BLIND−4−
桜
いつのまにか携帯電話の電源を切るのが習慣になっていた。すれ違うスケジュールの合間。着信履歴に増えていく伊藤の名前を見るのが辛かった。
あの日以来、直接伊藤に会ってはいなかった。電話も取らずに徹底して避けていたが、3人での仕事が入ったときから黒田は今日を覚悟した。
久しぶりに三人揃っての取材は、今までだったら嬉しいものだったはずだ。それが、こんなに緊張をはらむものになることがあるなんて思いもしなかった。今日は当然、ヘアメイクの担当として横原も来ている。
いつものスタッフが揃った楽屋に入った時にあいさつをしただけで、伊藤の顔を見ることも出来なかった。伊藤にしても浅倉と話をしていて、黒田には話しかけてはこなかった。ただ、いつも刺すような視線だけは感じられて、黒田は必死で何もない振りをしているしかなかった。
「どうかしたの?なんか、静かじゃない?」
浅倉の言葉に、黒田は雑誌を見ているポーズでずっと下を向いていた視線を上げる。
「そうすか?」
背中に感じる伊藤の視線に気付かないふりで浅倉に答える。作った笑顔が通じているかあやしかったが、黒田には他にどうしたら良いのか分からなかった。
「次は黒田くんでいいのかな」
横原が呼ぶ声に救われたように、黒田は立ち上がると鏡の前の椅子に腰掛けた。ふと鏡の中の伊藤の視線と目が合って、慌てて視線を逸らした。横原がそれに気付いて眉を顰める。
「今日は、この前みたいにはしないんですね」
メイクを施されていく黒田を見ながら、少し残念そうな口調で大野が横原に話しかける。
「ああ、ああいう飛び道具はね、一度だからいいんだよ」
苦笑しながら答える横原を、浅倉が興味津々という顔で眺めた。
「なになに?なんの事?」
浅倉に訊ねられて、大野が気付いたように笑った。
「ああ、そうか。明日、発売だっけ。あのね、今回の黒田くん、横原さんの力作でね」
そう言いながら、大野がバックから雑誌を取り出した。それに気付いて黒田は身体から血が引いていくのを感じた。いま、このシチュエーションで見たい写真ではなかった。生々しい痛みの記憶が蘇りそうになる。
「ね、いい出来でしょ?」
広げたページの中で、胸に薔薇の花を咲かせた黒田が物憂げに遠くを見つめていた。雑誌を覗き込んだ浅倉の後からその写真を眺めた伊藤の表情が無くなっていくのが分かった。
「やめろって!」
立ちあがって雑誌を取り上げようとした黒田を、大野が驚いたように見詰めた。
「なに、恥ずかしがってるの?どうせ発売されるのに」
「いいじゃん。キレイに撮れてるし。色っぽい」
伊藤の声が聞こえた瞬間、黒田は掴んだ雑誌を伊藤に叩きつけていた。
「イテッ…」
伊藤が声をあげるのも見ずに、黒田は踵を返して部屋を足早に出た。周りのスタッフがあっけに取られたように後姿を見送った。
きっと、浅倉も大野も皆が変に思っていると思いながら、黒田は逃げるように出た部屋を振りかえれなかった。何気ない言葉だっはずだったが黒田には笑って受け流す余裕が無かった。もう、1秒でもあの場所には居られなかった。
「黒田!」
窓際の休憩所に向かおうと廊下を歩いていた黒田は、はっとして振り向いた。その視界に長身の赤い髪のシルエットがあった。とっさに身を翻そうとして手を掴まれた。
「離せ!」
伊藤の手を振り払って、取り戻した手を握り締めた。正面に立つ伊藤の顔を見れずに足元に視線を逃がす。
「…逃げるってことは、後ろめたいとは思ってるんだ?」
「何言ってんだよ!」
伊藤のからかうような響きを含んだ言葉に、黒田はその顔を睨みつけた。今日初めて正面から見る伊藤の眼だった。黒田を真っ直ぐに見詰める視線に、怯えを感じそうになって黒田は自分を叱咤した。
「なんで俺がそんな事!」
「俺が付けた痕を、横原さんに触らせたの?」
伊藤が指で黒田の服の上から、自分の付けた胸の痕をなぞるように辿る。黒田は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
「…ここだけ?それとも…」
すうっと下肢までなぞられそうになって、黒田は伊藤の頬をひっぱたいていた。
「ふざけるな!お前…!ここ、どこだと思ってるんだよ!自分が何してるのか分かってんのかよ!」
叫んだ黒田を抱きこむように伊藤が腕を回してくる。
「わかってるさ。あの時、手を離さなければ良かったんだ。誰にも触らせないように、抱きしめて独り占めにしていたら…」
「やめろ!」
黒田は伊藤の腕を振り切ると、追い詰められた廊下を避けて、階段を駆け下りようとした。伊藤が後を追って腕を取った。
「黒田!」
「触るな!」
掴まれた腕を振り払おうとした黒田が、階段の階でバランスを崩す。
「あ…!」
「黒田…!」
宙に浮いた身体が縋るように伊藤に伸ばされる。その手を掴んだ伊藤が、黒田の身体を守るように抱きこんで、そのまま身を投げ出した。一瞬の浮遊感の後、叩きつけられるような衝撃が襲ってきた。
「っう…」
暗転した視界が元に戻って、黒田は頭を振って身体を起こした。伊藤の胸に抱き留められていた事に気付いて、慌てて起きあがった。伊藤を抱き起こそうとして、頭に触れた手に生暖かく粘つくものを感じて息を飲んだ。
「伊藤!」
横たわった伊藤の赤い髪の下から流れ出す、更に紅い血。全身に水を浴びたような恐怖が黒田を包む。凍りついたように座りこんだ黒田の頭上から声がした。
「黒田くん!」
「横原さ…。救急車!救急車呼んで!伊藤が…伊藤が!」
一見して事情を飲み込んだ横原が事務所の方へ駆け出すのを確認した黒田は、シャツが血に染まっていくのも構わず、伊藤をただ抱きしめた。
家を出るときから迷いつづけたまま、黒田は病室のドアの前に立った。
伊藤が病院に運ばれて3日が経っていた。出血の酷かった頭の傷は、頭部CT等でもなんの異常は無く、周囲をホッとさせたが、黒田を庇って下敷きになった右肩の骨にひびが入っていて、しばらくは不自由な生活を送ることになりそうだという話だった。
今日まで見舞いに来なかったのは黒田だけで、責任を感じて会いにくいのだろうと、浅倉もマネージャーも強くは言わなかったが、二人の間にある確執を薄っすらと感じとっているようだった。
一緒に行こうか、という大野の申し出を断って出掛けてきたが、いま、この場に立ってもドアを開けることにためらっていた。
「入って来いよ」
突然室内から掛けられた声に驚きながら、黒田はつき動かされたようにドアを開けて中に入った。小さめの個室の中で、伊藤は、長身の身体を窮屈そうにベッドに横たえていた。ギブスで固定された右肩と左腕に刺されている点滴の針が伊藤を怪我人に仕立て上げていた。
「ドアの前にずっと突っ立てりゃ、気が付くって…」
苦笑混じりに伊藤が黒田の先を制して話し掛ける。身の置き所が無いような気分で立ち止まっていた黒田にベッドの横の椅子を勧める。
「…具合は…」
「ああ、たいしたこと無いから。頭って切ると出血が酷いから心配するらしいんだけど、薄皮切っただけだから。肩もストラップ掛ける訳じゃないし。支障はないな」
笑う伊藤は、あの事が起きる以前の彼のようで、黒田は何もなかったのではないかと思ってしまいそうになる。そんな事はありえないのに。
椅子に腰掛けた黒田は、見下ろすという珍しい角度で伊藤を見ながら、言いたかった言葉を口にしようとしては飲みこんだ。
「…俺、謝らないから…」
「…いいよ。自業自得だから」
憎まれ口とも言えそうな黒田の言葉を笑って受け流した伊藤を見詰める黒田の表情が泣きそうに歪む。
「どうして…!俺の所為だって言えばいいじゃんか!」
「違うだろ?俺の所為。それに、お前、人が良すぎ。これも俺の手だって思わないのかよ」
飄々としたまま伊藤の言葉が毒を含む。それを聞いても黒田はそう思う事はできなかった。それが伊藤が与えてくれた逃げ道だとしても。
とっさの時に、そんな計算ができるはずがない事を知っていた。反射的に手を伸ばせるのはどれだけ相手の事を想っているかによると、分かってしまっていた。
「伊藤…」
耐えられなくなって、黒田は伊藤のギブスで固められた腕が投げ出されたシーツに顔を埋めた。
「…忘れるから。あの事、忘れるから!だから、前に戻りたいんだ。前みたく付き合いたいんだよ!」
叫びながら黒田は涙が溢れてくるのを感じた。心からの本音だった。伊藤の気持ちに応えることは出来そうもなかった。だが、伊藤を失いたくなかったのだ。
「頼むから…!」
「…無理だよ」
静かな伊藤の答えが優しく響いた。残酷な内容で。
「俺が忘れられないから…。全部覚えてるよ。触れたお前の肌の感触も、イクときの声も表情も。涙も…」
淡々と告げられる言葉が黒田を絡め取っていく。
「最初から諦めてはいたんだよ。いつもお前には彼女がいたし。それで良いとも思ってたんだ、歌を歌っている時のお前の一番側にいるのは俺だって思ってたから」
そっと髪に触れてきた伊藤の手を、黒田はそのまま受け入れた。
「でも、あの人がお前を抱いたって聞いて…。許せなかったんだ、お前もあの人も」
「俺はそんなこと!」
顔を上げて真剣に否定する黒田を見て、伊藤が苦笑する。
「うん…。抱いてみて分かった」
少し困ったような顔をした伊藤の台詞に、黒田がさっと赤くなった。
「キレてたからな、あの時は…。途中で、まさか…って思ったんだけど、止められなかった。いや、違うな…」
自嘲の笑みを浮かべた伊藤が、黒田の頬に手を伸ばす。
「この身体に触れるのが自分が最初なんだって思ったら、メチャクチャにして全部に自分の印を付けて、俺だけのものにしたくなったんだ」
伊藤の言葉に縛られたように動けなくなった黒田は、じっと伊藤を見詰めていた。
「お前が好きだよ…」
伊藤の告白が痛みを持って黒田にとどいた。
あの時の痛みも苦しさも忘れてはいなかった。伊藤に裏切られたと思った悲しみも。だが、いま手を離したら、今度こそ本当に伊藤を失うことになるのだと気付いていた。
自分に触れる手は嫌ではなかった。だが、伊藤が黒田を想うようには自分は伊藤を想えないと思った。伊藤の言葉に頷ければ楽になれるのかもしれなかった。だが、真っ直ぐに黒田を求めてくる伊藤に誤魔化すような真似はしたくなかった。
「出来ないよ…。俺、お前のようには想えない…」
吐き出した黒田の言葉に、伊藤は苦笑した。
「…バカ正直だよな。…いいさ、分かっていたから。お前が誰と付き合っていても構わないんだ。でも、他の奴のものになるのだけは我慢できない」
伊藤が何を言いたいのか気付いて黒田は慌ててその言葉を否定しようとした。
「だから、俺は!」
「分かってる。でも、ダメだよ。俺はきっとまた同じ事を繰り返す。理屈じゃないから…」
何も言えずに伊藤を見詰めつづける黒田に、伊藤がそっと触れてきた。
「黒田…」
答えを促すような伊藤の声に、黒田は何も答えられず、ただ泣き出したいような気持ちでシーツに顔を埋めた。
玄関の呼び出し音に気付いて、横原はインターフォンのスイッチを押した。アポ無し深夜の来訪は珍しく、少しの警戒心を呼び起こされる。
「どなたですか?」
「…黒田です」
あの時以来の黒田の訪問に、驚いて横原はドアを開けた。開けたドアの向こうに俯きかげんの黒田の姿が見えて、横原は黒田の用件が分かったような気がした。
「珍しいね、直接来るなんて。ああ、上がって」
部屋に入るように勧める横原の言葉に、黒田は首を横に振った。
「ここで良いです。直接会って話したかっただけだから…」
そう言いながら硬い表情で黙ったのままの黒田の言葉を横原は辛抱強く待った。
「…すいません。俺、もう、横原さんと一緒に仕事を出来ない…」
「黒田くん?」
思い掛けない黒田の言葉に驚きながら、横原はこの結論に辿りつくまでの黒田を葛藤を考えた。
「…決めたんだ?」
黒田は俯いたまま首を振った。
「違うよ…。俺、伊藤と同じにはきっと思えない…。でも、あいつを失くしたくないんだ…」
伊藤の気持ちに応えられない黒田の、精一杯の伊藤への気持ちなのだろう。横原は黒田の頭をポンと叩いて笑ってみせた。
「君が決めたことならいい。僕を気にする必要は無いから。それに、これからも友達なことに変わりはないだろう?」
「横原さん…」
見上げてくる黒田の視線に苦笑する。
「なにかあったら、いつでもおいで。酒くらい付き合うから」
「横原さん…!」
肩に頭を預けてきた黒田の髪を撫でる。もうこの髪をセットすることもなくなるのだと思って淋しさを感じた。
伊藤に応えられないと言いながら、友達の中から伊藤を選んだことで、もう黒田の気持ちは決まったも同じなのだろうと思う。ならば、これから始まる二人の関係が上手くいくことを祈りたかった。
「じゃあ、おやすみ」
黒田を見送った横原は、伊藤の横で笑う黒田を見たいと願った。
END