驚いた伊藤が黒田の腕を掴んで離そうとすると、その手を振り払って黒田が伊藤の首にしがみつくように腕を回してきた。伊藤は硬直したようにその身体を受けとめた。抱き返す事もできないまま。
首筋に当たる黒田の呼吸が痛みを堪えるように不規則に早いのを感じて、伊藤はもう一度黒田の腕を掴み力をこめた。
「黒田…!」
離されるのを嫌がるように黒田が伊藤に強くしがみついた。
「嫌だ!」
嫌がって首を振る黒田の声が涙にくぐもっているのに気づいて、伊藤は無理やり黒田の顎を捕らえて顔を上げさせた。
「お前…」
涙を見られるのを嫌がって顔を背けた黒田を、伊藤は抱き寄せた。
初めて見る黒田の態度に、伊藤は驚きを覚えずにいられなかった。言葉の出ない伊藤の反応をどう取ったのか、黒田が唇を噛んだ。
「なんだこいつって思ってるんだろう…?」
黒田が悔しそうな怒ったような表情で伊藤を見上げた。
「…怒ればいいだろう!それとも、そんな事も思わないのかよ!」
「黒田?!何を言って…」
黒田の腕を伊藤は掴んで上体を起こさせた。
「いつもそうだ!お前は大人で俺の事なんかまともに相手にもしてくれなくて…!」
叫んだ黒田が伊藤を突き飛ばす。
「ハンパな優しさなんかいらなかったんだ!そんなものより傷ついてもいいから本音で付き合いたかったのに!」
車外に出ようと身を引く黒田の腕を掴もうとした指先があと僅かのところで黒田を逃がした。
バタンとドアを閉めて黒田がエントランスに駆け込んで行く。後を追って車を降りようとした伊藤は開けたドアを握ったまま動きを止めた。
追いかけてどうなるというのか。
伊藤はシートにドサリと身体を投げ出すと、ハンドルに顔を伏せた。
黒田を追いかけて抱きしめたい思いと、バカな事は止めろと制する思いが伊藤を動けなくさせていた。
一瞬だけ自分の腕の中にあった黒田を思い出す。
身体の芯から熱いものがこみあげて、黒田を追いかけたい焦燥に焼けるような思いがする。
黒田の突然の行動が、伊藤の中のものすべてを吹き払い、代わりに今の伊藤のすべてになっていた。
黒田という名前が、自分の中を占めていく。
それが怖かった。
まるで、黒田に告白されたように思い込んでしまいそうな自分。
望んでも叶わないことだと思っていたものが手に入るかもしれないと囁くものがある。
誘惑に高ぶる自分の身体に反して冷えていく思考が、伊藤の衝動を笑っていた。
馬鹿な事をしていると。
黒田の言葉も行動も、全て一人になる不安から来たもので、自分が抱えている欲望とは違うと理性が忠告を囁いていた。
だが、黒田の真剣だった瞳が伊藤の心を惑わせる。
黒田が大人だという自分は、こんなにも愚かだった。自分の本当にしたいことすら分からないでいる。
今まで自分の思うままに行動をしてきたことなど、なかった気がする。
だからいつも、自分に正直に生きてきた黒田に焦がれたのかもしれなかった。
伊藤にとって不器用にすら思える黒田の生き方に、最初は反発のようなものを覚えたが、見ているうちに視線が離せなくなった。
綺麗過ぎる黒田の瞳を見返すことはできないまま、ずっとその姿を追っていた。
(また無くすのか…?)
今まで手に入れるのを諦めて無くしてきたもののように、黒田ももう二度と会うことのできない人達の一人にしてしまうのだろうか。
そう考えた伊藤の心をすっと冷たい指先が触れていった。
嫌だ…。
ゾクリとする寒さの中でそう思った。
他の事は諦めても、仕方が無いと笑って済ますことができるかもしれなかったが、黒田だけはそんな事はできないと思った。
歯噛みをする思いでハンドルを握り締める。白くなった節に歯を立てた。
振り向くことのなかった黒田の姿が伊藤を責めるようにリプレイする。
(自分に嘘なんてつけないよ…)
いつか黒田が呟いた言葉が蘇った。
率直に言った意見が黒田を追い詰める結果になった時のことだ。要領が悪いと思わずにいられなかった伊藤がなだめるように黒田にした意見に、黒田はそう言ったのだった。
泣いているのかと思うような瞳が、それでも強い光を放ち、伊藤はもう何も言えなくなった。
嘘はつけないと言った黒田。
それを信じられなくなったら自分はもう…。
「バカヤロウ…!」
拳でハンドルを殴りつけた伊藤は、そのままドアを開けて暗闇の中、エントランスへ走り出した。
伊藤は黒田の部屋のインターフォンを押し続けたが、中からの反応は無かった。
予想していたそれに構うことなく、伊藤は今度はドアを拳でドンドンと叩き始めた。
今、会えなかったらすべてが終わるのだと強迫観念に似たものが伊藤の背を押していた。事実、その通りなのだと思っていた。
硬いドアを叩きつづける手が痛みを訴えるのも無視をして、伊藤は黒田が出てくるのを待ち続けた。
「やめろよ!なに考えてるんだよ!いま何時だと思ってるんだ!」
突然インターフォン越しに黒田の声が、響いてきて伊藤は飛びつくようにインターフォンを押した。
「話したいんだ!黒田!」
何から伝えていいか分からず言葉がうまく形にならない。
「俺は話す事なんてないから…!」
切って捨てるような黒田の言葉に胸を突かれながら、伊藤はドアの向こうの黒田の心に届くようにと言葉を紡いだ。
「俺は話したいんだ。お前に言わなきゃいけないことがあるから…!どうしても…」
必死の伊藤の言葉をどう聞いたのか、黒田はインターフォンの向こうで沈黙したままだった。
伊藤はインターフォンを押していた手をぎゅっと握り締めると、再びドアを叩き出した。今の言葉で引くつもりは無かった。
「やめろって言ってるだろう!」
カチャリとロックが外れる音がして、チェーンの分のわずかな隙間から黒田が顔を覗かせた。
「黒田!」
伊藤はその隙間をこじ開けるようにドアを掴んで引き、右手を隙間に差し込んだ。ドアノブを掴んでいた黒田の手首を掴む。
「離せよ…!」
慌てたように黒田は手を引くとドアを閉じようとした。
「っつ…!」
腕をドアに挟まれて伊藤は痛みの声をあげたが、手は黒田の手首を離さなかった。
逆に伊藤の声に驚いて、黒田は慌ててドアを閉めようとした手を離した。その黒田のためらいを逃さず、伊藤はドアを開けようと引き、閉じられないように靴を隙間に挟み込んだ。
挟まれた伊藤の腕を気遣ってドアを閉じることのできない黒田は、掴まれた手を振り切ろうと腕を引くが、伊藤の手は緩むことはなかった。
「離せって!」
「くっ…」
黒田が力任せに腕を引いた瞬間、錠の突起が伊藤の手の甲をえぐった。
「伊藤…!」
見る間に血が滲み出した傷口に驚いて、黒田の力が緩む。傷口が痛みを訴えたが、伊藤は手の力を緩めることなく黒田の手を引き寄せた。傷の痛みよりも黒田を失うかもしれないという恐怖の方が伊藤を支配していた。
「止めろって…!…なんで…」
黒田の声が困惑したように掠れていた。黒田が手を引くたびにかすり傷が増えていくのを感じながら、伊藤はただ黒田がドアを開けてくれるのを待った。
手を離すことなど出来なかった。
「…分かったから…!」
ドアの向こうから声がして、ふいに黒田の腕を引く力が消えた。
伊藤は一瞬、どうなったのか分からなかったが、掴んだままの黒田の手が委ねられているのに気付き、驚いてだドアの隙間を伺った。
ガチャガチャとチェーンを外す音がして、ドアがゆっくり開かれた。
俯いたまま立ち尽くす黒田の姿を認めて、やっと伊藤は黒田の手を離した。必死に掴んでいた指が強ばったようになって、うまく動かなかった。
「なに考えてんだよ…、ばかやろう…」
「黒田…」
悪態をつく黒田の細い身体がなぜか痛々しく見えて、伊藤は何も言えずに黒田を見つめた。