「バカじゃねぇの?ギタリストが手を怪我してどうすんだよ」
部屋に入った伊藤は、そのまま黒田が救急箱から消毒薬と救急バンを取り出すのを目で追った。
「怪我くらい構わない…。手を離したら、お前はドアを開けてくれなかったろう?」
言いきった伊藤を、黒田が驚いたように振り返った。
伊藤らしくない発言だと思っているのが手に取るように伊藤には分かった。
自分が黒田の気持ちを分かろうとしなかったように、黒田も自分について多分に誤解しているところがあるのだと思った。
一緒にいるというだけでは伝わらないことばかりだったのだ。自分も黒田も。
だから話さなければいけないのだと思う。これからの時を後悔をしないように。
「どうしても、今、会って確かめたかったんだ…」
黒田の気持ちと自分の気持ちと、どちらもまだ伝えられてはいないのだから。
「なに言ってんだよ…おかしいよ…。ムカついてるなら、俺のことなんか無視すればいいんだ…、さっきみたいに」
消毒薬を持ったまま所在無げに立ち尽くした黒田が、伊藤を見つめた。
「ちが…!あれは驚いて…、お前が急にあんな…!」
「伊藤…」
自分のした事を思い出したように気まずげに黒田が視線を逸らした。
「俺が必死になったらおかしいのか?お前の気持ちを知りたいって思ったらおかしいのかよ!」
言わなければと思うことが渦巻いて、伊藤は焦れるように黒田に一歩近づいた。びくりとするように黒田が後ずさる。その黒田の反応に驚いて伊藤の足も止まった。
黒田との間に存在する壁。そんなものは壊してしまいたかった。
「好きだ…!」
黒田が、伊藤の言葉に凍りついたように動かなくなった。
「好きだよ…、ずっと前から…お前が」
やっと言葉に出来た想いを確かめるように、伊藤は繰り返し告げた。言葉にした想いが自分の中で降り積もって確かな形をとっていくのが分かった。
「だから教えてくれよ…!さっきのお前の言葉の意味を!」
伊藤は黒田の言葉を待ったが、黒田は俯いたままで、沈黙が落ちる。
「嘘だ…」
黒田の掠れた声がして、伊藤は驚いて黒田を見やった。黒田の潤んだ瞳がそれでも強い光を放って伊藤を睨んでいた。
「嘘じゃない!」
「お前はいつもからかうばかりで・・・それとも、同情かよ!」
伊藤は驚いて黒田を見つめた。
「どうしてそんなこと…」
「一人で、事務所も出て、これから歌っていけるかも分からなくて…!」
途切れた声に、伊藤は黒田の直面している不安と恐怖を見た気がした。巨大な庇護の下で自分達は自由に活動して来れた。それが籠の中だとしても。
そこから飛び出る決心は並大抵のものではなかったはずだ。伊藤に悩みを打ち明ける事はなかったが、それでも苦しんでいた事だけは分かった。
手を差し伸べることもできずに迷っていた間に黒田は自分の道を決めた。
それを知った時の感情は怒りに近かった。
黒田へと自分への。
「そんな事を思う訳ない!俺はいつでも手の届かないお前を見ているばかりで…」
今も、こんなに近くに居ながら触れることも出来ない黒田を思っていた。
「そんなの嘘だ!いつもお前は遠くばかり見て、俺なんて見てもいなかっただろう!」
黒田が叫んで、手にしていた消毒薬のビンを伊藤に投げつけた。
「つっ…」
伊藤のこめかみを掠めてビンが壁にぶち当たって床に転がる。
「あ…」
自分のした事に驚いたように黒田が固まった。
そんな黒田に伊藤は、なんでもないと笑って見せた。
「嘘なんかじゃないよ。俺は確かに平気で嘘も言えるけど、でも、今だけは嘘をついたりしない」
好きだと告げる瞳に、黒田は迷いを写した眼を閉じて両手で顔を覆ってしまった。
「簡単にお前に言えないくらい、大切だったんだ…」
黒田の心に届くようにと、言い聞かせるような伊藤の声だった。
「俺は…。俺は…、お前が俺を要らなくなったならそれでもよかったんだ…。お前の本当の気持ちが分かれば…。そうすれば俺もこんな思いは止められたのに…」
黒田が呟くように吐き出した。
「なのに、なんでそんな事を言うんだよ…!俺はバカだから信じたくなるだろう!」
「黒田…!」
伊藤は、黒田の言葉を痛みを覚えながら聞いていた。黒田の腕にそっと触れると、びくりと身を竦ませた黒田が唇を噛んで立ちつくした。
それ以上触れることをためらった伊藤は、黒田のささいな反応も見逃すまいとするように見詰めながら確かめたかった言葉を口にした。
「黒田…、今のは告白だって思って良いのか?」
その言葉に一瞬泣きそうな表情を見せた黒田が伊藤の胸に飛び込み首にしがみついた。
「まだわかんねぇのかよ!バカ!」
可愛げのない睦言を耳元で囁かれ、伊藤は突然で受け止めるだけだった黒田の背を、強く抱き締めた。
「好きだよ…!」
望みながら諦めていた言葉を黒田の声で聞いた瞬間、伊藤は自分の視界が滲んでぼやけていくのを感じた。
「今日、お前が何も言ってくれなかったら、もう全部忘れようと思ったんだ…。こんなバカな思いは全部止めて、甘い期待なんてもう持たないって…」
抱き締めた腕の中で黒田がポツリポツリと語る。
「音で繋がっていた関係だから、ヴォーカルとして必要なくなった俺にお前は何の興味もないんじゃないかって思ってた…」
「そんな訳ない!それだけの4年間じゃないだろう!一番近くに居て同じものを見ていたって思ってるのは俺だけか?」
黒田が言っている意味を理解した伊藤は、驚いて黒田の顔を覗きこんだ。
「そうじゃない。俺も同じだよ、ずっとそう思ってた!…でも、もう一緒にやれないのは変えられない事実だから。」
そう言って目を伏せた黒田の硬い表情は最近よく彼が見せたもので、伊藤の心を痛くさせる。
「本当は、少し伊藤のことも憎んだんだ…。引き止めてくれるんじゃないかって思ってた。だから、こうなって、もう俺なんて…」
言いかけて、はっとしたように黒田が口を押さえる。逸らされた顔を見詰めながら、伊藤はもう一度強く黒田を抱き締めた。
「俺は…、ずっと諦めていたから。お前が応えてくれることなんて有り得ないって。お前の決めた事に何も言う権利なんてないって。だから、こうしてる今も信じられないくらいだよ」
「…お前が信じてくれないなら、俺も信じられなくなる」
少し上目づかいに見上げてくる黒田の真剣な眼差しに、伊藤は自分の失言に気づいた。信じてほしいと願うなら自分が相手の想いを信じなければならないはずだった。
「そういう意味じゃ…」
「うん、分かってる」
言い掛けた言葉を黒田の手に遮られた。
「俺は信じたから…。もし、これから離れて気持ちが変わっても、今の気持ちだけは真実だって信じたから」
「黒田…?」
伊藤は黒田の言葉の刹那的な色を聞きとがめて、問うような視線を向けた。信じると言った言葉の端から諦めているような黒田に不安を覚える。
だが、そんな伊藤の様子を無視するように黒田が顔をあげて体を起こすと伊藤を見詰めて初めての笑顔を見せた。
「なぁ、いつから俺が好きだった?」
「え…?」
言葉に詰まった伊藤の顔を笑って見ながら黒田が続ける。
「教えろよ。なあ、ずっと前にふざけてキスした事があったろう?覚えてる?」
驚く事を言い出した黒田に、伊藤は焦った。忘れる訳がなかった。自分の中の唯一の甘い記憶。それを黒田が覚えていた事に驚いていた。
「俺、びっくりして、なのにお前はなんでもないって顔をしてて…。俺がお前を意識し始めたのって、多分あれからだよ」