kidnap

 

 

「ゴメン、黒田!」
電話に出た途端、耳元で叫ばれて、黒田は携帯を耳から離して眉をしかめた。
数少ない古くからの友人で、昨日も会ったばかりの鈴木からだった。
電話の向こうの相手はそんな様子を知るわけもなく、堰切ったようにまくし立てている。
「俺、ちょっと目を離した隙にらぴちゃんが…!」
彼の口から出たらぴの名前に反応して黒田の意識が戻る。
「らぴがどうかしたのかよ」
彼は、今日も帰りが遅くなるだろう黒田の代わりに、らぴの世話をしてくれているはずだった。
「だから!気が付いたら居なくなっていたんだよ!」
「え…!?」
レコーディング明けの疲れきった頭にその言葉が届くのと同時に黒田は叫んでいた。
「なに言ってんだよ、お前。こんな時に冗談なんか…」
「違うって!夕飯をやろうと思って用意をして目を離した隙に居なくなってて、部屋中探したんだけど…」
最後の方は途方にくれたような声になった友人に、黒田は冗談事ではないのだと気付いた。
でも、そんなはずはないのだ。らぴは完全に家犬で、もちろん一人でドアを開けることなど出来なくて。
「分かった。俺、もうすぐ帰れるから、一緒に探すよ。らぴ、小さいからきっとどこかで眠ってて見えないだけだ」
言った自分の言葉に頼るように、黒田はそう思いこもうとした。
そう思いながら心配で焦るように帰り支度をする。
「クロリン、どうかしたの?」
慌てたように片付けを始めた黒田に、馬場が不思議そうに声を掛ける。普段帰るのは黒田が一番遅かった。
「あ、ちょっと用事が出来て。悪いけど先にあがってもいいかな?」
頷く馬場に手を挙げ、周りのスタッフにあいさつをすると黒田は譜面を抱えるとスタジオを出た。

駐車場に向かいながら、電話一本で慌てふためく自分をバカだと思った。だが、心配なものは仕方がない。
自分が守らなければいけない小さな生命。
駆け足でチェロキーに向かう黒田を引き止めるように携帯が再び鳴った。
らぴが見付かった知らせかと慌てて受信ボタンを押した黒田の耳に届いたのは聞き慣れた人物の声だった。
「黒田?」
普段なら嬉しいはずのコールだったが、今は時間が惜しかった。
「悪い、ちょっと今忙しいんだ」
切ろうとした黒田を引き止めるように伊藤の声がする。
「お前の大事な娘は預かった。返してほしければ今からここに来い」
「はぁ?!」
ずいぶん芝居がかった伊藤の台詞に、黒田は思わず立ち止まった。
「なに…」
言ってるんだ、と言いかけた黒田の頭が伊藤の言葉の意味にようやく気付く。
「らぴ?!らぴがそこに居るのかよ!」
問い詰める口調になった黒田の耳にらぴのキャンという声が聞こえてきて、ほっとしたのと同時に伊藤への怒りがわいてくる。
「なんでお前がらぴと一緒なんだよ!どれだけ心配したと思ってるんだ、伊藤!」
「怪盗スネイクだよ」
しゃんなりと伊藤に言い返されて、黒田は携帯を握り締めた。
「お前の冗談に付き合ってる暇ないんだからな!すぐ行くから待ってろよ!」
ムカツイた怒りの勢いのまま携帯を切ると、黒田はチェロキーのエンジンを掛けた。

 

マンションのインターフォンをものすごい勢いで鳴らし、黒田はドアを叩いた。近所迷惑など構わなかった。苦情はどうせ伊藤に行くわけで。
すぐにガチャガチャと鍵を外す音がして、ドアが大きく開けられた。
「黒田!」
満面の笑みで迎えた伊藤が黒田を抱き締めようと手を広げる。その能天気さにプツリときて、黒田は口を開くより先に手が出ていた。
「ひどい…、黒田…」
ひっぱたかれた頬を押さえて伊藤が恨めしそうに黒田を上目遣いで見る。身長差から見下ろすが正しいのだが、雰囲気的にそんな感じなのだ。
そんな伊藤の抗議を無視して、黒田は勝手知ったる他人の家で、さっさと中に入るとらぴの姿を探す。
「らぴ?」
呼びかける黒田の声に、奥の部屋からコトコトと軽い足音をたててらぴが走り出してきた。
「らぴ!」
嬉しそうに黒田に駆け寄るらぴの姿を見て、黒田の顔にも笑みが戻る。どんなに疲れていても癒されるらぴの可愛さだった。
膝を着いてらぴを抱き上げようとした黒田の目の前で、らぴの体が宙に浮かんだ。正確には横から伸びて来た長い腕に横取りされたのだ。
「だめだよ。まだ身代金貰ってないじゃないか」
らぴを抱き締めたまま、伊藤が少しすねたように黒田を見詰める。
「ざけんな!いいかげんにしろよな!マジで怒るぞ!らぴが居なくなったって、預かってくれてた奴なんてパニックになってたし。どれだけ心配したと思ってんだよ!」
一気に怒鳴って、黒田は伊藤の腕かららぴを取り戻した。急に振りまわされて驚いたらしいらぴが黒田にしがみつく。
「だって…」
黒田に怒鳴られて、伊藤が情けなさそうに呟く。
「何がだってだよ」
「だって、こうでもしなきゃ、黒田に会えなかったじゃないか。今日だって、来る予定なんかなかったし…」
言われた言葉の内容に、黒田は唖然と伊藤を見詰めた。
「お前…、そんな事のためにこんな…」
呆れたように呟いた黒田に、伊藤がむっとしたような顔をした。
「そんなことって…。ずっと会えなくて、やっとマンションを訪ねたら知らない男が居るし…」
「知らない男って…」
鈴木のことか?…と思った黒田は怒るよりも呆れて脱力してしまった。
「…お前まさか誤解したなんて言うんじゃないだろうな?」
「まさか」
取りあえず訊いてみた黒田に伊藤が端的に答える。
「お前が他の男と付き合うなんてある訳ないからな」
当然の事のように言う伊藤にむっとしつつ、否定もできずに黙る。知らずに力を入れてしまったのか、腕の中でらぴがじたじたと動き出す。
「…俺帰る。明日もレコーディングなんだ」
ぼそっと呟くしかできず、黒田は目を伏せて背を向けた。
「黒田〜」
置いてきぼりにあった子供のように情けない声を出して伊藤が黒田を呼ぶ。
無視をしていると、背中かららぴごと包むように抱き締められた。
「会いたかったんだ…」
耳元に囁かれた声の真摯さに圧倒される。久しぶりに感じた伊藤の腕の熱さは、知らずに肩に力の入った毎日を送っていた黒田を癒すようだった。
「…ったく…」
呆れたように呟いたつもりが、声のどこかに嬉しさを隠せないでいる。黒田は伊藤に弱い自分を自覚しながら、後ろを振り返った。
らぴを床に下ろして、伊藤の顔を見上げる。
「身代金払わなきゃいけないんだろ?」
伸ばした手で伊藤の頬に触れると、右の頬に口付けた。
「これはらぴの前足の分」
驚いて黒田を見詰める伊藤に笑いかけた黒田は、少し背伸びをして伊藤に額に口付ける。
「これは尻尾の分、耳の分…」
囁きながら黒田は伊藤の顔にキスの雨を降らす。
「黒田…」
泣き笑いのような表情をした伊藤が黒田を抱き締める。見詰め合った瞳を伏せてどちらからともなく唇を重ねた。
ついばむような口付けが飢えたような求め合う口付けに変わる。
「…明日、11時に起こせよ…」
だんだん上がってきた息の下で黒田が囁く。
その声の艶やかさにゾクリとするものを覚えながら伊藤は上気してきた黒田の表情に囚われる。
了解のしるしに伊藤は一度頬に口付けると、黒田の体を抱き上げて寝室へ向かった。

 

 

 

「もう、昨日みたいな真似は止めろよな。あんなことしなくたって、電話くれれば良いんだから」
まだ体に残るけだるい熱を感じながら、着替えに一度マンションに帰らなければならない黒田は帰り仕度を始めた。そしてベッドに腰掛けて黒田の仕度を見ている伊藤に釘をさす。
「ああ、分かったよ」
薄いシャツの下の細い体を思い出して、崩れそうになる表情を引き締めながら伊藤が答える。
「本当だぞ?今度やったら、まじで怒るからな」
疑わしそうな目を向けた黒田に伊藤が苦笑した。何も言わないのは、どちらの意味なのか。
煮詰まったらこんな約束など簡単に破りそうな伊藤に、諦めたように溜息をついて、黒田は玄関に向かおうとした。持って来た携帯用のペットハウスを用意して、足元でご飯を食べていたらぴを呼ぶ。
「らぴ!おいで、帰るよ」
クンと答えたらぴを、もう一つの声が呼ぶ。
「おいで、らぴ」
ポンポンと膝を叩いて呼ぶ声につられた様に、らぴが伊藤に膝の上にちょこんと納まる。
「らぴ〜!」
無視されて黒田の飼い主兼恋人のプライドが傷つく。
男なら誰でもいいのか!と、思わず口にしそうになって、すんでの所で飲み込んだ。さすがにこれでは恋人同士の痴話げんかのようで異常な気がした。
「やっぱ、飼い主に似るんだよな、ペットって」
らぴを抱いて伊藤が黒田の元にやって来る。
「何が?!」
かなりむっとして伊藤を睨む。
「俺が好きだろ?」
「な…」
にっこりと笑って言い切った伊藤に、黒田がぷっつりと切れた。挙げられた手を見て伊藤が慌てて叫ぶ。
「俺、今日撮影!」
とっさに手を止めた自分が悲しい黒田だった。
「助かった…」
苦笑する伊藤かららぴを奪い返すと、収まらないむかつきに伊藤のシャツを掴み寄せると鎖骨のあたりに噛みついた。
「って…!待てよ、黒田!」
くっきりと紅く歯形が着くほど噛まれて、伊藤が慌てる。
「ふふん、顔じゃないだけ感謝しな」
肌を出しての撮影など、伊藤の場合はある訳がないが、メイクやスタイリストの前では肌を晒すことも多い。弁解の余地のない跡をつけて、黒田はほんの少し溜飲を下げた。
「う…」
言葉に詰まった伊藤に、黒田は笑顔を向ける。
「じゃ、またな」
靴を履き終えた黒田が伊藤を振り仰ぐ。
「黒田!」
腕を掴んで引き止めた伊藤が黒田の息を奪う。忍び込んでくる舌に応えながら、黒田も伊藤の背に回した腕に力を込めた。今手を離したら、次に会えるのはいつになるか分からない、そんな不安定な関係だった。
ただ、この手を離せない。
それだけがお互いの同じ想いだった。
「…今度は、もう少しマシな誘いを掛けろよ」
少し無理をして作った笑顔で黒田は伊藤の顔を見詰めた。切ない瞳の色に苦しさを覚えた。自分も同じ瞳で伊藤を見ているのだろうか。
「ああ」
少しの笑みを浮かべて伊藤が手を挙げる。
それぞれが、自分で選んで歩き始めた道を進んで行かなければならないのだ。
「また…」
二人を隔てるドアを開け、黒田は明るい陽の光の中を歩き出した。

 

END