maya〜幻想〜

暗闇の中で、苦しげな息遣いが聞こえる。

布ずれの音とともにベッドがきしむ音が生々しく響く。

「は…ぁっ…」

悲鳴混じりの声が上がる。なにも身につけていない声の主の身体が青白く浮かび上がる。シーツに押さえ付けられた身体は、無駄に終わった抵抗の為に疲れ切っているようだった。力を失っていく身体に加えられる愛撫は、苦しさを増長させるだけのようだ。自分を組み敷き、覆い被さる相手の肩に爪を立てる。

「やめ…っ」

下肢にかかった相手の手の動きに、絶望の声が上がる。構わず広げた下肢の間に自分を進めようとする影の下で、最後の抵抗をするものの表情がゆがむ。その顔は…。

(黒田…!)

「やめろっ!!」

聞こえてきた叫び声は、黒田のものではなく、自分のものだ。

その声に振り向いた征服者の顔は。

(俺…?!

 

「やめろっ!!

叫んだ声で伊藤は眼を覚ました。

飛び起きた伊藤は、そこが自分の部屋だと気付く。まだ暗い部屋の中でデジタルの時計は午前3時過ぎを表示していた。

まだ荒い呼吸を、大きく息を吐いて静める。前髪を掻き揚げて額に汗がにじんでいるのに気がついた。

「…最低…」

吐き出した台詞が部屋の闇の中に落ち、そこから別の声が返ってくる。

(あれは、お前だろう?)

「違う…」

部屋に潜む声に、知らず答えていた。

(どこが?)

「違う!俺はあんなつもりは…!」

(夢は正直だからな…)

闇の声に嘲笑が混じる。伊藤はそれ以上聞きたくなくて枕元の灰皿を投げつけた。

ガシャンと灰皿の割れる音がして、我に返って伊藤はスタンドライトを点けた。明かりに写し出された部屋はいつもと何ら変わった様子がない。ただ、ドアの前に散乱する灰皿の残骸以外は。

「ちくしょう…」

シーツの上で掌に爪が食い込むほど握り締める。

あれは自分だ。黒田を組み敷いて犯していたのは。いつも押し殺していた願望が夢の形をとって現れたのだ。

リアルに思い出せる黒田の喘ぐ表情も苦しげに寄せた眉も、すべて自分は知っていた。あれはライブの中での顔だ。ゾクリとするほど扇情的な顔を見せる黒田を、どれほど見てきただろう。

あの顔を自分の腕の中で見たかった。自分が与える愛撫に応える黒田を知りたかった。

何故こんな形に感情が変化したのか、思い出せない。ただ、隠しつづける苦しさだけが今も続くだけで。

もうだめかもしれない。

胸に残る苦さを噛み締めながら、伊藤はそう思った。

 

「なに?また寝てるの?」

浅倉の呆れたような声があがる。楽屋入りした早々、待ち時間を睡眠に当てていた伊藤だったが、リハが済んだ今、また椅子に凭れて眠りに入っている。

「この頃ずっとこうだけど、何か最近ハマっていたっけ?

睡眠時間を削ってゲームにハマっていたのはだいぶ前のことだ。最近はそんな話も聞かない。

「さあ。聞いてないけど。」

黒田も伊藤を見ながら少し訝しげな顔をした。レコーディング中ならば皆がこんな感じだが、今はそうではない。今朝見た伊藤の顔色が悪かったのと関係があるのだろうか。

「おはようございます」

ドアがノックされヘア・メイク担当が入ってきた。そろそろ用意を始めなければいけない時間だった。黒田はまだ起きる様子のない伊藤を起こそうと、伊藤の肩に手を掛けて軽く揺さぶった。

「伊藤くん、起きろよ!メイクさんが来てる」

呼ばれた声に伊藤が薄く眼を開けた。目の前の黒田を認めたのか唇が名前をかたどる。

「黒田…?」

呟いた瞬間、伊藤がはっとしたように黒田の手を払いのけた。

「いてっ。なんだよ、人が親切に起こしたのに…」

少々むっとした黒田に、伊藤は自分のしたことに驚いているような顔で黒田に謝った。

「悪い、寝ぼけてた…」

あまりに素直に謝る伊藤に、かえって黒田がひっかかりをおぼえた。

「…最近、少しおかしいよ。なにかあった訳?」

立ち上がって鏡の前に移動する伊藤の顔を、黒田がうかがう様に覗きこんだ。

「別に、なにも」

一言でかわす伊藤のポーカーフェイスの横顔を黒田は悔しい思いで眺めた。本気で相手にされていないと思うのは気のせいではない。浅倉になら話せることかもしれないと思うと余計に悔しさがこみ上げる。自分では力不足と言われているようだ。

隣で自分もメイクを施されながら、鏡の中の伊藤から意識が離れなかった。

 

 

マネージャーの声に急かされるように3人でタクシーに押し込められ、向かった先はラジオ局だ。黒田が担当している番組に初めて2人が揃ってゲストとして出演するという事になっている。浅倉がパーソナリティーの時にしてほしかったと思ってしまった黒田だったが、浅倉はこういう点で愛の鞭をふるうタイプだった。

「ちゃんと仕切ってよね」

笑顔で言い渡され、黒田はかなり緊張気味でキューシートに取り組んだ。

ジングルが終わり、キューが出される。黒田の一人喋りで始まり、ゲスト2人が登場する。自己紹介はお手のものの浅倉と伊藤に押され気味で、ガラスの向こうのスタッフから早速笑いがこぼれる。

「えー、今回初めて2人が揃って来てくれたんですが…」

2人を前にしてのトークは緊張するが、やはり楽しいと思う。最近はスタジオでも3人揃うことが少ないだけに尚更かもしれない。この空気が好きだと思う黒田だった。

タバコの灰を灰皿に落とす伊藤を見るともなく見ながら、ふと、伊藤と微妙に視線が会わないことに気付いた。浅倉と会話をする横顔だけが目に付く。

疎外感を感じてしまう自分が嫌だった。そんなつもりはないことは充分知っているはずだったが。

「えーと、続いての質問ですが、ああ、これは伊藤くんにですね」

黒田の呼び掛けに答えようと顔を向けた伊藤が、ふいに眩暈を起こしたように椅子から崩れ落ちた。

「伊藤くん!!」

録音中のマイクも忘れ、黒田が叫んで駆け寄り伊藤を抱き起こす。一瞬、伊藤がその黒田の腕を強く掴み、それから意識を失った。

隣にいた浅倉も伊藤の名を呼び掛ける。スタジオのドアが開き、収録のスタッフに混じってマネージャーの大野が駆け込んで来た。

「揺らさないで!外に運んで」

伊藤を支えて運ぼうとした黒田を大野が止める。

「黒田くんは収録終わってないでしょう。伊藤くんは私達が運ぶから続けて。」

「そんな…」

こんな動揺したままで、どうやって何もなかったように番組を続けられるのか。スタッフが二人がかりで長身の伊藤を支えて運んでいくのを目で追いながら、黒田は途方に暮れたように浅倉を振り返った。

「仕様がないね…。始めるよ、黒田。いい?伊藤くんは途中で帰ったんだからね」

演出を決めて浅倉が言い渡す。ディレクターもOKサインを出した。

「早く終わらせよう」

仕事を途中で放り出すことは出来ない。浅倉の言葉に頷き、黒田はヘッドフォンを付けた。

 

 

 

「大野ちゃん。伊藤くんは?!

スタジオを出た廊下の椅子に座って待っていた大野に息せき切って黒田が問う。

「大丈夫。先生は、過労だって言ってたけど、ゆっくり休めばすぐ良くなるって。」

「過労って、今、そんなスケジュール入れてないでしょう?」

浅倉が納得いかないように呟く。

「伊藤くん、医務室?」

「栄養剤打ってもらって、家に強制送還したわ。本人はスタジオに戻るって言っていたんだけど、明日からのこともあるし。事務所から明美ちゃん呼んで付き添ってもらったから。大ちゃん達はこれで終わりでしょう?」

大野にそう言われても、伊藤の様子を見ずにこのまま帰る気にはなれなかった。

黒田は浅倉と並んで歩き出し、エレベーターに乗りこんでからやっと口を開いた。

「…顔色が良くないなって気付いてたのに。いつもと様子が変わらなかったから、気のせいだと思い込んでた…」

「黒田くんの所為じゃないだろ。自己管理は本人の責任だからね」

浅倉がきっぱり言う。その様子に頷きながらそれでも黒田の気は晴れなかった。さっき、伊藤に掴まれた腕がまだ痛いような気がする。なにか言いたげな眼をしていたと思う。他人の感情の機微に疎い方だったが、それでも確かに感じた。そして、最近の伊藤に多い視線だったと改めて思い出した。

合わない視線。その意味するもの。

「俺、帰りに寄ってみようかな…」

「心配?」

浅倉が黒田の目を覗き込んで笑う。答えられずに黙って歩き出した。

 

 

真夜中近い時間に開いているのはコンビニくらいで、黒田は少し迷った後ミカンを買った。いくら不精でもミカンの皮をむくくらいはするだろう。病人という事を考えて酒もタバコもボツにした結果の選択だった。

帰りに寄った事務所で伊藤の部屋のスペアキーを借りた。眠っている伊藤を起こしてはいけないと思ったからだ。安部が少し驚いた顔をしていた。自分でもバカなことをしていると思ったが、なぜかこうせずには居られなかった。

いったん自分の部屋に戻ってラピの世話をしてきたので少し遅くなっても大丈夫だと思う。車のエンジンを掛けながら、招かれもしないのに他人の家を訪ねるなんて初めてだと思った。

伊藤の部屋に来たのはかなり久しぶりだ。3人ともプライベートで一緒に過ごすことはほとんどなかったが、仕事で一緒の時間が多いせいでそんな事を考えたことがなかった。仕事なはずなのに、一緒に居るのを楽しいと思ったことしかない。

少しの後ろめたさを感じながらドアの鍵を開ける。知らず音を立てないようにしていた。伊藤は眠っているはずだった。

玄関を上がると、伊藤の趣味の多様さを語るような写真やオブジェの飾ってあるリビングだ。明るさを落としたルームライトが点いているのは、付き添っていた糠森の配慮だろう。その奥の伊藤の部屋に向かおうとして部屋から漏れる明かりに気付いた。

「え…?」

ドアをそっと開いて、目の前の光景に黒田は驚いた。フローリングの床に散らばるCDジャケットの中で、ベッドに寄りかかって目を閉じた伊藤がヘッドフォンからも音が漏れ聞こえるような大音響でCDを聞いていた。

「何してるんだよ、病人が!」

ドアを開けて黒田は伊藤に怒鳴る。心配してこんな所まで来た自分が馬鹿らしくなりそうだった。伊藤に近づくとヘッドフォンを取り上げた。

驚いたように眼を開けた伊藤が、黒田を見て眼を見開いた。どこか自分でないものを見ているような伊藤の眼に、黒田の動きが止まった。伊藤の顔が苦しそうにゆがんで、手で顔を覆う。

「またかよ…。もう幻なんて真っ平だ。さっさと消えろ!」

吐き出された台詞が黒田の不安を煽る。

「何言ってるんだよ。俺だよ。」

伊藤の隣に膝をついて伊藤の腕を掴む。自分に触れた感触に伊藤が驚いて黒田の顔を見返す。

「黒田…?なんでここに…」

「なんでって、様子を見に寄っただけだよ。大人しく寝てるかと思っていればこんな事してるし。」

まるで言い訳をしているようだと黒田は思った。

「帰れよ。もう大丈夫だから。」

黒田の顔を見ようともしないで突き放すように言う伊藤に、黒田は再び苛立ちを覚えた。

「どこが大丈夫なんだよ。ちゃんと休めって言われたってのに寝てもいないで。俺も大ちゃんも心配して…」

「帰れって言ってるだろう!」

黒田の言葉をさえぎって怒鳴った伊藤が、黒田を睨むように見詰める。部屋に入って初めて黒田を捕らえた視線に動けなくなる。

凍りついた二人の間に痛いほどの沈黙が落ちる。

突然、伊藤の手が黒田の腕を引いて自分の体の下に捲きこんだ。

「な…っ」

叫ぼうとした口を伊藤の唇が覆い、噛み付くような口付けをされた。歯列を割って伊藤の舌が黒田の口腔にしのび込み黒田の舌を絡めとる。息を継ぐ間もなく何度も角度を変えて口付けられ、黒田は息苦しさと頭の芯が痺れるような感覚に襲われて、ただ伊藤の腕を掴むことしか出来なかった。

今のキスが遊びかどうか区別がつくくらいにはお互い場数を踏んでいる。

「…だから帰れって言ったんだ」

やっと身体を起こした伊藤が黒田の身体を押さえつけたまま、苦しげな声で吐き出す。間近に自分を見下ろす伊藤の瞳に捕まり、黒田はただ荒い呼吸を繰り返すだけだった。

「きっと、俺はおかしくなってる…。」

伊藤の右手が黒田の頬に伸びる。その感触に黒田の身体がビクリと震えた。その反応を無視して顎から首筋、緩められたシャツの間の胸元へと手が滑り落ちる。

「や…」

黒田が自分の身体に触れる伊藤の手を掴んで止めようとした。逆にその手を取ると伊藤は黒田の身体ごと抱きしめ、首筋に顔を埋めた。

「このまま、抱いちまいたいよ…」

伊藤の言葉に驚愕する黒田は、言葉とともに伊藤の息が首筋にかかるのにゾクリと産毛が立つような感覚を覚えた。

「…もう、何度夢でお前を抱いたか分らない。いつもお前は抵抗して、そして俺はお前が抵抗できなくなるまで滅茶苦茶に抱くんだ…。いつか殺してしまいそうになる…!」

「やめろよ!」

黒田は伊藤の身体を突き飛ばして、肘で起き上がると後ずさった。それ以上伊藤の言葉を聞きたくなかった。自分を抱きたいと伊藤が思うなど、考えたこともない。

「なに言ってんだよ…。なんでそんな…!」

今、目の前にいるのは自分の知っている伊藤ではなかった。同じ顔をした別人のようだ。本能的な恐怖が黒田を包んでいた。視線は離せないまま更に後ずさる黒田の手がCDラックを倒した。ガシャンという音に伊藤が我に返ったように身体を離す。

黒田の怯えたような表情に気付いて、伊藤は今まで隠し通してきた努力を無にした後悔に唇を噛んだ。黒田のこんな顔を見たくなかったからこそ言えなかった事だ。

黒田から離れ、座りなおした伊藤は片手で顔を覆ったまま俯いた。

「…お前が、好きなんだよ…」

搾り出すように言葉にされた告白は、聞いている黒田の方が苦しくなるような響きをしていた。身動き一つできないでいる黒田を一瞬見つめ、伊藤の顔が逸らされた。

「帰れよ…。…悪かった。」

黒田は逸らされたままの伊藤の横顔を見つめながら、立ち上がろうとして床に着いた自分の手が震えていることに気がついた。指先の震えを止めるように胸の前で握り締めて立ちあがった。伊藤は床の一点を凝視したまま動かなかった。

その伊藤の姿を見ていると自分でもどうしたら良いのか分らなくなってくる。今すぐこの場を逃げ出したいと思う反面、このままで良いのかと問う自分がいる。

いま、伊藤を残し部屋を出たらすべてが終わってしまいそうな気がする。もう元には戻れないのだ。自分は知ってしまったのだから。

今まで通り伊藤がなにもなかったように接してきても、自分は耐えられないだろう。伊藤がどれだけの努力でポーカーフェイスを通してきたのかと思った。

力の入らない足取りでドアに向かう。ドアノブを掴んだ時、黒田は思わず口を開いていた。

「…自惚れだったらゴメン。…眠れなかったのって、俺のせい?」

背を向けたままの黒田を見上げた伊藤が自嘲の笑みを浮かべる。

「ここで眠ると悪夢ばかりだからな…。自分の汚さを見せ付けられる。なんでだろうな。お前を大切にしたいのに…」

バタンと開きかけたドアを黒田が閉めた。振り返ってドアに寄りかかる。その顔が泣きそうに歪む。

「…帰れないよ…。このままなんて…」

ズルズルとドアを伝って黒田はその場に座り込んだ。膝を抱えた子供のように俯いたままだ。驚いた伊藤が近づこうとする気配にビクリ身体が震え、伊藤はその場に止まった。

「…帰れよ。何をするか自分でも自信ないから」

精一杯の言葉に、黒田が首を振る。カッとして伊藤は黒田の腕を掴んだ。乱れた髪の間から迷いを映した黒田の瞳がのぞく。

「何するか分らないって言ってるだろう!」

伊藤の言葉が黒田を迷わせる。だが、間違いなく伊藤の傍に居たいと思う自分がいるのだ。

「俺だって…、伊藤くんが好きなんだよ…?」

たとえ、意味が違っていても…。

黒田の気持ちが伝わってきて、伊藤はやるせなさにおそわれる。だが、同情だけは嫌だった。

「だめだ…」

黒田の腕を押しやって伊藤が離れようとする。

「なら!今から惚れさせろよ!」

叫んだ黒田が伊藤にしがみついて来た。突然の黒田の行動に受け止めきれず、黒田を抱いたまま床に倒れた。

「…好きだって言ってるだろう…!」

駄々をこねる子供のように伊藤の胸の上で黒田が繰り返す。

「黒田…」

伊藤は壊れ物を扱うように、そっと抱いた腕に力を込めた。幻でも、悪夢でもない黒田が腕の中にいる。ずっと焦がれていた瞬間だった。

これが黒田の優しさだけだとしても、この腕を解けなかった。自分の弱さを嘲笑いながら、いまはその弱さを許したいと思った。

「馬鹿だ、お前…。」

「うるさい!」

黒田がきっぱりと言い切った。黒田の馬鹿みたいな真っ直ぐさが好きだった。

ゆっくりと自分の中の棘が消えていくのが分る。大切なものを傷つけていた悪夢に捕まっていた自分が開放されていく。

伊藤は自分の胸から黒田を引き離し、起こした身体を両脇についた手で支える黒田と間近に見詰め合う。黒田が耐えられないように目を伏せた。伊藤は苦笑してその顔を両手で包み口付けた。軽く触れる口付けを繰り返し黒田の強ばりが解けるのを待つ。薄く開いた唇の間に舌を忍び込ませ、口付けを深いものにする。

「ん…」

息苦しさに黒田が首を振り、鼻にかかったような声を漏らした。その声が伊藤の中の欲望を刺激する。もっと、声が聞きたかった。

力の抜けた黒田の身体を入れ替えて組み敷く。驚いた顔の表情さえ愛しいと思う。唇を寄せると瞳を閉じて伊藤を受け入れようとする。夢の中ではできなかった、黒田を優しく抱きしめることが今なら容易にできた。

唇に口付け、そのまま首筋に唇をはわす。シャツのボタンを外し、浮き出た鎖骨に軽く歯を立てた。

「あ…っ」

ビクンと黒田の身体が跳ね、声を飲みこむように唇を噛み締めた。ぎゅっと眼を閉じて床に爪を立てるようにして耐えている黒田が愛しい。

「背中、痛いだろ?ベッドへ行こう」

耳元に唇を寄せて伊藤が囁く。ぼうっとした眼で伊藤を見返す黒田が、言葉の意味を理解してさあっと赤くなった。

答えられないでいる黒田の身体を抱き起こして、ふらつく身体を支えた。

「…明かり消せよ」

黒田の精一杯の強がりを伊藤は黙って聞き入れた。

 

 

 

黒田に触れていくだけで、自分の中の傷が癒されていくのが分る。本当にほしいものを手にした時だけ得られる、満たされた想い。

「う…んっ」

黒田が切なげに眉を寄せ、伊藤の腕の中で身体を捩る。これだけは譲れなかったベッドサイドのライトの暖かな光の中で、伊藤は今だけは自分のものの黒田の身体に愛撫の手を滑らせていた。一方的に快楽を与えられている黒田が、苦しげに伊藤の腕に爪を立てる。その指にすら口付けて黒田に微笑む。

「はぁ…っ」

中心を弄び続けられ、限界が近づいている黒田が伊藤を見上げる。きつめの眼差しが壮絶な流し目のように伊藤を煽る。

「…俺、ばっかり…」

自分一人が追い上げられるのは嫌だと言いたい黒田の言葉を、伊藤は口付けで飲みこむ。

「いいから、イケよ」

耳元で囁きながら軽く耳たぶを噛み、更に愛撫の手を強める。

「ん…っ。あぁ…っ!」

悔しそうに唇を噛んだ黒田が、一際甘い声をあげる。背を仰け反らせ伊藤の背にしがみついた黒田が伊藤に促されて自分を開放した。

胸を喘がせながら黒田がシーツに沈み込む。その黒田の頭を抱き寄せ、薄っすら滲んだ涙を唇でぬぐう。乱れた髪を好きながらこめかみに口付けた。すべてを自分に委ねている黒田の姿に愛しさがこみ上げる。

伊藤の優しい行為に黒田は羞恥を感じながらも、その心地良さに身を委ねていた。

「…なんで、しないんだよ」

ようやく息が整ってきた黒田がくぐもった声で問いかける。驚いた顔をした伊藤が黒田を見下ろしてゆっくり笑った。そのまま唇を合わせる。手を胸に這わせると、敏感になった赤い飾りが硬く立ちあがる。また、追い上げられそうな自分の身体の正直な反応を感じて黒田は伊藤を押しやろうとした。

「だから!」

「いいから」

伊藤が黒田の手を掴んでシーツに押さえつける。首筋に軽く噛みつくと黒田の身体が震える。身を捩りながら黒田が伊藤の拘束を振り切ると、自分から伊藤の首に腕を回して抱き寄せる。

「一人じゃ嫌だって…!抱き合うなら二人じゃなきゃ意味ないだろ?」

黒田の言いたい事は良く分ったが、伊藤は躊躇いを捨てきれなかった。自分がどれだけの欲望を抱えているか知っている。その牙を黒田に向けたくはないのだ。

「何をするか、自分でも自信ない…」

伊藤が抱え込んだままの熱を感じ取った黒田は、その、今は要らない優しさを捨てさせたいと思った。

「馬鹿はどっちだよ。俺、壊れたりしないって」

黒田が伊藤の顔を引き寄せキスをした。伊藤が信じられないように目を見張る。そして、自分から深く唇を合わせた。ゆっくり離した唇が触れる距離で伊藤が言い渡す。

「…途中でやめろっていうのは、ナシだからな…」

「今やめられたら、俺の方が困る」

既に熱くなっている自分を持て余し気味の黒田が、伊藤を抱き寄せる。その真っ直ぐな瞳に捕まり、伊藤は躊躇いを捨て、黒田の身体を抱きしめた。

 

 

 

 

夢の中から続いている優しい感触に黒田は眼を覚ました。自分を抱きしめたままの腕。そして、その手がそっと髪を撫でている。ときどき戯れのように頬や肩に口付けながら。

伊藤の胸に自分を預けた黒田は、伊藤の心臓の音に耳を傾ける。

「起こした?」

伊藤が気付いて黒田を伺う。さっきまでの自分達の行為を思い出して、少し赤くなりながら黒田が首を振る。

「伊藤くんは、寝てなかったんだ?…まだ、眠れない?」

互いに満足しあったあと、黒田はふらつく身体を支えられてバスルームに運んでもらいシャワーを浴びた。伊藤にバスタオルで巻き取られて部屋に戻ると、新しいシーツに取りかえられたベッドに気付いて、伊藤の気配りに笑った。これなら、女の子にもてる筈だと妙なところで感心した。

その伊藤が今は自分を好きだと言う。黒田の身体で伊藤が触れていないところなど無いのではないかと思うほど、愛撫され口付けられた。思い出すと自分でも正気の沙汰ではなかったと思うような時間。

だが、自分の中に後悔の感情がどこにも無いことが嬉しかった。

「いや、寝てたよ。俺も眼を覚ましたところ」

伊藤が黒田の心配していることに気付いて否定する。ただ、自分の腕の中で眠る黒田を見ていたかっただけだ。黒田の薄い胸や身体のあちこちに散らばる紅い痕は自分の残した所有印のようで、伊藤の中の獣を落ち着かせる。ずいぶん無茶な抱き方をしたはずなのに、決して拒絶しなかった黒田に癒されていた。

「黒田…。あり…」

「それ以上言ったら、殴るからな」

言いかけた伊藤の言葉を黒田の手が塞いだ。自分を睨む黒田の眼を見て、伊藤は自分の失言に気付く。今の言葉は確かに自分たちに相応しくなかった。たとえ本気で思っていても。

「好きだよ…。好きだ」

口を塞いでいた手を取って唇を這わせながら繰り返す。黒田が笑って手を取り戻し伊藤の肩にシーツを引き上げた。

「まだ早いから、もう少し眠ろう」

さすがにまだキツイ身体を伊藤の胸に預けて黒田が眼を閉じる。伊藤もその身体を抱き寄せて、眼を閉じた。胸の中に暖かなものが溢れてくるのを感じながら。

「おやすみ」

黒田の耳元で囁いて、眠りの淵に沈んでいく。

もう、悪夢は見ない。

Fin 

 

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