BLIND  −2−

 

 

「知らなかったよ、お前が男とも寝てるなんて」

「な…、何、言ってんだよお前…」

言い掛かりとも思える伊藤の言葉に、黒田は呆然とその顔を見つめた。突然の息のできない衝撃に気を失って、意識を取り戻したばかりの黒田の前には信じられない事ばかりが展開していた。

全ての衣服を取り去られた身体。

背中で縛られた両手首は、下敷きにされていたせいで痺れてきている。

いったいどういうことなのか分からない中で、ただ、伊藤がしたという事だけが事実だった。

「女をお持ち帰りするだけじゃ足りなかった訳だ?」

笑う伊藤の目は笑っていず、唇の端を上げただけの笑みは端正な貌だけに酷薄な印象を与える。

「っざけんなよ!さっさとこれ解けって!」

薄く筋肉しかついていない全裸の肢体を伊藤の目にさらしているのが耐えられなくなってくる。伊藤の言葉はただ混乱を招いただけだった。

どうしてこんな事を伊藤がしているのか分からずに、戸惑いと不安が押し寄せてくる。

「誰でも良いならさ、俺でも構わないんじゃない?」

黒田は伊藤の言った言葉の意味に血が引いていきそうになった。

「な…に…、馬鹿なこと言って…」

声が喉に詰まったようになって言葉すらうまく出てこない。

横たわる黒田の上に乗り上げて、前髪が触れるほどの近くに顔を寄せて伊藤が囁く。

「それとも、横原さんじゃなきゃ嫌だとか言っちゃうワケ?」

あざ笑うような口調に、黒田はカッとして唯一自由になる足で膝蹴りを伊藤の腹に入れた。

「って…」

思いがけない黒田の反撃に伊藤の顔が歪む。

「酔っ払ってんじゃねぇよ!さっきから訳わかんない事ばかり言って!早くこれ外せよ!」

シーツの上を後ずさりながらなんとか身体を起こした黒田が伊藤を睨みつけた。長い前髪から覗く伊藤の眼が冷たい光を灯す。

「嘘ならばれないように吐けよ…。まぁ、俺もこの方が良心の呵責は感じなくていいか」

そう言った伊藤が一歩近づいて黒田に笑いかけると、二の腕を掴んで身体を引き倒した。そのまま鎖骨の下に噛み付かれて、黒田は冷たい水を浴びせられたようになった。

「伊藤!」

制止の声が恐怖に上ずる。ジョークで済ませられる段階はとっくに過ぎていた。

両腕を掴んで押さえつけた伊藤が、黒田の声など聞こえないかのように胸元で戯れながら唇を腰に降ろして行く。

「やめろよ!!」

粟立つ感覚が、黒田を恐怖に落としていく。舌で身体のラインをなぞりながら所々にきつく吸いついて紅い痕を残した伊藤は、黒田がビクンと反応を返すたびにその箇所を特に責め立てていった。恐怖と嫌悪感に堅くなっていた黒田の身体が熱を孕んでいく。

「や…、止めてくれ!!」

自分ではどうにも出来ない身体の正直な反応に黒田が身を捩る。ゆっくり身体を起こした伊藤が黒田の顔をおもしろそうに見詰める。

「やめたら困るのお前だろ?」

「っざけんな!」

黒田のギリギリの抵抗も受け流した伊藤は、身につけていたシャツを脱ぎ落とした。黒田が目を見開くのを笑って、その上半身を抱き起こした。逃れようとする黒田の頭を抱き寄せて貪るように接吻を繰り返す。

「…っ」

不意に伊藤の唇が離された。伊藤は一瞬の痛みと口の中に広がる血の味に指で口の端をなぞり、滲み出した血を擦り取る。目の前で荒い息を繰り返す黒田の睨みつけるような眼差しと指についた血を見比べた。

「上等…」

そう言って笑った伊藤は、また噛みつかれるということなど気に留めないかのように、黒田の唇を貪った。

呼吸を遮られて黒田が苦しさに顔を背けようとするのも許さなかった。抱きかかえた黒田の背に回っていた手が背筋を辿って双丘の間へ潜り込んでゆく。

「やめろっ!!」

黒田が悲鳴めいた声を上げる。それを無視して伊藤は一本の指を指し込んだ。

「イッ…!」

黒田が痛みに顔を歪め、伊藤の肩口に顔を埋めた。

「やっぱりキツイな…」

呟いた伊藤は手を伸ばしてベッドヘッドに置いてあったビンを取り上げた。とろりとした白い液体を指に取り、もう一度黒田の入り口を探る。

「伊藤!!やめっ…!」

冷たいぬるりとした感触に鳥肌を立たせながら黒田が叫んだ。先よりスムーズに伊藤の指を飲みこんだ箇所がきつく締めつけてくる。伊藤はゆっくり指をなじませながらもう一本指を指し入れていった。

「いたっ…」

生理的な涙が滲んで黒田は、唇を噛み締めた。

どうして?という言葉ばかりが頭の中で繰り返される。信じられない、と心が叫んでも現実が黒田を痛めつける。

「黒田…」

やっと抜かれた指に荒い呼吸を繰り返す黒田の耳元で思いがけずに優しい呼び掛けをされて、朦朧となった頭で伊藤の顔を見返した。頬に手を添えられて口付けられた。

ゆっくり持ち上げられた腰が伊藤の上に降ろされていく。

「や…っ!やめろー!」

自失状態になっていた感覚が、身体の奥に感じた伊藤の昂ぶりに恐怖とともに蘇る。緩む気配のない伊藤の拘束する腕が黒田を絶望に落として行く。

「やめてくれ!」

 

 

 

 

「やめろ!!」

叫んで飛び起きた黒田は、辺りを見まわして、ここは自分の部屋だと気付いて詰めていた息を吐き出した。びっしょりと冷や汗で濡れた額を手で拭う。

「なんでっ…」

シーツに爪を立てながら吐き出す。

悪夢より性質の悪い現実。

夢だと思う事も許されない身体に刻まれた記憶。

置きあがったまま固まったようになっていた黒田の元にラピが擦り寄ってきた。はっとして振り返った先に見上げてくるつぶらな瞳を見つけて、黒田はラピを抱き上げた。

「ごめんな、お腹すいたろう?いまご飯あげるからね」

抱きしめたラピの柔らかな暖かな感触がささくれだった黒田の心を癒していくのが分かった。

ラピの食事の用意を終えると黒田はソファーに倒れこんだ。身体がまだ休息を欲していた。身体のだるさとショックのための微熱が続いている。横になった黒田の枕元にラピが擦り寄ってきた。その頭をそっと撫ぜて黒田が呟いた。

「ごめん、疲れてるんだ。後でな…」

今日の仕事が午後からなのが救いだった。こんな事で仕事に穴を開けるのは絶対に嫌だった。

昨日、否応無しにほったらかしにしてしまったラピの様子が気にかかり、今朝目覚めると、横原の早出の出勤に合わせてマンションまで送ってもらった。横原はそのまま仕事でスタジオ入りだった。

あんな出来事の後でも、まだラピの事を心配できる自分に安心した。

まだ、自分の中はどこも壊れていない。そう思えた。

目覚めて昨夜の事を思い出した黒田が取り乱すのではないかと心配していたと横原が苦笑混じりに語ったが、その心配をよそに自分でも落ちついていたと思う。

「…仕事、行かなきゃ…」

ぼんやりした思考の中で、タイムスケジュールだけが黒田を動かしていく。身体中が動けという命令を放棄していると感じるほど、緩慢な動きでシャワーを浴びにバスルームに向かった。

今朝、横原から借りたままのシャツを脱ぎ、バスルームに入ってシャワーコックを捻る。熱めのシャワーを頭から被って黒田は目を閉じた。何も考えられない頭の中で、唯ぼんやりとこのまま全てが流れて消えてしまえば良いと思っていた。

シャワーを止め、バスソープに手を伸ばした黒田の身体が凍りつく。

ミラーに写った自分の裸体に散らばる紅の痕。それがシャワーを浴びて温まった肌にくっきりと浮かび上がっていた。

「あ…」

左の鎖骨の下に一際紅く浮かぶ痕に触れるように伸ばされた右手が、空で握り締められる。

かくんと膝が折れて黒田はタイルに膝を付いた。

「ちくしょう…!」

吐き出してタイルに爪を立てる。

昨日からの信じられない出来事に麻痺してしまっていたと思った感情が、堰を切ったように溢れ出す。怒りと悔しさと言葉にできない感情に、頬を涙が流れ落ちていくのを止めるすべもなかった。

ただ、許さない、許せないと繰り返しながら。

 

 

 

 

「おはようございま〜す!」

メイクルームに入ると元気なキンヤの声が飛んできて、横原は笑顔を誘われた。後でメイク用具を抱えているアシスタントもクスクスと笑っていた。

「よ!今日も元気だね。取材終わった後なんだろ?」

「全然元気っすよ!って、でも今日はけっこう緊張なんですけど〜」

そういうキンヤの理由を後の人物を見て納得する。パイプ椅子に窮屈そうに座ってテーブルに向かってイラストか原稿でも書いている様子の伊藤がいた。

昨日の今日とは、と思いつつ、横原は鏡の前の席に近づいていった。

「おはようございます」

紙から顔を上げた伊藤が普段と何も変わらない笑顔を見せる。

「あ、おはよう」

人当たりの良い笑顔とソフトな口調の伊藤は外見にかかわらず、優しい印象の方が強い。昨日の黒田を見ていなければ、話を聞かされても信じるのは難しいくらいだ。

「あ、横原さん。おはようございます!よろしくお願いしますね」

原稿のチェックをしていたライターの斉藤が、横原に近づいてきた。

「ああ、ヨロシク。さて、どっちからやる?」

キンヤと伊藤を伺うように見比べると、キンヤが当然というように伊藤さんからと先を譲った。

「今日はスネイク仕様でいいのかな?」

ブラシを持った横原が鏡の中の伊藤に確認する。

「普段の伊藤賢一仕立てで良いみたいですよ」

笑って伊藤がライターの斉藤を振り返る。

「ええ、キンヤくんのプロデューサーとしてなので。あ、でも、インタヴューの内容は、オニ、アクマでしたけど」

笑う斉藤の横で、キンヤが慌てて手を振って否定する。無駄と思ってもしてしまうのがキンヤの良いところなのだろう。

「そう」

頷いた横原の横で、アシスタントが納得したようにメイクの色を入れ替えていく。察しの良いところが横原の気に入っているところの一つだった。

「悪魔って、ぴったりだと思ってるでしょう?」

ドーランを塗られながら伊藤が横原に話し掛ける。

「そうかな…。まぁ、ター坊も天使と悪魔をやったけどね。作り甲斐があっておもしろかったな」

伊藤の言外の意味を理解して横原は話しを逸らそうと試みた。今話せるような内容でないのは伊藤も知っているはずだった。

「天使ね…。天使は悪魔にはかなわないと思いませんか?堕天使って多いでしょう?最終戦争もね、そうかなって」

横原の意図を無視して話しを続ける伊藤に、横原は眉をひそめながら目を閉じた伊藤の端正な顔を見詰めた。

「天使は悪魔の誘惑に弱いかもしれないけど、僕的には天使を誘惑しようとした時点で悪魔の負けだと思うよ。天使に捕らわれてるんだからね」

横原の言葉に閉じていた伊藤の瞳が開かれた。その視線の冷たさに驚く。

「え〜?横原さんもムーとか詳しいんですか?」

横から突然入って来たキンヤの声に、二人の間の張り詰めた空気が緩む。ホッとして横原はキンヤを振り返る。

「いや、全然。でも最終戦争(アルマゲドン)なら君も知ってるだろう?」

「映画なら見ましたけど〜」

キンヤとの会話の間もメイクの手は動かしている横原を、伊藤は見詰めつづけた。睨むような強い視線で。

「さてと、これでいいかな」

コームで最後の仕上げを決めた横原が鏡の中の伊藤を眺めた。アシスタントは次のキンヤの準備に取りかかっていた。

「横原さん」

低められた伊藤の声がして、横原は不意に手を引かれた。

「あいつは、俺のものですから。遊びなら手を引いてください」

近づいた耳元で早口に断言されて、横原は驚いて伊藤を見詰めた。真っ直ぐに見上げてくる伊藤の視線が、彼の本気を表しているようだった。

「君は…」

椅子から立ちあがった伊藤が斉藤と一緒に撮影スタジオに向かうのを、横原は無言で見送った。