桜
手に持った携帯の画面に表示されたナンバーを見ながら発信ボタンが押せず、再び待受け画面に戻ってしまった携帯に気付いて、伊藤は苦笑をもらした。
会いたくて、声が聞きたくて電話をするというだけの事が、時々どうしようもなく難しく思える事があった。
それは会えなかった期間が長くなるほど難しさを増すようだった。
一緒に居る事の必然性。
仕事仲間。同じユニットのメンバー。
そんな肩書きが無くなって、今、二人の間にあるものを何と呼べば良いのか。
握り締めた携帯でコツンと額を叩き、伊藤は溜息を一つついた。
男という生き物は、かなり臆病なもので、誘って断られるというシチュエーションは心理的にかなりキツイのだ。
OKの答えが返ってくるような時ばかりをねらって電話をするようになった自分に、姑息になったな、と笑う。
でも、これは彼のためでもあるのだと自己弁護をする。
仕事を終えて車に乗り込んだ26時過ぎ。シートに凭れて彼を思う。
電話を架けるのを躊躇うのは、まだ仕事中かもしれない彼の行動が読めないからだ。
『メシを食いに行かないか?』
結局、電話をする事はやめてメールに切り替えた自分を笑いながら、伊藤はキーを回した。
「最初から電話してくれれば良かったのに!」
助手席に乗り込んだ黒田が少しすねたように伊藤を睨む。
まだ生乾きの黒田の髪が水分を含んで天然のウェーブが出ている。
伊藤からのメールに気付いて電話を架けてきた彼の答えは「良いよ」というものだったが、伊藤が既に自分のマンションの近くまで来ていると知って、かなり慌てて仕度をしたらしい。
女でもあるまいし、食事に行くだけなのにと思ってしまう伊藤だったが、その辺は黒田のポリシーなのだろう。
黒田の瞳に掛かる湿った髪をそっと指で梳きあげる。
びっくりしたように黒田が見返すのに伊藤は笑った。
「風邪ひくなよ」
言いながら車内のヒーターを少し強くする。
「平気だって」
そう言って前を向く黒田は、伊藤のかきあげた髪をくしゃくしゃと掻き乱した。その子供染みた仕草に伊藤は苦笑をもらした。
「さて、どこに行く?この時間じゃ居酒屋系かファミレスくらいしか開いてないけど」
シートベルトを嵌めた黒田を見ながら伊藤がリクエストをきく。
「どこでも良いけど…。っていうか良いのか?車出して。アルコールだめじゃん」
めずらしい黒田の気遣いが嬉しくて、伊藤は自然と笑みがこぼれた。
「構わないって。今はあまり飲みたいって感じじゃないし」
「でも…」
「なに?」
「別に、なんでも。…そう言えば今なにかフェアやってるとこあったんじゃないか?さすがに腹へってきた」
なにかを言いかけて飲み込んだ黒田がシートベルトを締めると伊藤を急かすように前を向いた。
「了解。探してみましょ」
笑って伊藤はエンジンをかけた。
深夜の人影のまばらなファミレスは、不思議とどんな人種も受け入れる空間に変わる。昼間であれば人目を引かずにいない長身と平均をはるかに超えた容貌の二人連れも同じ空気の中に溶け込んでみえる気がする。
営業用のスマイルを浮かべるだけの店員の態度がかえって気楽だ。
窓際のコーナー席は自分達二人だけしか客が居らず、彼に触れても誰も気付かないのではないかと、ふとした誘惑に駆られる伊藤だった。
「先に生を2つ」
水とおしぼりを運んできた店員に黒田がオーダーする。
「え?おい…」
驚いた伊藤が声を落として黒田に抗議する。
「一口くらい良いだろ。付き合えって。仕事終わりで、俺、もうちょっとでビールにありつくトコだったんだから」
言葉よりは柔らかい表情で伊藤を眺める黒田が笑う。
「ま、良いけどね」
苦笑した伊藤は、水に伸ばしかけた手を止めた。確かにそれくらいのアルコールでどうなるものでもない。
お待たせしました、と混雑時では信じられないような早さでビールのグラスが運ばれてきた。二人の前に置かれたグラスの泡に笑みがこぼれる。
「じゃ、乾杯」
黒田がグラスを取り上げた。
「久しぶりに会えた事に?」
笑う伊藤に黒田の眉根が寄せられた。
「意地悪いぞ…。お前の誕生日に!だろ」
少し照れたように頬に紅味の指した黒田が上目遣いに睨む。その表情があまりにもらしくて伊藤はくっくっと笑い出した。
「覚えてくれていたなら、ちゃんとしたレストランでも予約しとけば良かったかな」
その後のホテルも…と言い掛けて慌てて言葉を飲み込む。それに気付かなかった黒田に安堵して。
「あほう」
こんな明け方までやっているレストランなんかあるもんか、と黒田が突っ込む。
「それに、俺、ヤダからね。男二人でディナーコースなんて図なんか。ただでさえ目立つのに…」
言葉を濁した黒田が、驚いたように見返す伊藤の視線に少し気まずそうに目を逸らした。
人の目を気にしてしまうのは、もう一種の条件反射だ。
人に観られることを職業に選んだのだ。それに伴うデメリットは納得していたはずだ。
普通の社会人と言われる彼らと生活時間がすれ違う事も。
自分達がやりたい事はこれなのだと、他の生き方など出来ないのだと知っている。
その譲れない生き方の中で出会った相手だ。お互いに自分達の関係が一般のモラルから外れている事も分かっている。
だが、今まで何度か迎えた分岐点でも、手を離す事が出来なかった。会えない時間に嫉妬と焦燥に身を焼くような思いをしても。
それでも、時々ガラス窓の向こうを行き過ぎる彼らの笑顔に、憧憬を覚える事があった。
彼らのように誰にも憚ることなく他人の前に出ることなどできない。
LIVEならば、撮影ならば、どんなに近くに居ても許されるものを、一旦そのシチュエーションを離れると奇異に写るのだ。
もう二度と無いであろう瞬間の熱さが、まざまざと思い起こされて、伊藤は胸の痛みを押し殺した。
「黒田…」
向かい合う黒田の瞳の中に、同じ痛みを見て、伊藤はそっと手を黒田の頬に伸ばした。
「…っ。だから!こんなトコでこういう事をするなって…!」
慌てて伊藤の手を振り払った黒田が椅子の背凭れにぴったり背を付けるように避難する。
「あ、悪い悪い」
自分の無意識の行動に驚いた伊藤は、黒田の露骨な反応に笑い出した。
「悪い、じゃねぇよ…」
怒るというよりは困ったような表情の黒田に笑いかけて、伊藤は行き場の失った手でオーダーの為の店員を呼んだ。
「本当にちゃんと食ってるんだな」
少し感心したように言いながら伊藤は会計を済まして、入り口のドアの所で伊藤を待つ黒田の横に並んだ。
「食べてるよ」
当たり前だろうと言う黒田の姿を上から下まで見下ろし、伊藤が肩をすくめる。
「痩せたように見えるからさ〜」
あまり好き嫌いを言わない黒田だったが、食べる量は多い方ではなかった。疲れが溜まってくると食事の量がガクンと落ちるのだ。
「ステーキフェア」中のこの店のメニューを見て、喜んで選んだセットを食べ尽くした黒田を見ながら、伊藤は自分の料理を食べるのはそっちのけで幸せな気分に浸っていた。
黒田が精神的にも落ち着いているというのも安堵の一因だったが、食事をしている時の黒田を見るのが好きだった。唇の動きや指の動きに視線を奪われる。そんな自分にちょっとアブナイのではないかと思ったりもするが、妙にセクシャルなものを覚えてしまうのだから仕方が無い。
それを見ている自分の表情もかなり弛んでいるらしく、黒田が訝しげな視線をよこすたびに引き締めるという繰り返しだった。
「けっこう美味かったな」
「ああ」
ドアを押して外に出ると、夜明け前の青い闇の中にうっすらと街並みが浮かんで見えた。
「もう朝だな…」
「うん…」
伊藤は景色に見入るように立ち止まった黒田を促すように、その背にそっと腕を回した。
「俺、生まれたのって朝方なんだってさ」
ふと思い出して伊藤が呟いた。
「へぇ…」
一歩階段を降りかけた黒田が、ふと振り返った。見上げてくる瞳のきらりという光に伊藤は気圧されるように動きを止めてしまった。
何か悪戯を思いついた子供の瞳だ。
「なぁ」
そう言って腕を掴んできた黒田に驚く。
「なに?」
驚きのままに黒田の顔を覗き込む。
「朝を捕まえに行こう!」
「へ?!」
今の自分が思いきり間の抜けた顔をしているだろうという自覚があった。それだけ黒田の言葉は伊藤の意表をついていた。
「お前、酔ってる?」
恐る恐る伺いをたてる伊藤を黒田が一笑した。
「誰が、ビール1杯で酔うんだよ」
「俺の分も飲んだじゃん」
やはり運転を気にして一口二口で飲むのを止めた伊藤だった。その分も黒田が飲んだのだ。
機嫌の良さそうな笑顔には、それでも少しはアルコールが影響してそうだ。
「良いから!早く車に行こうぜ。飲酒運転にはならないだろ?」
先にどんどん階段を降りて行く黒田を追いながら、やっぱり酔ってるな、と伊藤は頭を掻いた。
夜明け前の交通量の少ない首都高を抜け、湾岸線を東に向かう。
薄闇がだんだんと青く周りを染め、遠くの空が白んでくるのが見える。対向車のライトの明かりが白々と写る。
「良いのか?こんな遠出して。今日の仕事は?」
つい心配してしまうのは、黒田の仕事のハードさを知っているからだ。今日の自分自身のスケジュールはオフだから構わないのだが。
「平気。夕方からだから。伊藤くんは?」
「あ、俺は1日オフ」
無理に日程調整したとは言えない。
「じゃ、問題無いじゃん。ドライブを楽しむ時間くらいあるだろ?」
笑う黒田に、負けたと肩を竦める。
ドライブに食事、まるでデートコースだ。
あまり人の居る場所に二人で出掛けるという事は無かった。お互いの家で会うことが多かった。
たぶん人の目に触れないようにと無意識に自制していたのだろう。
車内の暖かさと満腹さで隣りでこくりこくりし始める黒田に気付いて伊藤は笑った。
「寝ていて良いよ。夜明けには起こすから」
「やだよ。せっかく二人で居るのに…」
上目遣いに黒田が睨む。その視線の意識していない色香にどきりとする。
「俺は消えたりしないよ?」
動揺を押し隠すように、わざと軽い口調で返す。
「目を閉じたら1人だよ。いつもと同じじゃんか…」
真っ直ぐ見詰める黒田の視線が痛い。言葉ではなく、傍にいることを伝えたくて、左手で黒田の右手をぎゅっと掴んだ。
握り返す黒田の手の力が今ここに居ることの証明のようだった。
「海岸まで降りようか?空が明るくなってきた」
頷く黒田を確かめて、伊藤は一般道への降り口の車線に入った。
刻々と周りの青い闇の世界が明かるくなっていく。人家の無い海岸線沿いの道路を、道なりに東へ向かう。海が、砂浜がはっきりと見えるようになってきた。
「車は無理かな…」
浜辺に続く歩道があるのに気付いて車を停めた。
「せっかくだから海まで行こうぜ」
既に降りるつもりになっている黒田にOKと苦笑する。
「寒いからちゃんとコート着ろよ」
黒田に釘をさして、伊藤は自分も黒のバーバリーのコートを後部座席から取り出して羽織った。
砂浜を歩くには適しているとは言えない皮のブーツで砂をきしませながら波際近くに歩いていく。
少し後ろから同じく砂に足を取られながら歩いて来る黒田を感じる。
放射冷却で海面から白く水蒸気が上がっている。
水平線から顔を覗かせ始めた太陽が赤く辺りを染め始めた。
立ち止まりその自然が作り出した芸術とも言える光景に見惚れる。
こんな風に朝陽を見るのは初めてだと、伊藤は思った。
スタジオに篭って徹夜明けの朝、飲み歩いて朝帰りになった朝、夜明けなど今まで何度も見て来ていた筈だった。だが、こんな静謐な光りを感じたことなど無かった。
「…きれいだな…」
ふっと隣りに暖かい空気が寄り添い、黒田が隣りに立った。
「ああ…」
他に応える言葉が見つからず、伊藤はその場に立ち尽くし空を見詰めたまま答えた。僅かに触れ合った黒田の指の冷たさに気付いて、伊藤は黒田の肩を抱き寄せた。
嫌がるかと思った黒田は大人しく伊藤の腕に収まり、ほんの少し伊藤の肩に凭れるようにして同じ光景を見詰めていた。
腕の中の温もりと、遠くを見詰める横顔。
今、自分と同じものを見て、同じ思いで隣りに立つ存在。
それが他の誰でもなく、黒田倫弘であることの意義。
それを意識した途端、伊藤の中にズキリとした痛みと熱いものがこみ上げて来た。
「…伊藤?」
訝しげな顔で見上げてきた黒田が、つと伊藤の頬に指を伸ばしてきた。
指先で拭われて、伊藤は自分が涙を流していたことに気付いた。
「え…?俺…」
無意識の涙に心底驚いて、伊藤は自分で涙を擦り取ると濡れた手を見詰めてしまった。
「…泣きたくなるくらい、景色が綺麗に見える時ってあるよね…」
呆然とした伊藤をからかうでもなく、静かに微笑んだ黒田が伊藤の手を握った。
「黒田…」
伊藤の中で何かが堰きを切ったように溢れ出してきた。
「黒田…」
両腕で黒田を抱き締めた伊藤は、言葉もなく、ただ、まだ足りないともっと近くに感じたいという思いのまま黒田をがむしゃらに抱き寄せた。
「い、とう…!」
苦しげな黒田の呼ぶ声にも力を緩めることが出来なかった。
「ありがとう…」
耳元で呟くように綴られた伊藤の言葉に黒田の動きが止った。
「今、ここに居てくれてありがとう」
ようやくの思いで伊藤は腕を解いて黒田と見詰め合った。驚いたように伊藤を見返す黒田のすべてを愛しいと思う。
この想いも、この関係も間違いかもしれない。
だが、他の誰かではだめなのだ。
唯一の相手に逢わせてくれたものが「運命」ならば、この手を離しはしない。
「なに言ってんの、お前…」
戸惑うような黒田の表情の一つ一つを胸に刻み付ける。この自分の中の貪欲なまでの独占欲。
これは黒田は知らなくていい事なのだ。
「誕生日に黒田と一緒に居られて嬉しいなって思って」
笑って見せた伊藤に、黒田がかっと赤くなる。
「よくそんな恥ずかしい台詞をしらふで言えるよな…」
呆れたように笑う黒田をもう一度、今度はそっと抱き締める。
「本当の事だから恥ずかしいもなにもないだろ?」
本当のことだ、と伊藤は胸の中で繰り返す。
たとえこの関係が間違いでも…、苦しみばかりが多くても…。
「伊藤…?」
言葉とは裏腹の伊藤の思い詰めたような瞳に黒田が不安そうに問い掛けた。
その瞳に囚われて、口付けたいと思った。それにはほんの少し首を傾けるだけで足りた。
軽く触れるだけの口付けを黒田は驚いて目を見開いたまま受けていた。
髪に指を埋めるように指し入れ、抱き寄せてもう一度唇を寄せる。目を閉じて伊藤を受け入れた黒田の唇の甘さに酔う。
「ん…」
繰り返される口付けに、苦しげに声を漏らした黒田が、それでも伊藤にすがり付く様にコートの背に指を立ててくる。名残惜しく離した唇の間で交じり合う吐息が熱い。
「…そろそろ帰ろう」
ささやく言葉の合間に、黒田の額に瞼に頬にと唇を滑らせる。
「…うん…」
答える黒田の瞳が、熱に潤んだように濡れている。
お互いの身体の奥に灯された炎に気付いていた。
帰った部屋で二人を待つ、熱い時間の予感に背筋を駆け上る甘い痺れを感じている。
明るい、生まれたての朝の光りが照らす世界。
偽りの夜を造り上げて、抱き合うのだ。
真実の想いだけで。
開いたコートに黒田を抱き込むようにして、伊藤は黒田とともに踵を返して歩き出した。
fin