桜
「お邪魔します〜!」
久しぶりに訪れた黒田の事務所のドアを開けて、伊藤は声を掛けた。
「あ、伊藤くん。久しぶり。あれ、もしかして明けましておめでとうなのかな?」
テーブルに向かってクロスタ嬢と作業をしていたらしい大野が振り返って笑顔を向けてくる。
「そうでしたっけ。今年もよろしくお願いします。ということで」
愛想の良い笑顔を向けながら、伊藤は目当ての人の姿を探す。
「黒田なら、買出しに行ったわよ。すぐ戻ると思うけど」
伊藤の言いたいことを察した大野が笑いながら言ってくる。
「ああ、ちょっと遅かったかな。差し入れ持って来たんですけどね」
伊藤はそう言って、手にしていたペーパーバッグを持ち上げて見せる。約束の時間より、自分の仕事がかなり早く終わった事もあり、時間をどうやって潰そうかと思ったが、だったら黒田の側に居られるほうが断然良いと思い、早々に差し入れ持参でやって来たのだ。
「あら、嬉しい!」
差し出された某有名店のロゴ入りのケーキボックスを受け取って、大野がにっこりとする。
「ちょうどいいな。お茶にして休憩しよう。黒田もそのうち来るでしょ」
ケーキボックスを受け取った大野が簡易キッチンに行くのの後を追ってクロスタ嬢も席を立った。残されたのはテーブルの上に広げられた何十枚もの写真だった。
「あ、これ」
1枚を取り上げて伊藤は思わず声をあげた。
「そうそう、この間のアリゾナの時んのよ。FC会報に使うのを選んでるの。写真集に使うものは別にしてあるから今は出てないけど」
黒田から帰国した後、一度電話で話しは聞いたが、実際に写真を見るとあの11日間の黒田の過ごした時間を感じ取れる。
「見て良いけど、順番崩さないでね」
「あ、はい」
大野の言葉に上の空で応えながら伊藤は写真に釘付けになった。
大変だったこと、楽しかったこと、何も聞かなくても写真の中の黒田が語りかけてくる。
伊藤は、大野が座っていた椅子に腰掛け、むさぼるように写真を一枚一枚見ていった。笑顔もあれば疲れを隠せないものもある。辛そうな表情のものには胸が痛くなった。
気の置けない内輪だけの中で、力の抜けた素の表情を見せているものも多い。
写真を持つ伊藤の手が一枚の写真で止まった。
ベッドで眠る黒田。
撮影用ではなく、本当に眠っているところを撮られたものらしく、おそろしく無防備だ。
(やべ…)
心の中で呟いてしまったのは、自分自身の理性に対して。
何度見たか分からない黒田の寝顔。
でも、それは自分だけに許された特権だと思っていた。
子供のように無心で眠る黒田の表情は、伊藤の庇護欲をそそるものだった。それと同時に子供には有り得ない色香で伊藤の欲をそそるもので。
なんど眠っている黒田に手を伸ばしそうになったことか。
(誰にも見せたくない)
そう思ってしまう自分に罪は無いと思う。
この写真を撮った人物にすら嫉妬してしまうのに、この表情を何人もの人に見せるなんて…。
そんなの出来ない。
とっさに伊藤はその写真だけポケットにしまい込んだ。
ドキドキしながら大野達の方を伺うと、コーヒーをカップに注いでいるところで、こちらの方に気づいた様子はなかった。
「伊藤くん。そこのテーブルは使えないからこっちのソファーの方で良いかな?」
「あ、はい!」
大野に声を掛けられて伊藤は飛び上がるように椅子を立つと奥の簡単な応接セットに向かった。
「ただいま〜。って、あれ、なんでもう来てるの?」
ドアを開けて入ってきた黒田が、伊藤の姿を見つけて声をあげる。
「仕事が早く終わったんだよ。なので陣中見舞いもかねて」
やっと会えた本物の黒田の姿に、伊藤の笑みが崩れる。
「差し入れを貰ったからコーヒーを淹れたところなの。黒田はどれが良い?」
ケーキボックスを取り上げて大野が黒田に訊く。
3人の前に並んだケーキを見ていた黒田が悩んだ顔をする。
「あ、俺いいわ。ちょっとケーキは…」
さすがに申し訳なさそうにいう黒田に、伊藤が笑顔を向ける。
「大丈夫。黒田のはこっちにあるから」
持ってきたペーパーバッグの中から取り出した紙の箱を黒田の手に乗せる。
「あ〜、たいやきだ」
黒田が嬉々とした表情になるのを、伊藤は幸せを感じながら眺めていた。
「お前、ここのたいやき好きだろう?ちょっと冷めちゃったけど、焼き立てを買ってきたんだ」
少し得意げに伊藤が話すのを半分聞き流しながら、黒田はふたを開けて一つを取り出した。
「すっごく久しぶりかも」
ソファーに座る間もなく頭から齧った黒田が、伊藤に笑みを向ける。
「うん、うまい。サンキュ」
その笑顔に伊藤は場違いなデパートの食品売り場に並んで買った苦労が報われたと思った。笑みを浮かべる頬に触れて、甘いはずの唇に触れたい…そんな衝動が襲ってくる。
「相変わらず、2人の世界を作る人達ね…」
呆れたような声が割って入って、ハッと伊藤は目の前に座る大野とクロスタ嬢の存在を思い出した。隣の黒田はきょとんとした顔をしている。
「まぁ、いいけどね。ここに居る時だけにしといてね。あ、黒田はお茶がいい?」
「うん」
ずいぶん前から公認ではあるのだけれど、さすがに異性にからかわれるのは苦手な伊藤だった。しかも相手はド素人の頃からの自分達も知っている訳で。
慣れているのかこの程度のひやかしには気付きもしない黒田がうらやましい。
緑茶をすすりながら二個目のたいやきに手を伸ばした黒田が伊藤を見上げた。
「悪いけど、俺の方はまだ仕事が終わらないから、どこかで時間潰して…」
「いいよ、ここで待ってる」
言い掛けた黒田を遮って答える。せっかく黒田の姿を見られるところに居るのに、それをみすみす無にするつもりなど無かった。
なんかやり辛いなぁ…とぼやいていた黒田だったが、会報のフォト選びから記事までの編集内容等々の打ち合わせをしていくうちに伊藤の存在は忘れたようだった。
少しの淋しさはあったが、真剣に自分の役目をこなしていく黒田の姿を見ているのは楽しかった。
こういう黒田だから回りのスタッフも可愛がっているのだと思う。
(でも、一番愛してるのは俺だから)
口にしたら手が飛んできそうな言葉を飲み込んで伊藤は黒田の姿を飽くことなく眺めていた。
「悪い、遅くなった」
黒田がそう言って伊藤の所に戻ったのはずいぶん時間がたっていた。すでに遅い夕食の時間だった。
「いや、ぜんぜん。それじゃ行こうか」
コートを持って立ちあがった伊藤が黒田を促す。ジャケットを取りに行った黒田が、大野達の方に声を掛ける。
「俺達これからメシ食いに行くんだけど、どうする?一緒に行く?」
それを耳にしてこけそうになったのは伊藤だけではなかったらしい。
「黒田〜。私達そこまで無神経じゃないからね。いいからさっさと二人で行きなさいよ。」
呆れたと言わんばかりの大野の言葉を伊藤はありがたく頂くことにした。
「すみませんね、じゃあ、お先に」
さっさと黒田の腰に手を回して出掛けるように促しながら、伊藤はにっこりと大野達に辞去の挨拶をした。これ以上黒田が何かを言い出す前に事務所を出たかった。
「あ、伊藤くん」
ドアを閉めようとした伊藤の背に大野の声がかかる。
「差し入れのお礼に、それ、あげるけど、変なコトには使わないようにね」
瞬間、白くなった伊藤はドアを出た所で思いきりこけた。
「何やってんだよ、お前」
無情な黒田の声と、ドアの背後から聞こえてくる爆笑に、伊藤はしばらく立ちあがれなかった。
「いつまで座ってるんだよ、行こうぜ。腹減った」
腕を掴んで立ちあがらせようとした黒田を見上げる。近づいた白い顔を引き寄せて口付ける。
「俺、お前を尊敬するわ」
あのアマゾネス達の中で、自由に泳ぎまわる黒田の強さを。
「何言ってんの?」
呆れたような顔の黒田をもう一度抱き締める。
「お前が誰よりも好きだってこと」
宣言した伊藤を訳が分からないというように見ていた黒田が、それでも笑って伊藤の背を抱き締め返した。
END