lullaby

 

夏の一大イベントが終わり、ほっとして気を抜いた所為か、夏も終わろうという頃になって伊藤は風邪をひいてしまった。しかも、過労というオマケ付きで。

不覚だったと自分でも思う。普段の態度から暑さを感じないのではないかと噂されるが、そんな事はもちろんなく、今年の猛暑はそれなりに伊藤の体力を消耗させていたらしい。

去年の夏はもっとハードだったような気がするが、多分気の遣い方が今年は違っていたのだろう。

何よりも、違っていたのは「黒田」の不在。

黒田が何かをしてくれるというわけではなかったが、傍らにいてくれるということが与える、安らぎ、のようなもの。自然に呼吸のできる安心感がいつも伊藤を支えていた気がする。

もちろん、反発もあったしライバル心なども刺激される存在でもあったのだが。

それにも増して、黒田が大切だった。

これだけ長い間会えないというのは、出会ってから初めてだった。夏のツアー中も、西川のライブも一度も顔を出さなかった黒田を少し恨んだ。楽屋に届けられた花だけでは我慢できるわけもなくて、忙しいということが分っていても、黒田を責めたくなった。

「…もう、会わないつもりかよ…」

ぽつりと呟いた声が、一人きりの寝室に響いて消えた。外はまだ午後のまぶしい光が輝いていて、今日も家の外は残暑が厳しいことをうかがわせている。遮光カーテンを引いてもう一眠りした方がいいことは分っているが、まだ薬が効いてこないようで眠りも訪れない。

だるさだけが支配する体。こんな風に一人でベッドに横になっているから、普段は押しこめている本音が出てしまうのだろう。仕事をしていれば忘れていられる感情なのに。

溜息を一つついて、伊藤は毛布を掛け直すと無理やり目を閉じてベッドに潜り込んだ。伸びに伸びた身長故に、普通サイズでは窮屈で、やっと見つけた外国サイズのベッドだったが、ときどき一人では広すぎることがある。

トゥルルルル…と、突然電話に鳴り出した。伊藤は、おっくうになって寝たふりを決めこもうと受話器を取ることを放棄した。電話が鳴るままにまかせて留守電に切り替わるのを待つ。必要なら出ればいいとぼんやりと考えていた。

機械の音声の後、ピーという発信音が流れる。そして、相手からのメッセージが聞こえてきた。

『黒田です…』

なんだ黒田からか…と、目を閉じそうになって、伊藤ははっと気付いて自分に戻った。ばっと毛布を跳ね飛ばし電話に駆け寄る。

『安部ちゃんに風邪だってきいて…。寝てるなら掛け直すんで…』

「わぁ〜!起きてるって!」

今にも切れてしまいそうな電話からのメッセージに焦って、伊藤は受話器を取って叫んだ。

『…なんだ。元気なんじゃん…』

久しぶりに聞いた黒田の第一声の容赦のなさに、伊藤はがっくりと膝を付きそうになった。比喩でなく、マジに力の抜けかけた脚で、子機を持ったままベッドに戻ろうと歩き出した。

「お前…、久しぶりに掛けてきてその言いぐさかよ。俺をどう見れば元気なんだ」

『っって、やっぱり風邪なんだ。安部ちゃんが、伊藤が病院で点滴を打ってもらったって言ってたから、さすがに心配になってさ』

さらりと話す黒田の言葉が、妙にうれしくて伊藤は不機嫌な声を作ることがこれ以上できなかった。ふわりと暖かいものに包まれたように体が温かくなっていく。

「…悪かったな。そんなに大事じゃないんだけど。わざわざ電話もらってサンキュ」

『別に…そんな…礼を言われるほどの事じゃ…』

もごもごと口篭もってしまった黒田の様子が手に取るように分って、伊藤は笑い出しそうになった。照れ隠しのように、逆に不機嫌にさえ見えるような顔になるのだ。そんな彼の不器用な感情表現を把握するまで、なかなか馴染めなかったのはお互い様だった。

「安部ちゃんにって、お前会ったんだ」

『あ、今日、ダーウィンにCD届けに行ったんだよ。やっと、できたからさ…』

できたから、と言った黒田の声に篭められたさまざまな想いを、伊藤は感じ取った。自分の選んだことの証しになるものだ。その分、自分自身が納得のいくものにするためにどれだけ黒田が悩んできたか、想像に難くない。今の黒田自身の想いなのだ。

黒田が歌うことにこれほど執着しているとは、出会った当初は思いもしなかった。だが、それは周りが気づかなかっただけで、彼の内に秘められていたものだったのだろう。
だから、飛び立つ事を選んだのだ。

「良かったな…」

『うん…』

言葉少くなに応える黒田の声が弾んでいるのが分る。何かを吹っ切った自信のようなものさえ感じられる。
伊藤は電話でなく、今すぐ黒田に会って、直接歌を聴いて、話しを聞きたいと思った。
良くやったと、抱き締めたかった。それが自分に許された権利だと思いたかった。

「CD持ってきてるんだよな。なら、家に来ないか?聴きたいよ、お前の曲」

『あ、ごめん、早く聴かせたいけど、でも、今日はこれから仕事があるから…。ごめん!CDは安部ちゃんに渡してあるから、絶対に批評くれよ』

どきどきしていた胸が、黒田の言葉で現実に引き戻される。自分達はもう同じユニットではないのだと思い知らされる瞬間。
こんなに心が近くにいてもダメなのだ。

「…俺、しばらく事務所に行かないんだけど…」

黒田の都合は分っていながら、つい、愚痴めいた事を言ってしまった自分に伊藤は自己嫌悪に陥りそうだった。だが、なぜ、一番に黒田の歌を聴くのが自分でないのかと思わずにいられなかったのだ。

「聴きたいよ、黒田…」

受話器の向こうで黙り込む黒田の様子が、伊藤を居たたまれなくした。だが、一度口にした言葉は取り戻せるはずもなかった。

『伊藤…、今、風邪で寝てるんだよな』

少し、迷ったようなためらいの後に黒田が伊藤に問い掛けてきた。不思議な問いに伊藤は取りあえず頷いた。

「そうだけど…」

『なら、そのまま聴いてろよ。…今日だけ、病人に大サ−ビスだからな』

ぶっきらぼうに告げた黒田の言葉の意味を伊藤が聞き返す前に、耳に流れ込んできた黒田の歌声。

「黒田…!」

優しく切ないバラードだった。久しぶりに聴く生の黒田の歌声。アカペラで聞く声は、伊藤が知っているものより深みを帯びて、伊藤の心を惹き付けて止まない。
ただ、伊藤一人の為のLIVE。その気持ちがうれしかった。

「ありがと…な…」

そっと囁いて、伊藤は黒田が選んだ歌詞と曲に耳を傾ける。

「loveing you…」その言葉を抱き締めて、伊藤は目を閉じ、眠りの中に落ちていった。

 

END