を見てるもんな」 ラピといる時に見せる黒田の無邪気な笑顔が好きだった。普段は見せる事のない表情は、少しの嫉妬を伴いながら伊藤の胸に刻み込まれている。 「さてと」 立ちあがった伊藤はコーヒーメーカーにフィルターをセットして水を注いだ。あまり時間はないがコーヒー一杯を楽しむくらいは許されるだろうと思った。 シャワーの音はまだ続いていて、伊藤はリビングのソファーに腰を下ろした。 時計を見て時間を確認する。文字盤に刻まれた1月1日の日付けを不思議な気分で眺めた。 20世紀最後の年、世紀末を楽しんでも良いのかもしれない。 好きなことを、好きな仲間と、そして好きな者と。 カタンと音がして黒田がタオルで髪を拭きながら部屋に入ってきた。自分の寝起きの悪さを自覚している分、黒田が申し訳無さそうに上目遣いで伊藤を見る。 「あの…、ゴメン。俺、起きなかったんだ…?」 「携帯切ってあったんだよ。いいから、早く服着て来いよ。あと10分な」 えっ、と焦る様子におかしくなり、伊藤は苦笑を浮かべて見せた。 「あ…、ああ」 慌てて部屋を飛び出していく黒田を見送って、伊藤は落としたコーヒーを二つのカップに注いだ。リビングのローテーブルに黒田の分を置き、ソファーに腰を下ろして自分のカップから一口コーヒーを啜った。 ガサゴソとワードローブを漁る音がして、続いてドライヤーの音が響いてきた。あわてて用意をしているのだろう。眼に浮かぶ様子に笑みをかみ殺す。暫くしてバタバタと黒田が掛け込んできた。 「ごめん!用意できたから」 「お疲れ。ほら、コーヒー勝手に煎れさせてもらったから飲んでけよ」 伊藤が差し出したカップを眺め、腕時計の時間を確かめた黒田が右腕に抱えたコートを脇に下ろし、床に座ってカップを受け取った。 「サンキュ…。なんか、みんなやってもらっちゃった…」 「いいさ」 笑った伊藤の顔を見詰めていた黒田がふっと目を伏せた。どうかしたのかと問う前に黒田が口を開いた。 「あ…と、あけましておめでとう。今年もよろしく…オネガイシマス」 「はぁ?」 妙に真面目な、慣れない言葉遣いに居心地悪そうな表情で黒田が告げた新年のあいさつに、伊藤は不意打ちをくらったように固まった。 「なに言ってんの、お前…」 「昨日はちゃんと言えなかったから。…いいじゃん、2000年になったし、新年くらい」 伊藤の反応がおかしかったのか、黒田がクスリと笑う。 「なんか、初めて言われたかも…」 「悪かったな、どうせ俺は口が悪いよ」 憎まれ口がつい口をつきながら、黒田は飲み終わったカップを伊藤の分と合わせてシンクに持っていった。後を着いてきたラピを撫ぜて、留守番を言い聞かせている。伊藤は、その後姿を見ながら、おかしい…と訳も無く違和感を感じていた。 「おい、行くぞ」 立ちあがって黒田を促す。 「ああ、うん」 コートを拾い上げて黒田がその後に続いた。何度となく繰り返されたやり取りの僅かな差異を伊藤は黙って検証していた。 元旦でほとんどの店もデパートも閉店している繁華街は、まるで別の街に来たような錯覚を起こさせる。 「一日そうそう働いてるって、俺達、働き者だよね」 車窓から流れる景色を見ていた黒田が呟く 「カレンダーなんて関係ない生活だもんなぁ…。まぁ、カウントダウンの時は大晦日だって、毎回思うけどね」 今までのカウントダウンライブを思い出したのか、黒田が声を殺して笑い出した。 「昨日、ター坊が歌詞間違えたの、指摘しただろ?めずらしいな」 「え?」 前を見たままの伊藤を黒田が振り返った。 「ああ、…まずかったかな?なんか、知らないうちに言ってた」 思い出して困ったように笑う。 「本当に一回だけの歌だったじゃん。あの歌詞好きだったからさぁ…」 シートに少し埋もれるように態勢を直しながら黒田がぼそぼそと呟いた。 「別に、構わないさ。めずらしいと思っただけで。まぁ、らしいっちゃらしいか」 「どういう意味だよ」 拗ねたような言葉が甘えを含んでいるのを、くすぐったいような気持ちで受けとめた。 「…いつまで、こうしてられるかなんて、分からないじゃん。今だけだって思ったら一つ一つが大切になる…」 何気なく呟かれた黒田の言葉が伊藤の動きを止めさせた。ハンドルを握る手に力がこもる。 先程からの違和感の理由が伊藤の前に落ちてきた気がした。自分としては納得のいかない形で。 「どういう意味だ?」 自分でもはっきりわかるほど硬い声が出る。 「え?なにが?」 急に無表情になって問い詰めるような口調の伊藤を、黒田は驚いたように見詰めた。 「…いつまでこうしてられるか分からないってのは、どういう意味だって言ってるんだよ」 「どういうって…」 伊藤の冷たい口調に、黒田の顔が笑みを浮かべようとして失敗して強ばる。顔の造作が整っている分、無表情になった伊藤は冷たさが際立つ気がした。 「別に深い意味なんて…」 シートベルトをしているにも関わらず、少しづつ黒田は窓際へ身体を移動させた。伊藤から逃れたいというように。 「意味もなくお前はそんなことを言うのか?いまお前は、自分も俺も否定したのと同じなんだぜ?」 「そんな事!…思ってないよ…!」 一瞬、黒田を睨むような強さで視線を投げつけた伊藤は、黒田が眼を見開いて見つめ返すのを視界に止め、また前に向き直った。事務所まであと信号二つの所まで来ていた。黒田が外を見て早く着かないかと思っているのが手に取るように分かった。 「…帰り、送るから」 ウィンカーを出して左折をしながら伊藤が呟く。 「伊藤くん…?」 黒田は伊藤の様子を伺うように問いかけた。朝の優しさから一変した伊藤の本意が分からないというように不安げな様子が伊藤を苛立たせる。 「逃げるなよ」 とどめのように言い渡された台詞が黒田の身体を呪縛した。 元旦のライブはIM自体は3曲のみだったが、浅倉のソロとMAD’S、それとエンディングのトークと1曲があり、それぞれのリハであっという間に時間が過ぎる。開演が早い分前倒しに進んでいく。黒田と言葉を交わす時間など無いほどに。 DAファミリーと言われる大介プロデュースのアーティストが集まるのは初めてではないが、本当の内輪というなら今回のメンバーだろうと思う。気楽な中の緊張感が心地良い。ライブが夏以来だというのもあるだろう。うれしそうだった黒田を思い出した。今日が終われば暫くはステージに立つことはないのだ。 「…ター坊、大丈夫かな」 隣でボソッと呟かれた言葉に、意識を引き戻される。スタッフが慌ただしく行き来するステージ袖にみんなが集まり始めていた。一番手のキンヤが浅倉の横でなにかしらアドバイスをされている。 「熱が下がってないみたいなんだけど…」 会場入りして初めて会話を交わした気がした。 「喉にはきてないみたいだから、大丈夫だろう?もしそうなっていても、ライブをやめるなんて言うわけないしな。おまえもだろ?」 「…まあね」 身に覚えが有りすぎるのか苦笑混じりで黒田が答える。ふっと和んだ空気に救われたと思ったのはどちらだったのだろうか。 「じゃ、行ってきます!」 キンヤの声がして、開演が近い事を確認する。 「伊藤さん!黒田さん!行ってきます!」 緊張した笑顔で袖にラジカセとマイクを持ってスタンバイしたキンヤを、伊藤と黒田はデ・ジャ・ヴュを感じながら見送った。 「なんか、伊藤さん、MAD’Sの時の顔してますよね」 長身の伊藤の顔を見上げるようにキンヤがそんなことを言った。 年末年始の忙しい中、無事にイベントを終えて、スタッフ共々簡単な打ち上げをしていた。明後日にはまたFCのイベントが待っているので、手放しに浮かれられなかったが。 一息ついて壁の花になっていた伊藤の側にキンヤが懐いてきていた。 意味がつかめずキンヤを見返すと、キンヤはポリポリと頭をかいて困ったようにテヘっと笑った。 「おこんないでくださね…。恐いカオっていうか、真剣な顔?」 「は…」 キンヤにすら指摘されるようなら、みんなにばれてるだろうと可笑しくなった。キンヤが恐いと言った視線の先には、伊藤から逃げまくっている黒田がいる。今は西川と何かしら話しながら笑っている。 「伊藤さん…?」 急に声も立てずに笑い出した伊藤を、ビックリしたようにキンヤが見つめる。 「なんでもないって。お前はまだ帰らなくてもいいのか?」 すこし表情のやわらいだ伊藤にやっと安心したのかキンヤがホッとしたように笑う。 「俺、取りあえず門限ないんで」 「…まぁ、ハメ外しすぎるなよ。俺らは帰るわ」 ポンとキンヤの頭を一つ叩いてその場を離れるのをキンヤが驚いたように見送った。人波の中をぬって黒田のもとに向かう。獲物を逃さないようにタイミングを計るのに似ている気がした。不自然でないように横に並び、腕を取る。 「おい、帰るぞ」 声をひそめて囁いた伊藤に、過剰なほど驚いて黒田が振り向く。 「なに、いとちん達帰るんか?なら俺も帰ろかな」 西川が黒田と話していた名残のまま関西弁で二人に笑いかける。 「風邪は?」 「薬効いてて、絶好調や」 やつれた顔を笑顔で誤魔化しているのが見え見えだが、まだ大丈夫のようらしい。 「なんか、ヴォーカルってそんな奴ばっかだよな」 「お前に言われとうないわ。ほな、見つからんうちに消えよ」 辛い身体をだまして笑っていた西川が、素の顔をみせて二人に手を振った。もう限界に近いのだろう。 「あ…、俺は…」 取り残された黒田が悪あがきのように伊藤から離れようとするが、薄い笑みを浮かべたまま伊藤は腕を掴む手に力を込めた。 「送るって言ってるだろ。帰るんだよ」 もう一度断言した言葉に、黒田は諦めたように下を向いた。 車を運転するからとアルコールは乾杯だけにしていた伊藤の運転はスムーズで、ガラ空きの首都高を飛ばしていく。 「…何をそんなに怒ってんのかわかんねぇよ…」 事務所の駐車場に着くまでも、車に乗ってからも一言も口をきかない伊藤の責めるような沈黙に耐えられなかったのか、先に口を開いたのは黒田だった。 「分からないって?」 苛立ちが伊藤を包み込む。なぜ、黒田に分からないのかと思う。無意識だとしてもあれは黒田の本音だ。 「…先がどうなるか分からないって思ってるのは本当だから…」 黒田が言いづらそうに呟く。 「明後日のイベントが終わったら、IMは活動休止で…。それが必要だって分かってるけど、でも、不安じゃないって言ったら嘘になる」 言葉にした事でよけいに苦しくなったように、黒田が口を手で覆う。その口から歌が紡がれるのはもうしばらくないのだ。 「それは俺も同じだろうが…」 浅倉大介を挟んで対に立つのは、自分たち二人だけなのだ。それを誰にも譲るつもりはない。 「違うよ…。伊藤くんは自分で音を作れる人だからさ…」 自嘲気味に笑う黒田の目が一瞬すがるように伊藤を見つめた。 「俺は、入れ物だから。音を注がれていなけりゃ枯れてしまいそうな気がするんだよ…」 暗闇の中を走る車は、外の世界から自分達二人を切り離しているかのようだった。その閉じ込められた空間の中に重い沈黙が落ちる。 伊藤は、胸が冷えていくのを感じながら、ハンドルを握り締めた。 信じていないのだ、黒田は…。 伊藤の言葉を。 何度繰り返したか分からない「愛してる」を。 「だからって、俺にまで線を引くのか?俺は…、俺はいつもお前の側にいるって言ったはずだ」 「分かってるよ…」 「分かっていないね!」 叩きつけるように叫んだ言葉に黒田がびくりと竦む。 「…どうすれば信じる?」 黒田を見詰める伊藤の眼に暗い炎が灯る。クスリと漏らした笑みが危険な言葉を紡ぎ出す。 「このまま、お前と死んでみせようか?」 「な…っ、なにバカな事言ってんだよ!」 黒田が驚きに眼を見開いて叫ぶ。それに唇の端だけで笑って返して伊藤はこともなく言った。 「簡単だ。いまお前にキスして、そのままアクセルを踏み込めば良い。…飲酒運転の事故で片付くだろ?」 「やめろって!冗談でもそんなこと!」 冗談で済ませたい黒田を捕まえるように伊藤が左手を伸ばしてくる。首を抱き寄せて口付ける時のように。 「本気だって言ってる。まだ信じないんだ?」 運転している事を忘れたように黒田を見詰める伊藤に捕らわれ、黒田は動けなかった。意識はいつハンドルを切り損ねてもおかしくない今の状況を危険だと訴えているのに、喉が詰まって言葉にうまくならない。 「あぶないって…。前見ろよ…!」 「黒田!」 そんな言葉が聞きたいのではないと伊藤の視線が黒田を追い詰める。 「…分かったから!だからバカなマネは止せよ!」 伸ばされた伊藤の手を振り払って、黒田が叫ぶ。そのまま手で顔を覆って俯いてしまった。その様子を見ながら、伊藤はハンドルを握る手に意識を戻した。黒田を追い詰めたいわけではないが、黒田が自分を信じないまま離れていく事など許せなかった。 車は首都高を降りて、黒田の部屋に向かう道を辿っていく。 「なんなんだよ…!こんな風に、俺をからかって楽しいのかよ…!」 「まだそんな事言うのか?お前は言葉なんかじゃ信じないだろ?」 駐車場に車を止めた伊藤が、カチリとシートベルトを外して、黒田のシートを倒して覆い被さる。 「好きだ…」 唇にその言葉ごと注ぎ込まれたような口付けをされた。長く柔らかな口付けに居たたまれなさを感じて、黒田は伊藤の胸を押し返した。 伊藤は、やっと離した唇で、こんどは黒田の喉元を辿っていく。 「や…めろよ…!こんな場所でなに考えてんだよ!」 微かな痛みをともなって触れる感触に、このまま流されそうな恐怖を感じて黒田は抵抗を始めた。 「ここじゃなきゃ良いんだ?」 揶揄するような伊藤の言葉が黒田を追いつめていく。黒田は伊藤の肩を押し止めて悔しげな息を漏らした。 「俺は、いつでも思い通りになるオモチャかよ…!」 ポツリと呟かれた言葉に、伊藤は痛みを覚えながらそっと黒田の髪に触れた。 「違うさ。遊ばれてるのは俺の方だろ…。お前の言葉一つで壊れてく」 驚いたように黒田が伊藤の顔を見上げる。赤い髪が覆う伊藤の瞳が思いつめたように真剣で黒田は息を飲んだ。 「…わかんねぇよ。なんでそんな風に言えるのか…。歌っていない俺にも、そう言えるのかよ…」 泣き出しそうな声が、痛む傷口を掻き毟るように言葉を作る。黒田にとって何よりも怖い事だったのだろう。歌えなくなる事が。 「俺から歌を取ったら、何が残る?必要じゃなくなるくらいなら…」 「黒田!」 それ以上言わせたくなくて、伊藤は黒田の腕を掴んで振り向かせた。 「好きだって言ってる。歌っている時も、歌っていない時も、お前はお前だから…。運命共同体ってだてに思っている訳じゃないさ」 どう言えば黒田に伝わるのかと伊藤は思った。他の誰でもダメなのだと、黒田だけなのだとどうしたら伝えられて、その不安を取り除けるのか教えてほしかった。 「好きだよ、信じろよ…」 取った黒田の手に何度も口付ける。体を堅くしたままの黒田は俯いたまま伊藤のするままに任せていた。その頑なさが伊藤を拒絶しているようで、初めて出会った頃の事を思い出させる。気に入らない奴だった黒田が、こんなに大切な存在になるとは思ってもいなかった。大切で、愛しくて、大事にしたいと思うと同時に、自分だけのものにして滅茶苦茶にしてしまいたくなる。 伊藤は焼けつきそうになるなる思考を宥めると、黒田の髪を掻き上げてそのまま顔を上げさせて唇を重ねた。 「…明日も迎えに来るから。ゆっくり休めよ」 身体を起こした伊藤は、シートに座りなおすとエンジンを掛けた。 驚いたように黒田が目を見張る。何か言いたげに唇を開いたが、何も言わずドアを開けて外に降り立った。 ウインドウを降ろして伊藤は黒田を見上げた。 「…俺がほしいvo.は、お前だけだから…」 伊藤が言った言葉に、はっとしたように黒田は車のドアに駆け寄った。閉まるウィンドウの向こうの伊藤を見詰める。それに微かに笑みを返して伊藤はアクセルを踏み込んだ。 その瞬間、目の前に飛び出してきたものに、伊藤は慌ててブレーキを踏んだ。 「バッ…!バカ!何してんだよ?!」 ぶつかる寸前で止まった車の前に立っている黒田の姿に、伊藤は血の引く思いがした。ウィンドウを下げて顔を出して思わず怒鳴っていた。 そんな伊藤の様子など気に留めないように、黒田が運転者側のドアに近づき、タイヤを蹴りつけた。 「黒田?!」 「バカはどっちだよ!このまま俺を一人にして帰るのかよ?俺は言葉じゃ信じないって言ったのはそっちだろ!」 叫んだ黒田は、両手をコートのポケットに突っ込んだまま伊藤と眼を合わせようとはしなかった。だが、全身で伊藤に行くなと訴えているようで、伊藤はエンジンを止めて車から降りた。 「今日、泊まったら…俺、お前を抱くよ」 それでも構わないかと確認するように、黒田の目を覗きこむ。 答えることなどできずに、唇を噛んで視線を逸らせた黒田は、踵を返すとマンションのエントランスへ歩き出し、伊藤もそれに続いた。 玄関のドアが閉じた瞬間、伊藤は黒田を抱きしめていた。外気の冷たさを纏ったままの抱擁は何故か無機質な感触を与えた。 「冷たいな…。冷え切ってる」 抱き寄せた髪も触れた頬も体温を感じさせず、伊藤の中の不安を煽りたてる。 「お前も同じだよ…」 伊藤の肩に頭を預けた黒田が呟く。その顔を上げさせて、伊藤は口付けた。乾いた感触の唇に舌を這わせる。抱きしめても不安が消えるわけではないと分かっていても、腕の中の黒田を離せなかった。 おずおずと背に回された黒田の手が、伊藤をホッとさせる。 「キャン!」 暗いままの部屋からラピが駆け出してきて、二人の足元に纏わりつく。気付いた伊藤はバツの悪そうな顔をした黒田の体を離した。 「ただいま、ラピ」 手を差し出した黒田の胸に、嬉々として飛びこむラピの姿を伊藤は苦笑して眺めた。そして黒田の先にたって部屋に入っていく。ラピを抱いたまま後に続く黒田に、朝と同じようにラピの餌の用意をして渡した。 「サンキュ…」 「どういたしまして」 微笑う伊藤に、居たたまれないように黒田は俯いた。 「…なんでそんな風にできるんだよ。俺だったらこんな風にされたらムカツイて帰ってる」 「それは、お前のは本気じゃなかったからだろう?」 実際、こんな事くらいはどうという事もなかった。許せないというなら、ただ黒田が自分から勝手に離れていく事だけだった。恋は一人だけのものではないのだ。 「そんな事…」 否定できるものがないのか、ラピの側に屈みこんだ黒田は言葉をにごした。 「本気なのは、今だって言えよ」 言いながら伊藤の手が黒田の腕を掴んで立ちあがらせた。びくりと体を振るわせた黒田だったが、伊藤が促すまま立ちあがった。 黒田は迷いを訴えるような視線で伊藤を見上げたが、伊藤は黒田が自分で決めるのを待っていた。自分で選んだなら引き返せない事を知っているからだ。 「ずるいよな…」 「お前もだろ?」 無言で寝室のドアを開けた黒田の後に伊藤は続いた。暗いままの部屋に、ルームライトを点けようとして、黒田に手を遮られた。 その手を捕らえて暗闇の中で引き寄せる。 ドアに押しつけて、噛みつくような口付けを交わす。息を奪われて黒田が顔を背けようとするのも許さずに、何度も角度を変えて口付けた。黒田の手が抗議をするように背を叩くのも構わなかった。 「んん…っ」 体をドアに預けた黒田のシャツのボタンを外しながら唇で喉元、胸と辿っていく。うまくボタンが外れないもどかしさに引き千切ったボタンが足元に転がった。 黒田の前に跪いた伊藤は、やっとあらわになった肌に舌を這わせ、浮き出た腰骨の側の薄い肌に歯を立てた。 「いと…っ!」 驚いたような黒田の声が聞こえた。それに構わず、コートごと黒田の体からシャツを剥ぎ落とした。 細い腰を抱き寄せて軽く背筋をなぞり上げながら、もう片方の手を胸元に伸ばして愛撫をする。指先に触れる突起を指で挟み込んで爪を立てた。 「やっ…!」 黒田の体がびくりと跳ねた。それを押さえつけて、もう一方を口に含む。 「ま…待て…よ!」 急激に追いたてられる快楽に、黒田は伊藤を止めようとしたが、逆に舌で弄ばれていた果実に歯を立てられて息を飲んだ。体を支えている足元から力が抜けていくようだ。ドアに完全に体重を預けた格好になり、不安定さに伊藤の肩に置かれた手に力が込められた。 「悪いな…今日は抑えが効かないらしい」 ぺろりと臍の横を舐め上げて答えた伊藤は、黒田の身体を探る手を一瞬も止めなかった。 「何、言って…」 カチリとベルトを外す音が、黒田のぼうっとした意識を引き戻した。ジッパーが降ろされ、スリムなGパンが引き下げられて前が露わにされようとした。 「やっ…!」 下腹を探りながら降りていく唇を、頭を掴んで引き剥がそうとしたが、力の入らない指は簡単に振り払われた。 「はぁっ…」 黒田の息を飲みこむ声と同時に、伊藤の髪に指しこまれたままの指に力が篭った。 「黒田…?」 幾分心配そうな声と共に、頬に触れる感触が黒田の意識を呼び起こした。 「あ…っ」 軽い失神状態に陥っていたらしい黒田が、薄く目を開ける。自分の胸に重なる伊藤が間近に顔を覗きこんでいた。 一度追い上げられた身体を伊藤に抱かれて、ベッドに場所を移していた。苦しいほどの愛撫の手に、息すらできないほどだったのだ。 黒田は、はっとして身じろいだ途端、身体の中の伊藤を意識した。ギリギリまで広げられた個所から走る痛みに声が上がる。 「い…っう」 「力抜けって…」 伊藤は肩にすがる黒田に爪を立てられ、痛みに眉を寄せた。何度抱いても慣れる事のない痛みを黒田に強いているのは自覚していた。 だが、黒田をほしがる衝動を抑える事はできなかった。 「や…できな…」 痛みに快楽を忘れた身体が震えて、伊藤を咥え込んだ個所の痛みを増長させる。伊藤は、黒田の中のきつさに、今にも搾り出されそうになりながら、黒田の痛みを和らげようと細い腰のラインをなぞりながら、中心へ愛撫の手を伸ばした。 「んん…」 首にしがみついて来た黒田に、宥めるように口付ける。無意識に流れている涙を親指で拭い取った。舌を絡めながら、少しづつ黒田の身体の強ばりが解けていくのを待った。 「好きだよ…」 耳元に何度も繰り返して、瞼に口元にやわらかいキスを落とした。 「いと…」 黒田が、ゆっくりと涙の跡を残した瞳を開けて伊藤を見詰め返した。肩を掴んでいた手が首に廻され自分から口付けてきた。伊藤は黒田の首を抱き寄せ深く何度も口付けると、黒田の熱で限界の近くなっている自分を解放するため動き出した。 「はぁっ…ぅ…」 甘さを滲ませた声が伊藤を煽りたてる。 「好きだよ…。信じろよ」 熱く溶け始めた黒田の身体を突き上げながら、伊藤は何度も黒田の耳に言葉を注ぎ込んだ。 伊藤が繰り返す言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、黒田はゆるく首を振りシーツに黒髪を散らばらせて、快楽に耐えているようだった。 「黒田、信じるって言えよ」 伊藤の言葉を信じたいと抱き返す腕は訴えているのに、黒田の唇は噛み締められたままで。 黒田の言葉を乞う自分の滑稽さを自嘲しながら、伊藤は決して言葉をくれない黒田の身体を抱きしめ、一際深く突き上げて二人の頂点を求めた。 「うん、風邪っぽいらしいから、俺が迎えに行くから。大丈夫、薬あるし。じゃあ、明日」 マネージャーへの連絡を終え携帯を切ると、伊藤はベッドに戻り、まだ目覚める気配のない黒田の、疲労の濃く残った顔を見詰めた。 唇に残った微かな血は、伊藤がほしがった一言を最後まで拒否した黒田の抵抗の跡だった。 不安なのは自分の方なのだと伊藤は自覚していた。このまま、黒田を閉じ込められるなら、この不安は消えるのだろうかと思った。 恋人とすら呼べない関係の、終わりはどこかにあるのだろうか。 「…終わらせない」 伊藤は、黒田の身体に寄り添い抱きしめて、誓うように呟いた FIN |