BLIND−3−

 

 

自分で車を運転するのは今の自分の体調にはかなり辛いものがあったが、電車の人混みを耐える事は考えられず、黒田はやっとの思いで事務所に出勤した。

「どうしたの?!その顔!」

サングラスを外した瞬間に大野に叫ばれて、黒田は無駄だと思いつつ慌ててもう一度サングラスを掛け直した。

「そんな事しても意味ないでしょう?もう!」

バックの中から目薬を探し出した大野が、黒田に差し出す。そして冷蔵庫の中のアイスノンを取りに行った。

「大丈夫だって。すぐ直るから」

「何言ってんの!自分がどんな顔色してるか分かってる?いかにも泣きました!って顔して」

そう言いながらあれこれ黒田の世話を始めた大野が時々心配そうな視線を投げる。

「んなんじゃないよ…」

アイスノンを受け取って瞼に乗せて冷やしながら、黒田はくったりとソファーに凭れた。

周りの社員の働いている慌ただしい気配が、今は鬱陶しかった。

「そんな事言っても、今日は撮影を先にやっちゃうって話しだし…」

「え?そうだっけ…」

「スタジオの関係らしいんだけど。でね、時間が繰り上がったからヘアメイクなんだけど、横原さん無理みたい。ちょうど今が伊藤くん達の撮影の最中なんじゃないかな」

大野の言葉に黒田の身体が凍りついた。

「…今日ってなんだっけ…?」

「ああ、キンヤくんのインタヴューで、伊藤くんと対談なのよ」

すうっと身体の血が引いていきそうになる。伊藤という言葉にこんなに振り回されることがあるなんて考えもしなかった。仕事で一緒という横原が気に掛かった。

何もあるわけがないと思いながら、伊藤の名前が不安を掻き立てる。

「大野ちゃん、外線2番に電話で〜す!」

大野が呼び出され電話に出るのを見やりながら、黒田は組んだ指に目を落とした。

伊藤が言った明日という意味が分かった気がする。伊藤は横原のマンションから帰った後、何を考えていたのだろう。黒田が姿を消した時の伊藤は、行くへを探してさ迷ったのだろうか。それとも黒田の行き先すら知っていたのだろうか。

伊藤の執着を感じるたびに恐怖のようなものを覚える自分自身が嫌で仕方なかった。

「黒田くん!急いで出るわよ。」

「え?」

もの思いに捕らわれていた黒田の元に戻ってきた大野は、バックを肩に掛けファイルケースを掴んでいた。

「いま、横原さんからで、ショップの方に来てくれって。衣装の方もあっちに行ってるからって」

「え?じゃあ…」

思いがけない朗報に黒田の表情が明るくなる。

「ちゃんと黒田くんの方もしますって。スタジオにはショップの方が近いからそっちにしたみたい」

心からほっとして黒田は大野の後に続いて事務所を出た。今は他の誰にも触れられたくはなかった。

 

 

 

 

 

「悪かったね、ここまで来てもらって。時間が無かったから」

笑顔の横原に迎えられて、黒田は張り詰めていた精神の糸が緩んでいくのを感じた。

「そんな、全然。あ、キンヤくん達は終わったんです?」

「ああ、もう少し。後は任せても大丈夫だから抜けさせてもらって来たんだ」

大野の言葉に愛想良く応えながら、横原は黒田の様子を伺った。心配するような視線に黒田は微かに笑って応えた。

「すみません、こんな立て込んだスケジュールになっちゃって」

「いや、平気平気」

「でも、良かった横原さんで、今日ってば黒田ったらヒドイ顔してるし」

「なんだよ、それ」

思わず苦情を口にした黒田を振り返って、大野が本当の事でしょうと言い切った。

「ふ〜ん、じゃあ、僕の腕の見せ所という事かな」

横原が黒田の顔を手で挟んで、検分するように眺める。思わず視線を逸らした黒田の頬をペチペチと叩いて横原は椅子に座らせた。

「安心していいよ、いつもより良い男にしてあげるから」

「いつもよりって…」

思わず苦笑する黒田を見て、横原も表情を緩めた。この一日で黒田は誰が見てもやつれたとしか思えない様子になっている。食事もしていないだろうと簡単に想像できた。

「衣装もこっちに運んで来てもらってあるから、手伝うよ」

「え?自分でできますよ」

今まで衣装にまでは手を出した事の無い横原の申し出に、黒田は驚いて顔を見上げた。

「いいから、メイクの仕上げが残ってるからさ」

訝しげな顔をする黒田を他所に、横原は髪まで整えた後、スタイリストが用意した服をハンガーから外した。

「美由紀ちゃん、これで良いんだよね」

「そうで〜す。終わったらアクセ合わせますからね」

渡された服を持って、スタッフルームへ横原に促されるまま入った黒田は、横原が持って来た小さなガラスボウルに気が付いた。水が入っているそこに浮かぶ紅い数枚の花びら。

「シャツを脱いでくれる?」

「って…」

黒田の手が一瞬ためらうように止まり、それからパサリと服を脱ぎ落とした。

「まだ目立つね」

鎖骨から胸元には見ればどういうものか分かる痕がくっきり残っていた。黒田は用意された、シルクの白のシャツブラウスを取った。

「ということで、ちょっとメイクの続き。すこし動かないで」

黒田を上向かせて、横原はガラスボウルの中から取り出した赤いフィルムを黒田の鎖骨に残る跡の上に張りつけていった。

「横原さん?」

「唯のペーパータトゥーだよ」

そう言った横原が次々と黒田の肌の上に、紅い薔薇の花弁を散らしていく。一番くっきりと残っていた胸の痕の上には、薔薇とナイフのモチーフのタトゥーが乗せられた。

「衣装着てみて」

横原に言われるままにシャツに腕を通した黒田を見ていた横原が微笑む。白い肌に首筋から胸元に散った薔薇がかなり扇情的な眺めになっている。自分の作品として満足のいくできばえだった、

「大丈夫かな、かなり前をはだけても気がつかないだろう」

「この為に、ここにしてくれたんだ?」

横原のショップへの呼び出しの理由に気付いて、黒田の目が潤みそうになった。

「仕事だからね。…まぁ、お節介分は友達としてだけどね」

「横原さん…」

「それにどうやら、昨日の事は僕にも原因があるみたいで…」

横原の言葉に黒田は驚いて聞き返した。

「なんで…。さっき何かあったんですか?!」

自分の心配していたように何か伊藤がしたのかと慌てる黒田を制して、横原は安心させるように笑った。

「いや何も。でも、君は自分のものだから手を引けって…」

「な…っ」

夕べの伊藤を思い出して黒田は言葉を失った。耳元に伊藤が繰り返した言葉が蘇って黒田を動けなくさせる。あの時の痛みと衝撃が自分を拘束した伊藤の腕の感触ごと思い出される。

「なに考えてんだよ!あいつ…!」

「彼は誤解してるんだと思う…僕の不注意かもね。思い当たるのはこの前の事しかないし。誰かに見られていたのかも…。うちのスタッフはけっこういつもの事って思ってるからな…」

苦笑する横原は、間違っても品行方正とは言い難い自分の素行を考える。だが、友人達は大事にしてきたつもりだった。

「だからって…。なんであいつがあんな事…!」

昨日の事を振り払うように頭を振る黒田を見ながら、横原は伊藤の事を思い出した。

迷いの無い視線は、自分のしていることを分かっているもののものだ。

黒田への独占欲が容易に見て取れた。黒田が気付かない方がおかしなくらいだ。それとも今回の事で、伊藤も自分の気持ちに気付いたのだろうか。横原に対する態度から、もう他人のことは気にしないことにしたのだと思えた。

「本当に分からない…?それとも認めたくないだけ?彼の行動の理由なんて見ていれば直ぐに分かるだろう?

黒田の瞳が迷うように揺れた。

「やめてくれよ!」

思わず叫んだ黒田は両脇でぐっと拳を握り締めた。

「もうあいつの事なんかききたくない!理由なんて…!あいつがした事はかわんないじゃんか!」

一気に吐き出した黒田が、はっとしたように手で口を押さえた。その手が震えている。

「…許さないから…」

俯いて呟いた黒田の髪を横原は軽く梳いて直した。

「せっかくのメイクが崩れるだろう」

横原は黒田の手を取ってまだ薄く紅い痕が残る手首に肌色のドーランを塗った。そして、大き目のチェーンでできた二重のブレスレットを嵌める。

「美由紀ちゃんに怒られるかな」

苦笑して横原がドアを開ける。後に続いた黒田が思いつめた顔をしているのを見とめながら、ただスタジオへ促した。

 

 

 

 

インタヴューまで終えて、いったん事務所まで戻った黒田が家に帰れるようになったのは11時を回っていた。いつもにも増して口数が少ない黒田を、苦笑しながらフォローしてくれたインタヴュアーに申し訳ないくらいだった。

だが、自分でもギリギリの線だったと思う。今はとにかく家に帰って何も考えずに眠りたかった。

事務所を出る前にマネージャーに確認したスケジュールでは、しばらくは伊藤と一緒の仕事はなかった。それだけでも黒田はほっとしていた。伊藤が言う通り、2度と会わないという事は物理的に無理だった。一緒にユニットを続けているのだから。

そう考えて黒田はまた、どうしようもない痛みを覚えた。

仕事仲間。相棒。

この世界に飛び込んだ時から、ずっと側にいて同じ苦しみと喜びを分かち合ってきたのが伊藤だと思っていた。いつも先に立って二人の行き先を示してくれた浅倉への尊敬とは違う意味で、他の誰にも代えることのできない大切な存在だった。自分がそうであるように伊藤にとってもそうだと思いこんでいた。

「でも、違ってたわけだ…」

自嘲気味に吐き出した言葉が、余計に黒田自身を傷つけていく。対等だと思っていた相手から一方的に女のように扱われたことが黒田のプライドをボロボロにしていた。

気を失う苦痛と同時に何度も高みに追いたてられた快楽。許せないと思うのはそんな自分に対してもだった。身体が愛撫に反応するのは不可抗力で仕方がないことだったが、相手が伊藤ということが黒田を苦しめていた。

家に辿りついて部屋のソファーに座りこむと、もう一歩も動けなくなった。このまま眠ってしまいそうになる。眠りの誘惑に落ち始めた黒田の意識を突然の携帯のコールが呼び起こした。

「…!」

どこかで予感がしていた。相手が何か仕掛けてくるだろうと。

取り上げた携帯のディスプレイの名前を見詰めながら、黒田は動けないでいた。取ることも切ってしまう事もできずに、ただ繰り返されるメロディを聞いて留守電に切り替わるのを待った。

留守電に切り替わる前に切れた呼び出しに、黒田がほっとする間もなく、また着信を知らせる曲が流れて、黒田は諦めたように受信ボタンを押した。

「黒田…」

耳に流れ込んだ声が黒田の身体を震わせた。

「出てくれないと思った…言いたかった事があるんだ」

思いがけない軟らかな口調に、黒田の緊張が緩みそうになる。

「本当は、今朝言いたかった。お前が消えたりしなければ伝えていたのに…」

悪い予感が心を覆う。伊藤の言葉を聞いてしまったら後戻りができなくなると声がした。

「お前が好きだよ…」

「…!」

告げられた伊藤の言葉に、黒田の中で自制の糸が切れた気がした。驚きよりもなにより怒りに似た感情が突き上げてくる。

「よくそんな事言える…。あんな事しておいて!」

昨日からの衝撃の連続で脆くなっていた精神が悲鳴を上げていた。全てを吐き出さなければ耐えられない気がした。

「ひどくした事は、いくらでも謝るよ。でも、お前が悪いんだよ。お前は俺のものなのに、他の奴と…」

「っざけんな!いつ、俺がお前のものになったって?!」

「最初から。そうだろう?初めて会ったときから」

疑ってさえいないような伊藤の口調が黒田を混乱に追いこんで行く。これ以上伊藤の言葉を聞いていてはいけないと本能が忠告する。伊藤の狂気に引き摺りこまれてはいけないと。

「ずっと、触れたかった…」

「お前、おかしいよ…!」

何か言いかけた伊藤の言葉を聞かずに電源を切った黒田は、携帯を握り締めたまま動けなかった。