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新幹線ホームに降り立ち、伊藤は狭いシートに押しこんでいた体をようやく伸ばした。日本人サイズのものは伊藤にはすべて小さく感じられる。
身長のせいか、よく人に見ている世界が違うだろうといわれるが、そんな事はないと思う。遠くを見つめていた筈の眼は、いつのまにか保身を覚え、足元だけを見るようになっていた。
疲れた足取りで切符を自動改札にさし込み、改札を出る。人の波に乗って八重洲口に向かおうと歩き出した。

「あ…れ?伊藤?」

突然掛けられた声に驚いて振り向く。その声だけで誰かは分ったけれど。

「黒田…」

応える声が自分でもみっともないほど掠れている。数ヶ月ぶりに見る黒田の笑顔がそこにあった。記憶の中の彼より少し柔らかな印象はゆるくウェーブのかかった髪のせいだろうか。明るめのブラウンになった髪がスタジオに篭っている為か白さを増した肌に掛かっている。

「なんか久しぶり…。すっげえ偶然。どしたの?こんな時間に。イベントかなんかの帰り?」

屈託なく笑いかけてくる黒田が眩しくみえる。
今まで自分に纏わり付いていた倦怠感が、黒田が今ここに居るというだけで消えていくような気がした。
会いたかったのだと、心が本音を叫ぶ。
乾ききった心に水を与えられたように、自分の中の苛立ちが治まっていく。ずいぶん久しぶりに心からの笑みを浮かべていた。

「ああ…、大阪行って来たんだ」

「え?じゃあ大野ちゃん達も一緒?」

嬉しそうに視線を後方に向ける黒田には、今までの拘りは何も感じられなかった。その様子が伊藤を楽にさせる。お互いに了承しての事とはいえ、黒田一人が事務所自体変わるという形での、ソロワークのスタートだったのだ。同じ立場で居ながら、一人今までの環境で音楽を続けている自分を、黒田がどう思っているか不安だった。

「や、俺だけ用事で一本遅くなったんだ、だから…」

「倫弘!」

言いかけた言葉を遮られて、伊藤は初めて黒田が一人ではないことに気付いた。黒田と同年輩のサラリーマン風の男が黒田の隣に立っていた。出張なのか黒のキャリングバックを持っている。
伊藤は彼の呼びかけた黒田の名前のイントネーションが自分達と違うことに気付いた。だが、何よりも伊藤はその男が呼んだ『倫弘』という名前に動揺している自分に気付いていた。
男に呼ばれて思い出したように黒田が振り向くと、彼に伊藤を紹介しようとした。

「ああ。ほら、Icemanで一緒だった…」

「あ、伊藤賢一!」

言いかけた黒田に、その男は思い出したというように伊藤を指さしフルネームで名前を呼んだ。だが、そんなことよりも、伊藤の胸を黒田の一言が刺し貫いた。
自分の動揺を知られたくなくて逸らした視線が男のものと合う、慌てたようにその男は手を引っ込めると笑顔を見せた。

「すんません。いつも仲間内で噂してるんで。しっかし、まじにデカイっすね」

悪びれず伊藤を見上げてくる男は黒田より5センチほど背が低かった。その様子を笑って見ていた黒田に視線を戻す。

「ごめん。こいつ高校の同級生で、今日出張でこっちに来ていたからちょっと飲んで、見送りに来たとこなんだ。悪気はないから許してやってよ」

苦笑しながら説明した黒田は、あまり悪いと思っている様子もなく、楽しげだった。

「なんだよ、えらそうに」

軽口を叩いている二人を見ながら、伊藤は黒田の一言一言に自分の心臓を切り刻まれていくのを感じていた。
過去形で自分のことを話す黒田を見る日が来るなど想像もしなかった。
伊藤は自分の中に湧き出してくる暗い感情を必死に抑えこんでいた。

「ああ、俺、もうホームに行くわ。見送りここで良いから」

「え、改札まで送るよ」

一緒にいる伊藤に気を遣ったように笑顔を見せる男を、伊藤は神経を逆撫でされるような気分で見やった。彼に何も含むところはない筈だった。だが、黒田のその男に向ける親しそうな笑顔が伊藤を苛立たせる。

「いいって。じゃあな、倫弘。今日はサンキュ。今度帰ってきたら連絡しろよな」

慌ただしく手を振って改札に向かった同級生が、改札を通りぬけていく姿を黒田は見えなくなるまで見送っていた。


 

「お前、どうやって帰るの?」

ようやく振り向いた黒田が伊藤を見上げ訊ねる。伊藤は帰るという言葉を言うタイミングを逃して黒田の傍に立ったままだった。いや、言えなかったという方が正しいのかもしれない。

「ああ。事務所に車置いてあるから、いったん事務所まで帰るんだ」

上の空で答えている自分に、何も気付かないように黒田は笑みを見せる。

「じゃあ、事務所まで送るよ。今からタクシー拾うのも大変だろ?」

「お前、それって飲酒運転って言わないか?」

わざとらしく眉を顰めてみた伊藤の肩を軽く叩い促し、黒田は八重洲口の駐車場に向かって歩き出した。

「平気平気。そんなに飲んでないって。俺もこの後仕事残ってるし」

黒田の隣を歩きながら、伊藤は貪るように黒田の姿を見つめていた。スタジオに篭もりがちでいつの間にか夏になっていた世間に驚くような生活だったが、黒田の黒のノースリーブ姿は、これから暑くなる季節を実感させるようだった。
去年の暑かった夏の黒田のイメージだからかもしれない。

「仕事って、お前も事務所に帰るんなら俺のところはいいよ」

この時間から始めるのかと、少し驚きつつ伊藤は黒田に問う。

「違うって。自宅作業。最近すっかり昼と夜が逆転しててさ、今の体内時間て昼間」

駐車していた車のロックを解除した黒田は、気遣う伊藤が珍しいと言わんばかりに伊藤の顔を見返して、早く乗るようにとドアを開けた。
伊藤は助手席に乗り込みながら、シートを後に下げる。

「…そうなんだ。レコーディングの最中だっけ?」

「…つうか、まだ仮歌入れなんだけど。うん、取りあえず納得がいくまでやらないと。妥協したくないからさ」

そう言って笑う黒田の瞳の中に、決意と自信が垣間見えた気がして、伊藤は視線を外の風景に向けた。
自分の知らない世界で同じ仕事をしている黒田。それは非現実的で、でも確かに今自分の前にいるものがそうなのだと、伊藤は再び胸が痛くなってくるのを覚えた。こんな感覚は自分だけなのだろうか。黒田はそんな事は思いもしないのだろうか。
惑うのは自分だけで。無くしたような寂しさを抱えているのも、今、黒田の傍にいる見知らぬ誰かに嫉妬を覚えているのも。

車は慣れた道を辿り、ダーウィンの事務所に向かう。もう何年も通った道で、二人で通うのも数えきれないほどだった。それが無くなって半年が経った。もう黒田の居ない風景にも慣れたと思っていた。
新しい人間関係も、仕事の内容も、無難にこなしてきたはずで。

なのに、何故こんなに胸が苦しいのか。

「伊藤くんの方はどうよ。大ちゃん達元気?」

黒田が会えないでいた間のニュースを聞きたがるのに生返事で答えながら、伊藤は胃が痛くなるような感覚を覚えた。身体が拒絶反応を起こしているようだった。
黒田とこんな話をしたいのではなかった。会えなかった間の黒田の事は知りたくて知りたくなかった。自分のものでない黒田など…。

「…車、止めてくれ」

「え?」

無意識に口から出た言葉に黒田が驚いて伊藤を振り返った。俯いている伊藤を黒田は心配げに見やった。

「どうしたの?車に酔った?」

乗り物に酔いやすい伊藤の体質を知っている黒田は、慌てて路肩に車を寄せた。何も言わない伊藤を心配して、シートベルトを外すと窓を空けて外気を入れた。

「降りるよ…。ここまででいいから」

「何言ってんだよ?」

もうこのままここに居る事が耐えられずに、伊藤はドアを開けて車を降りようとした。驚いたように黒田はその腕を掴んで引き止める。

「まだかなり距離があるじゃん。少し休めば大丈夫だろう?今度はゆっくり運転するから」

自分の運転で伊藤が具合を悪くしたのではないかと、黒田が気にして居る様子がありありわかる。伊藤はそれすら苦しく感じて顔を背けた。
今の自分にとって、黒田は眩しすぎた。自分の醜さを付きつけられるようでたまらなかった。
自分を気遣うその姿さえ、伊藤にとっては欲望を煽るものだった。

「いい、歩きたいんだ」

そう言ってドアを開けて車を降りた伊藤を、黒田も慌てて追った。歩道を歩き出した伊藤の腕を引く。

「どうしたんだよ?!おかしいよお前!」

伊藤の行動の意味が分らず混乱したような黒田が、伊藤の目を覗きこむ。

「ほっとけよ!」

「伊藤!ざけんなよ、そんな事言われてハイソウデスカなんて納得できる訳ないだろ!」

正面から伊藤を見据えた黒田と視線がぶつかり、言葉もなく睨み合った。伊藤の視線が足元に落ちて、その口元から疲れたような溜息が漏れた。
黒田はその様子を見て困ったように伊藤の腕にそっと触れた。僅かに伊藤が体を引くのを感じて手を引っ込める。

「…なぁ、俺、何か気に障るような事言った?」

伺うように伊藤の顔を覗きこむ黒田の顔は心配げで、伊藤はその好意に値しない自分を笑った。自嘲する自分の裏側で、本当の自分の望みを知ったら黒田はどんな顔をするのだろうかと、サディスティックな感情が頭をもたげてくる。
自分が黒田をどう思っているか、今ここにある身体をどうしたいのか、ここで黒田に告げたなら。

「嫌なんだよ、久しぶりに会えたのにこんな風に気まずいカンジで別れるなんて…」

伊藤の答えを待つ黒田を、一瞬憎いと思った。自分の苦しみを理解できないであろう黒田に、この苦しさを分けてやりたいと思った。
自分のものになる事の無い黒田の中に、自分の存在を刻み込めるなら。

「…気に障ることだらけだよ。お前のしてる事全部ね」

「え…?」

低く呟いた言葉に、黒田が驚いて目を見開く。今までと様子が変わった伊藤を感じ取って無意識に一歩後に下がった。それを追うように伊藤が一歩近づく。

「お前が一人で歌ってる事も、新しいスタッフに囲まれて笑ってる事も、なにもかも!」