forget me not 4

 


「黒田…」
自分の声が掠れているのを伊藤は意識した。初めて好きになった少女に告白された時よりも胸の鼓動が激しいと思った。黒田の頬に触れようと伸ばした手が震えているのが自分でも滑稽だった。
片手で包めるほど細くなった黒田の頬に触れた。滑らかな頬の感触を手が覚える間もなく、黒田がその手を握って頬から離す。
「つっ…」
黒田の手が傷口に触り、痛みに伊藤は眉を顰めた。慌てて力を抜いた黒田がそれでも手を離さずに伊藤を見上げた。
「言えよ。あの時は?伊藤…?」
伊藤の答えを引き出したいと、瞳を覗き込む黒田の視線を外す事ができなかった。
囚われたと思いながら伊藤は黒田を見詰めるしかできなかった。その伊藤の手を握ったままの黒田が、ゆっくりと伊藤の手の傷に唇を寄せた。
「黒田!」
黒田の舌が血の乾き始めた傷口を舐めた瞬間、ゾクリとする衝撃が伊藤の身体を走り抜けた。慌てて黒田の手を振り払おうとしたが、黒田は離そうとしなかった。
「やめろって…!」
「何?」
身体を巡った衝撃は、甘く重い熱となって中心に溜まっていく。今すぐにでも欲望という名前に姿を変えて、目の前の愛しいものに牙を剥きそうで、伊藤は自分自身に怖さを感じた。
「お前…。挑発だよ、それ…」
吐いた弱音は、降参の合図のようだった。
「そのつもりだから」
笑った黒田の顔を見た瞬間に伊藤は嬉しいような切ないような感情に襲われて黒田を抱き締めた。
「好きだったよ、その前からずっと…。お前が誰と付き合っていても構わないくらい。お前が大切過ぎて、触れる事なんてできなかった…」
自分の手を取ったままの黒田の手を握り返して、その手に口付ける。びくりと黒田の身体が跳ねた。その身体を押し止めるように伊藤は黒田を抱き締め、隠しようもなく熱くなってきている自分を黒田に押し付けた。
それを感じ取った黒田が、息を呑み、それからきっぱりとした目で伊藤を見返した。
「俺…、人形じゃないよ。好きなら抱き合いたいって思う男だよ…。大事にしてもらう必要なんてなかったんだ…」
「違う…!そうじゃないんだ…」
言われて伊藤は言葉に詰まった。黒田に言ったことは事実だが、そんな綺麗な想いだけで見ていた訳ではない。横たわったベッドの中で、何度黒田を犯す夢を見たことだろう。呆れるほど正直な自分の欲望は、黒田を征服するまで収まることはなかった。
そんな自分が、実際に黒田に触れたらどうなるか。自分に自信がなかった。
「…こうして手に届くところにずっと居たのに、知らない事が多すぎたよ、俺達」
伊藤の胸を押し返して身体を離すと、黒田は自分でシャツのボタンに手をかけて一つ一つ外し始めた。
「俺を全部知っていてほしいんだ…。お前の事も知りたいよ、だから…」
「黒田…!」
ぱさりとシャツが床に落とされたのと同時に、伊藤は黒田の前に膝まづいて肉の薄い細い足を抱きしめた。レザーのパンツの上から腿に口付ける。
それだけの刺激にも反応して黒田の身体が震えた。
「俺を欲しいって言えよ…」
最後通告のような黒田の甘い声に、伊藤は自制の糸が焼き切れたのを感じた。
ゆっくりと降りてきた黒田の顔を引き寄せ、伊藤は無我夢中で黒田の唇を貪った。

 

すべての衣服を剥ぎ取り、マットレスに押さえつけた黒田の身体は、暗闇の中で白く浮き上がって伊藤の欲望をどうしようもなく煽る。
抵抗らしい抵抗もなく、伊藤の背を抱き締め返す黒田は、自分達の間にある伊藤のシャツを邪魔だというように強引に脱がしていく。気付いた伊藤が自分で脱ごうと身体を離すが、その間さえも離れるのが嫌だというように黒田が伊藤の首に腕を回してくる。
伊藤がシャツをベッドの下に投げ出して黒田の身体に重なってくると、ようやく安心したように微かな笑みを黒田が浮かべた。
その笑みに誘われるように唇を重ねる。薄く開いて伊藤の舌の侵入を許す黒田の口腔内を伊藤は味わった。
歌う黒田の唇に焦がれ続けていた。こんな風に、触れる事ができる日が来るとは思わなかった。
喉元にきつく吸い付くと、微かに黒田が声を上げた。LIVEの時とは別の艶のある声が、伊藤を熱くさせた。触れていく身体のそこここに黒田が跳ねるように反応を返すのが伊藤をたまらなくさせる。
今までは見ることしか許されなかった黒田の身体に、今、実際に自分が触れて黒田の快楽を呼び起こしているということが、何よりも伊藤を興奮させていた。
もっと触れたい、もっと確かめたいと欲求は満たされることなく膨らんでいく。
「い…とう…!」
ベッドサイドのライトのスイッチを入れた伊藤に、微かに黒田は抗議の声を上げた。
「見たいんだ、黒田のすべてを…」
胸元に唇を落としながら伊藤が訴えると、迷うように揺れた瞳を閉じて、黒田は黙った。薄い皮膚をきつく吸われると伊藤の頭を抱き込み、髪に指を差し入れ、直に伊藤に感じている快楽を教える。
黒田の下肢をそっと割り、陽に晒される事もなく白いままの肌を撫で上げていく。耐えられないように身を捩ろうとした黒田を押さえつけて、手の辿った後を舌で追いかける。
「や…っ」
伊藤の頭を引き離そうとした黒田の手を簡単に振り切って、伊藤は見ることも叶わなかった黒田の秘められた箇所を押し広げ、光の下にさらす。
自分だけに許された特権に身体が震えそうだった。
「黒田…」
愛しさと欲望とすべての想いを込めて黒田の名を呼ぶ。黒田を飲み込んだ瞬間、黒田の悲鳴めいた声が上がり、びくっと身体が跳ねた。
「伊藤…!」
黒田は快楽に掠れる自分の声を聞くことに耐えられなくなったのか、両手で口を覆ってしまった。声を押し殺して涙を振り零す黒田を、伊藤は上目遣いに見ながら、黒田の最後を促した。

 

 

 

もぞりと隣りで動いた人の気配に、伊藤は目を覚ました。
「黒田…?」
一晩で手に馴染んだ黒田の肌の感触を、また確かめるように黒田の腰に手を回す。
シーツから抜け出して、床に下りようとしていた黒田が振り返る。
「あ、起こした…?」
遮光カーテンが日の光を遮っているが、部屋は明るく黒田の姿を映し出した。時計で確認した時間はもう、昼に近い時間を示していた。
「どこに行くんだよ」
半身を起こした伊藤が、黒田の腕を掴みなおして問う。呆れたような顔をした黒田が、その手を外して笑った。
「シャワー浴びるんだよ。昨日あのまま寝ちゃっただろうが」
伊藤に対する含みが一杯の台詞に、伊藤は慌てて手を離した。その露骨な態度を笑って見ていた黒田が床に落ちていた伊藤のシャツを肩に掛けると、身体に負担がないようにそっと立ちあがった。
「あ…、大丈夫?」
自分が無茶をした自覚のある伊藤は、他に何も言えず黒田を見上げた。
「なに情けない顔してんだよ」
吹き出した黒田が、伊藤の顔に手を伸ばす。
「いいんだよ。気持ち良かったのお前だけじゃないもん。きっと、忘れない」
「く、黒田…」
あまりにストレートな黒田の言葉に、なんとも返せず伊藤はただ黒田の手を掴み寄せると掌に口付けた。
「好きだよ…」
囁いた言葉は、夕べ何度となく黒田に伝えたものだった。今もう一度、誓うように黒田に告げる。
「伊藤…」
少し驚いたように見返す黒田を引き寄せて、静かな深い口付けを交わす。
「朝っぱらから…」
照れ隠しのように呟いた黒田が、伊藤に背を向けようとする。立ち上がって部屋を出ようとした黒田がふっと振り返って笑みを見せた。伊藤は綺麗な黒田の笑みに見惚れた。
昨日と今日で、変わってしまった自分と黒田の関係。
良かったと喜ぶには障害が山積している関係だという事は分かっていた。ただ、確かめ合った気持ちだけが2人を守る武器だと思う。
シャワールームから漏れてくる水音を聞きながら、伊藤はまだ完全に覚醒していない身体をベッドの誘惑に任せた。

 

 

 

空腹を覚えて、目覚めた伊藤は時計を見て慌ててパンツを拾い上げて足を通す。もう昼はとう過ぎていた。
「黒田…?」
起こしてくれれば良かったのにと思い、黒田を探して部屋を出た伊藤は、マンションのどこにも黒田の気配が無い事に驚愕した。
昨日と何も変わらない室内で、黒田の姿だけが無い。
「らぴ?」
探したらぴの姿も無くなっていた。
居間の椅子に丁寧に畳まれた伊藤のシャツが置いてあるのに気がついた。さっき、黒田が羽織って行ったものだ。
しんと身体の奥から冷えていくものを伊藤は感じた。
認めるのが恐ろしい現実に飲み込まれそうだった。
何か食べ物でも買いに出たのか、それともらぴの散歩なのかと思う。
そう思う側からそうではないと、絶望的な確信が浮かんでくる。
伊藤は服の掛けてある椅子に崩れるように座り込んだ。上半身をテーブルに投げ出す。
チャリンと金属音がして、指先にキーホルダーが当たった。付いている一つだけの鍵はこの部屋のものだとすぐに分かった。
伊藤はその鍵を腕で払い落とした。黒田が戻る事のない部屋の鍵など何の価値もなかった。

黒田は伊藤から離れる事を選んだのだ。

昨夜の、あれだけ愛し合った時間を捨て、伊藤の抱き締める腕を捨てる事を選んだのだ。

バンッ!と伊藤はテーブルを握り締めた両手で叩きつけた。
「どうして…!」
喉の奥から搾り出すような声だった。
ぽつんぽつんとテーブルの上に涙が跡を残すのも構わず、伊藤は消えた黒田の姿を見詰めるように、じっと一点を睨みつづけた。
待って黒田が戻るものなら、何時までもここで待ちつづけたかった。
(きっと、忘れない…)
黒田の声が蘇る。
こんな事が起こるなどと予想もしなかった幸福な時間。その中で黒田は伊藤から離れる決心をしたというのか。
残酷だ…。
こんな形で別れるくらいなら、甘い時間などいらなかったと伊藤は歯噛みをするように思う。
触れたら触れただけ、離れる痛みが増すだけだ。
「許さない…」
呟いた言葉は一人きりの部屋に響いて消える。呪いの呪文のようにこの部屋に残したかった。
許さない、と思う相手は誰なのか。
黒田自身と、いまこの状況に何もできずにいる自分。そして、自分達をこんな形に追い込んできた状況すべて…。自分でもどうしようもないほど身体の中で怒りの炎が荒れ狂っていた。


許さない…。
許さない…、許さない…。
その言葉だけしか分からなくなったように繰り返す。
今度黒田を手に入れたら、決して離さないのに…、と唇を噛んだ。

 

トゥルルル…と、突然伊藤の携帯が鳴り出し、伊藤は淡い期待を抱いて携帯の通話ボタンを押した。
「伊藤くん?!」
押し当てた耳の中に響いたのは、黒田ではなく安部マネージャーの声だった。一瞬にして現実に引き戻される。
「オフの日に悪いんだけど、これから出て来れるかな?」
伊藤が自宅にいる事を疑うことのない声だった。
「大介が新しいヴォーカルの子を連れて来るって突然言い出しちゃって…、顔合わせだけでもしたいらしいから」
「もう…ですか…?」
まだ、活動停止の発表すらしていない筈だった。
「次の活動を始めるなら、早ければ早いほど良いでしょ?これから鍛えなきゃいけない子みたいだし」
伊藤の動揺を感じたように、言い聞かすような安部の声だった。こんなことは彼等にとっては慣れた事なのだと思い知らされる瞬間だった。
自分も彼等にとっては唯の駒なのだと思う。
だが、それでも自分も感情のある一個の人間だった。そんなに簡単に割り切れる訳がない。
(黒田…!)
そんな場所に耐えられずに飛び立とうとした黒田の気持ちがよく分かる。
自分を裏切るように姿を消した黒田を憎む反面で、黒田への恋慕が伊藤の身を焦がす。
どうやっても黒田を切り捨てる事などできないのだと、自嘲の笑みに顔が歪む。
「伊藤くん?」
反応の無い伊藤に焦れたように安部の声が掛かる。
「あ、すみません。大丈夫です、行きますよ」
この世界に残る事を選んだのは自分だった。ならば、この場所で生き残らなければならなかった。
もう一度、黒田を手に入れるためにも。
一時間後にと約束をして電話を切った伊藤は、椅子に背を預けて目を閉じた。
黒田の部屋からなら事務所までは20分くらいだ。時間ぎりぎりまでこの部屋で、帰らない黒田を待っていたかった。
部屋のあちらこちらに残る黒田の残像を、愛しむように眺めながら、伊藤は刻々と残り時間が少なくなっていく時計を見ていた。



今度、黒田を手に入れたらもう離さない…。


呪文のように繰り返し、伊藤はようやく椅子から立ち上がった。
残された部屋の鍵を拾い上げて、伊藤は玄関のドアを開いた。

 

END