forget me not
桜
〜1〜
信号待ちで車を止めた伊藤は、何気ない風を装って助手席の黒田にちらりと視線を流した。
シートに埋まるように体を預けて腕組みをして前を眺める様子は、いつもと何も変わらない。
だが、いつもにも増しての口数の少なさと、思いつめたような瞳が落ちつかない緊張感を感じさせる。
こうして黒田を送るのは久しぶりだった。デヴューしてしばらくは、毎回のように車で送って帰っていた。お互いに向き合わずに会話ができる車の中は、かえって話がしやすかったのか、いろいろな事を話した。Icemanのこと、プライベートな事、ゲームや遊びの下らない話も。
黒田が自分の足になる車を買い換えてから、その機会は減っていたが。
そして、そんな事も今日が最後になるかもしれなかった。
もう直ぐ黒田は、事務所を辞め、自分の事務所でソロ活動を始めて行くのだ。
Icemanとしての活動は、年が明けてからは一切なかった。インタヴューも3人揃ってのものは昨年中にほとんど取材が終わっていた。
残っているのは、ファンクラブの為の対談や、活動休止を伝える為のインタヴュー数本くらいだ。
あとどのくらい、黒田といる時間が自分に残されているのか、考えるだけで伊藤は心の中が冷たくなって行く。
こんな事は想像すらしなかった。いや、考えたくなかったという方が正しいのかもしれない。
去年の活動方針が決まった時から、アルバムの製作作業が始まってから、こうなる事は分かっていた気がした。
ただ、それを認めたくなかっただけだった。
黒田から歌うことを取り上げるのは、彼に生きるのをやめろと言うようなものだ。
決して譲れない黒田の中の大切なもの。
一番それを理解しているのは自分だと思う伊藤は、黒田の決心を受け入れるしかなかった。
一緒に飛び立つ事のできない自分に歯噛みをしながら、黒田を見送るしかできなかった。
大切なものを奪われながら、何故自分はここにいるのだろう。
ここニ、三ヶ月でやつれたように肉の落ちた黒田の細い身体を、伊藤は見やる。
思いつめたような瞳をする事が多くなった黒田の笑顔を最後に見たのは、いつだったのだろう。
キツイと言われる黒田の瞳が柔らかくなって、子供のように笑う瞬間が好きだった。LIVEで、スタジオで、一番近くで見てきた。
自分だけの特権と思っていた。
大事な相棒という感情を、いつしか越えていた黒田への想いを、誰よりも近くにいるという現実の幸運で封じこめてきた。
一度だけの接吻を別にして。
ただ一度だけ、黒田の唇に触れたことがある。
黒田への気持ちを自覚した頃、ちょうどアルバムのレコーディングとTDでLAに2週間ほど滞在した。スタジオとホテルの往復の日々だったが、仕事の合間をぬっては気分転換と称して二人して街を散策した。
誰も自分たち二人を知らないという世界は新鮮で、開放的な気分にしてくれた。
きっとその所為だったのだ。
夕暮れが近づいてきた薄暮の街は、所々街灯が点き、家に向かう人々が多くなっていた。人気の少なくなってきた公園通りを抜けて、スタジオに向かいながら、人恋しさを覚えて思わず黒田を見詰めた。
視線を感じたのか、振りかえった黒田がどうかしたのかと問うように伊藤を見上げ、ふっと笑顔を見せた。
その瞬間、その瞳に吸いこまれるように黒田の唇に自分の唇を重ねていた。
触れたのは一瞬で、はっと我に返ると、眼を丸くして自分を見詰める黒田の瞳があった。
「なんだよ…今の…」
呆然としたような黒田の声が、少し震えていたと思えたのは自分に都合のいい思い込みだったろうか。
「あ…。何って…、なんとなく…」
告白する事はできなかった。作り笑いに誤魔化すのが精一杯で。
「あほう。なに変なところでアメリカンナイズされてんだよ」
呆れたように黒田に小突かれて、どちらからともなく笑い出して終わりだった。
言葉にされる事のなかった告白。
なかった事にされた接吻。
それで良かったはずだった。一緒に居られるならば。
会話のないまま車は黒田のマンションへの道を辿る。ここも、もう直ぐ引っ越すのだと聞いた。何度か訪れた黒田の部屋も無くなるのだ。伊藤は自分に残されるのは記憶の中だけなのかと、苦いものを飲みこむような気持ちでライトに照らし出されるアスファルトを睨むように見詰めた。
何か言わなければこのまま終わりの時間が来る。
焦りだけが背中を押すが、言葉など何も出ては来なかった。
黒田は何を思っているのだろか。
伊藤がこんな思いをしていることなど想像もしないのだろうと思えて、伊藤は苦い笑みを漏らした。
黒田のマンションが見えてきて、伊藤はウィンカーを出してエントランスに着けた。
「ありがとう…」
黒田がシートベルトを外し、伊藤を振り返った。
「ああ。お疲れ…」
いつもの様に交わされる会話が上滑りしているのが分かる。言わなければ行けないのはこんな言葉ではないと。
なにも言葉にできないまま黒田を見詰めると、こちらを向く黒田と視線が絡み動けなくなった。
伊藤を見詰めたままの黒田の瞳が一瞬ぎゅっと閉じられて、唇を噛んだ。
「伊藤くん…」
呼びかけられた伊藤が、黒田を見詰め返した瞬間、黒田が運転席に身を乗り出してきた。
エンジン音だけが響く車内で時間が止まったと思った。
唇にかさついた、それでも暖かい感触。
触れたのは黒田の唇だった。