BLIND
桜
携帯の呼び出し音に気づいて、横原はビアグラスを置いてソファーから立ちあがった。夜中過ぎの電話に眉をひそめながら取り上げた携帯の表示された名前を見て笑みを浮かべる。
「はい、横原です」
『あ…、俺です…』
久しぶりに聞く声は、疲れたように掠れていて横原は妙に心配になった。
「どうしたの?仕事の帰り?」
時間は午前2時を回り、電話を掛けるにも相応しい時間ではなかった。
『…今、下まで来たんだけど、もう動けねぇの…。迎えに来てよ』
「なに言ってるの?」
突然の言葉に問い返す間もなく通話は切れ、横原は不審なものを感じたが、めったに甘える事を言わない人物の電話だけに半信半疑のまま、マンションの部屋をでて、エレベータに向かった。
もし、酔っ払って動けないというのならしようがない。泊めてやって明日送ればいいと思っていた。
エントランスに歩き出すと、自動ドアの向こうに敷き石に座りこんで居る人影が見えた。黒のスプリングコートに身を包んだシルエットに急ぎ足で近づいて声を掛けた。
「黒田くん!」
横原の声に俯いていた頭をあげた黒田の顔を目の当たりにして、横原は愕然とした。
青ざめて目の下には隈が浮いている顔と、夜の闇のせいか以前にも増して華奢に感じる肢体。
酒に酔ってなどではない事は見た瞬間に気づいた横原は、とにかく黒田を部屋に連れて行こうと、立ちあがらせる為に二の腕を掴もうと手を差し伸べた。
「いったい、ど…」
なにがあったのか問いかけようとした横原を遮って、黒田が横原の腕に縋るように掴んだ。
横原の顔を食いいるように見詰めた黒田が吐き出すように問いかけた。
「…アイツに、何を言ったんだよ…!」
「黒田くん?!」
横原は掴まれた腕の痛みを感じながら、黒田をとにかく部屋に連れて行こうと立ちあがらせようとした瞬間、低くうめいた黒田の身体から全ての力が抜け落ちた。
「黒田くん!!!」
気を失った黒田を腕に抱きとめながら、横原は呆然と腕の中の黒田を見詰めた。
「これは…、酷いな…」
長身の黒田をなんとか支えて部屋に運んだ横原は、ベッドに横たえた黒田からコートを脱がせようとして手を止めた。
コートの下の上半身は何も身に付けていず、白い肌には無数の紅い痕が残っていた。黒田を抱えようとして掴んだ腕の手首に戒められた痕を見つけた時に予想はしていたが、刻まれた痕を目の当たりにすると、動揺を感じずにはいられなかった。
情交の痕というよりは、暴力を振るわれた後のようだった。キスマークと言えるものに混じって歯型が残るほどきつく噛まれたあとが無数に散らばっている。暴れる黒田を押さえつけて付いたのであろうくっきりと残る指の形。鳩尾に残る拳大の痕はすでに紫に近い色になっていた。
足は裸足のままで、慌てて身につけたと思えるGパンはジッパを上げただけのようだった。
ぶかぶかのウエストラインにも紅い痕が浮かんでいて、横原に手を掛けさせることを躊躇わせたが、それを振りきるように前を開け黒田の下肢からジーンズを抜き取った。
そこに残された跡に、横原は言葉を失い苦しげな表情のまま眠りに落ちている黒田のダメージを思った。黒田への執着を表すように下肢の白い肌に長く刻まれた爪の跡。貪るように噛み付かれた足の付け根にある痕は血すら滲んでいる。
そして、無理やりこじ開けられた箇所からはまだ血と精液が滲み出していた。
これ以上見ていられず、横原は黒田の身体に毛布を掛けると洗面所に行き、洗面器とタオルを持って来て、人肌の暖かさのお湯に浸したタオルでそっと黒田の体を拭っていった。
「ん…っ」
傷口に触ったのか黒田が微かな声を上げた。苦しげな顔はそのままで薄く目を開けた黒田がぼんやり辺りに視線を泳がせた。
「…黒田くん…」
低く声を抑えた横原の呼びかけに黒田が顔を向けた。
「横原さん…?」
自分の今いる場所がわからない様子の黒田が、身じろぎしようとして身体からの悲鳴に眉を寄せる。
「俺…っ」
その一瞬で自分の身に起こった事を思い出したのか、サッと表情が凍りつく。全裸を横原の前に晒している事に気づいて身を捩って隠そうとした。
「動かないで」
押し止めた横原の手を怯えるように避けた黒田は、痛ましげに見た横原の視線が耐えられないというように血が出るのではないかと思えるほど強く唇を噛み締めた。
「動かないで。大丈夫だから…。手当てをしないと…。させてくれるだろう?」
手負いの動物のような黒田を刺激しないように、ゆっくりとした動作で止めてしまった作業を再開させた。なんの意図もないと、手当ての為だけだと黒田に分からせるように極力余計な箇所には触れないように気を使った。
汗と血と精液が残る肌からそれを拭い去っていく。
「止めてくれよ…っ」
一番酷く傷ついた箇所に触れようとすると黒田が耐えきれなくなったように横原の手を取って止めた。
「だめだよ…。きちんと手当てしないと。分かるだろう?自分ではできないから…、ね?」
横原の子供に言い聞かせるような口調に黒田の手から力が抜けていく。横原は自由になった手で黒田の太腿を持ち上げて足を立たせ、傷口を確かめられるように開かせた。
「や…だ…」
黒田が両手で顔を覆う。羞恥に唇を噛み締める黒田を見ない振りで、横原は早く手当てを済まそうとタオルをもう一度絞りなおしてそっと傷口に当てた。まだ滲み出ているものが中の瑕が塞がっていないことを教える。残された残滓を取り去るにも黒田に痛みを与えるのは避けられそうになかった。
「少し痛むと思うけど我慢してくれよ」
掛けられた言葉に黒田の身体がビクリと震えたが、無言のままの様子を了解と受け止め、横原はそっと傷ついた箇所に指を指し入れた。
「イ…っ」
黒田が上げた悲鳴とともに指が締めつけられる。
「力を抜いて、瑕が広がってしまう」
横原の声に噛み締められていた唇から僅かに息が吐き出される。ほんの僅か力が抜け、横原は奥まで指し入れた指で精液を掻き出しタオルで拭うという作業を何度か繰り返した。
もう大丈夫だと思えるまで丁寧に清めた後で、軟膏状の薬を塗りそっと足を元に戻して、黒田の体に毛布を掛け直した。
「…なんで、何も聞かないんですか…」
横原の顔を見ることができない黒田が壁を向きながら横原に問う。
「…話して気が楽になるなら。…でも言いたくなければ言わなくて良いから」
そっと髪に触れた横原の手の暖かさに、いままでの緊張が切れたように黒田の顔が泣きそに歪む。
「…『彼』、なんだろう…?」
「…横原さん…!」
泣きだしそうな感情の昂ぶりを必死で抑える黒田の様子が痛々しくて、横原は涙の滲む瞳を手で覆って閉じさせた。その手を黒田の涙が濡らしていく。
「…なんで…。なんで、あんな事…!」
自分の身に起こった事が信じられないのだろう黒田の自問の声が、悲しく聞こえる。
「黒田くん…」
乱れた髪を掻き上げようとした横原の手が振り払われ、黒田は毛布を頭まで被って壁側を向いてしまった。
「もう、誰にも触られたくない?」
「そんな事…」
「彼がこんなことをするなんて、考えもしなかった?」
「当たり前だよ…!あんな…」
黒田が聞きたくないというように耳を塞ぐ。さっきまでの悪夢のような時間を思い出したのか微かに身体が震え出した。
「僕も似たような事したよね」
苦笑して横原が黒田の背中に話しかける。びくっとした黒田が、それでも毛布の下から声を出した。
「あれは、違う!ただ、ちょっとフザケタだけで…」
苦笑混じりの横原の言葉を黒田は否定した。
数週間前の出来事は横原の言葉通りなのかもしれない。だが、まるきり別のものだった。
どうしても髪を切りたくなった黒田が予約の電話を入れた時には、すでに「SMOKER」の閉店時間は過ぎており、さすがに顔パス状態であっても我侭をいうのはためらわれて、諦めようかと思った黒田だった。だが、直接電話に出た横原は二つ返事でOKしてくれたのだった。
「すみません、こんな時間に」
「構わないさ、今日は皆、早めに上がっていただけで。普段ならまだ皆、片付けや練習をしてるんだけど。さすがに給料日の夜だしね」
そう言った通り、店内はもう誰もいなかった。
「横原さんにシャンプーまでしてもらうの、始めてかも」
「まぁ、特別サービスってとこかな」
シャンプー台で気持ちよさそうに目を閉じている黒田に、横原は笑った。
「やっぱり無理を言ったけど、来れて良かった。他の人にって考えられないから。横原さんに切ってもらうようになってからは」
「嬉しいこと言ってくれるね。なら、これからはあまり自分で勝手に髪をいじらないように。こんなに斑に色入れちゃって…」
直すのが大変なんだと苦笑する横原を、黒田はバツの悪そうに見やった。
「や…、ちょっと試したいかな〜って…」
言い訳する黒田の様子をおかしそうに見ていた横原は、タオルで黒田の髪を包んで上体を起こしてやった。
「まったく、そんな顔で言われたら怒るに怒れないね…」
無意識なのだろうが、上目遣いの瞳は言葉よりも確実に訴えてくのだ。
タオルで髪を拭く横原に気持ちよさそうに目を閉じている姿は、可愛いとしか表現のしようがない。大型犬がゆっくり寝そべっている時がこんな感じだろうか。
額に数本垂れた髪を直しながら黒田の顔を見つめていた横原はその唇に接吻ていた。
「…?!。よ、横原さん??」
自分に触れた感触に驚いて目を開けた黒田が、自分の目の前にある横原の笑った顔を目を丸くして見詰めた。
「あ、ごめん、ごめん。なんか、すごく可愛い顔をしてたから」
悪かったと思っているとはとても思えない横原の顔を、呆然と見返すしか黒田には出来なかった。
「…って、今…」
「ああ。僕はね、可愛いものと綺麗なものはなんでも好きだから」
さらりと答えた横原が椅子を倒して黒田の身体をもう一度あお向けに押し倒した。
「ちょ…、ちょっと待ってって!何言ってんですか?!」
「もう少し君のイイ顔見たいなって思って」
年上の頼れる友達として付き合ってきた横原の言葉は黒田を戸惑わせるだけだった。
「冗談は止めてくださいよぉ!そんなんなったら俺、もう横原さんと会えなくなる!」
「どうして?もう少し親しい友達になったって思えない?」
悪びれた様子のない横原の様子から、彼が本当にそう思っているという事が良く分かった。
言葉を失った黒田に笑いかけると横原は、すっと黒田の胸元に手を滑らせた。
「ん…!」
無防備だった黒田が思わぬ刺激に声を上げる。
「やっぱり敏感だよね」
「何言って…!」
黒田はパニックを起こしそうになってめちゃくちゃに横原の手を振り払っていた。恥ずかしさに紅くなった黒田の顔を見ていた横原が笑い出す。
「分かったよ。でも、もう少し付き合って」
そう言った横原はもう一度黒田に口付けた。
横原は彼の言葉通り無理強いはしなかったが、彼の慣れた口説きに流された部分も否めなかった。ただ、その後も自分と横原の関係が少しも変わることがなく、横原の言ったもう少し親しい友人の域になったような気がしていた。
今、自分が落とされている衝撃と憤りとは、かけ離れていることだけは確かだった。
裏切り。
身体の痛みと、精神の痛みと。
全てが黒田の中で、自分自身を傷つけていくようだった。
「…全然違うよ…」
「黒田くん…」
横原が何か言いかけた時、黒田のコートに入っていた携帯が鳴りはじめて彼は言葉を切った。ベッドの中の黒田がビクリと震え、怯えた目で横原を見詰めた。横原も受信を躊躇った。この時間に掛けてくるなど通常では考えられず、今電話を掛けてくる相手として思い当たるのは一人しかいなかった。
携帯を取り出した横原はディスプレイに表示された名前を確認する。そこに予想通りの名前を見つけて、ためらいがちに黒田に手渡した。
黒田は震えそうになる自分の手を叱咤しながら思いきったように受信ボタンを押した。
「…黒田?」
耳元に囁かれた声に、ゾクリと背筋を駆けあがるものがあるのに黒田はうろたえた。
「聞いてるんだろう?ちょっと目を離した隙に逃げられるなんてね。朝まで動けないようにすればよかった…」
「な…。っざけんな!」
信じられないことを言われて黒田は声を荒げた。身体の奥から今までの怒りが込み上げてくるようだった。自分を組み敷いて伊藤がした数々の暴力としか思えない行為を、彼自身はなんとも思っていないとでも言うのか。
「ふざけてなんかいないさ。本気だって。言っただろう?あのときに」
クスリと笑いを含んだ声が黒田に嫌でも伊藤に抱かれていた時間を思い出させる。
普段と何も変わらないはずだった。軽く飲みにいって誘われるまま伊藤の部屋に行くのもいつものことだった。だが…。
伊藤の部屋に入った瞬間、鳩尾を殴られて意識を失った。気が付いたときには両手首は後ろ手に紐で戒められてベッドの上に転がされていた。
一糸纏わぬ姿で…。
初めはなんの冗談なのかと思った。またからかわれているのだろうと。
伊藤が自分も服を脱ぎ捨てて黒田の身体に重なってくるまでは。
抵抗も拒絶の言葉も伊藤には届かなかった。泣き叫んだ黒田の声も無視して黒田の中を切り裂いて身体を繋げた伊藤は、意識の朦朧とした黒田を抱き込んで何度も囁いた。
俺のものだ…と。
思い出しても信じられない、信じたくない出来事だった。身体の上に蘇る伊藤の指や唇の感触が黒田に吐き気をもよおさせた。
『黒田?』
言葉を失った黒田の意識を呼び起こすような伊藤の声がした。
「…なに考えてんだよ…!狂ってるよお前!」
『かもな…。ずっとお前を見てた所為だ…』
黒田の悲痛な叫びすら届かないように、飄々とした答えが返る。黒田はどうしても伊藤に通じない自分の痛みに、絶望すら覚えた。
「…どうして!」
無意識の涙が黒田の頬を伝わり落ちていった。
『お前は俺のものだから…。誰にも渡さない…』
決定事項を告げるような伊藤の囁きが黒田の身体を呪縛する。それを振り切るように黒田は叫んでいた。
「ふざけんな!もう…、もう二度と俺の前に顔を出すな!」
勢いのまま通話を切ろうとした黒田の耳に伊藤の笑い声が入ってきた。続けられた言葉が黒田の身体を凍らせた。
『それは無理だ。ああ、横原さんに伝えて。今日だけは我慢しますって』
伊藤の言葉に黒田の背筋に冷たいものが走る。ずっと心配そうな顔で電話のやり取りを聞いていた横原をすがるように見上げた。
「な…んで…」
『明日からは、分からないからって。じゃあ、明日』
駄目押しのように告げられて電話は伊藤の方から切られた。
「黒田くん…?」
携帯を持ったまま自失状態になっている黒田に、横原が気遣うようにそっと声を掛けた。
「…窓…。窓を開けてくれよ!」
突然の黒田の言葉に反応できずにいると、黒田は自分でベッドを降りて窓を開けにいこうとした。
「待ってって。今開けるから」
慌ててベランダへのサッシを開けた横原の耳に、真夜中過ぎの住宅地には珍しく、遠ざかる車の排気音が聞こえてきた。振り返って見た黒田の青ざめた顔に気づいて、まさかと思いながら黒田に問い掛ける。
「今の…」
黒田は顔を両手で覆って俯いた。
「あいつだ…」
ポツリと呟かれた言葉は簡単には信じられないものだったが、今の状態では疑う余地もなかった。
横原はベッドに戻ると黒田の傍らに腰掛けた。うつむいたままの黒田の髪をそっと撫ぜる。
「横原さん…!」
胸にしがみついてきた黒田を受け止めて、横原はそっと背中に腕を回して抱きしめてやった。
「あいつ、俺がここに居るって知ってた…」
黒田の声が震えていく。
「ぜったいおかしくなってる、あいつ。じゃなきゃあんな真似…」
黒田の言葉は横原も驚かせたが、震える黒田の身体を安心させるようにポンポンと背中を叩いて落ち着かせる。
「…横原さんによろしくって…」
「伊藤くんが?」
思いがけないことにさすがに横原も驚いたが、どこかで納得するものがあった。
「…俺、怖いよ…。あいつ、横原さんに…」
「大丈夫だから、もう眠ったほうがいい」
何か言いかけた黒田を横たわらせて、毛布を掛けなおしてやる。その手を黒田が握り締める。
「眠ったら悪夢を見そうだ…」
「眠るまでそばに居てあげるから」
そう囁かれて黒田は涙の残る瞳を閉じた。
ボロボロに疲れきった身体が黒田を眠りの淵に落としていった。