Mephistopheles

 

 

ああ、またか。

初めてその話を訊いた時に思ったのはそれだった。
プロデュースや楽曲提供の依頼は、音楽活動の第一線から引いて何年になろうと絶える事はなかった。
過去の名前に頼るような依頼は、話を訊くだけでも気が滅入るようだった。

「僕も岡村の曲は独特のグルーブ感があるから彼には難しいと言ったんだけどね」と阿久津さんがまだ迷うような口調で「彼」の依頼を話し始めた。

それでも阿久津さんの依頼の話しを訊いたのは、依頼がアーティスト本人からの強い希望という事と、彼が今まで僕自身を知らなかったということが理由かも知れない。
依頼を受ける気にはならなかったのだが、一度彼の歌と、ライブでの姿を見てほしいと渡されたCDとビデオを見ようという気になったのは気まぐれに近かった。

聴いてみた曲は、煌びやかな音の洪水に反して、つまらなくて退屈だった。問題のヴォ−カルも、良い声の持ち主ではあったが硬質で、僕の曲に合うとは思えなかった。
ビデオテープを眺めながら、見る必要もないかと思ったが、それでもとデッキに入れて再生を押した。

今考えると運命だったのかもしれない。

そこに写し出されたのは、まるきり別のヴォーカリストだった。

最初に感じたのは、ひどい嫉妬。
自分のなりたかったカタチがステージの上にあった。
けして優れているとは言えないダンスも歌も、目が離せないほどに惹きつけられる。

滑らかな肢体と長い手足。ゾクリとするほど魅惑的な声。

自分が望んで得られなかったものを、彼はすべて持っていた。

世間が僕にくれた評価などは、自分にとって意味などなかった。天才と持て囃す一方で、こき下ろす評論。
そんなものなのだと笑いながら、自分の選んだ音楽を続けて行くことだけが大切だった。
コンプレックスの塊の自分が、自分であるためのもの。

彼はどんな思いで歌うことを選んだのかは知らない。だが、きっと似ているのではないかと思った。

彼は歌うことだけが大切な人種なのだと思った。全身で歌だけを表現していた。

彼には歌が必要なのだ。空気を呼吸するように。

今、歌いたくても歌えない状態だという。
ならば、僕が歌わせよう。そう思った。

あの声に僕の歌を歌わせてみたい。
僕の歌を聞いて、歌うことの楽しさを思い出したといった彼が、僕の曲をどう歌いこなすか見てみたい。
ステージでどんな風に表現するのか知りたい。

今までのプロデュースのように期待外れだったらどうするのかと、自分の中で声がする。
だが、もしそうなっても構わないと思った。
自分の心を捉えた声は確かに彼のものだったから。

阿久津さんへの回答の電話を掛けながら、浮かんできたメロディーを頭の中に書き留める。
彼の声にはどんな音が合うのか、そんな事を思いながら、すでに作曲モードに入っている自分に気づいて苦笑した。こんな事は久しぶりだった。

「ああ、阿久津さん。この前の曲提供の話し、僕、受けるから」

仕事中だったのか、長く待たされた後、電話に出た阿久津さんに用件だけを伝える。僕の返事が予想外だったのか少しの間の後、阿久津さんは、意外だなとだけ言った。

「まぁ、気が向いたっていうのかな」

笑う僕の様子が伝わったのか阿久津さんも声が柔らかくなった。向こうに伝える事を確認しながら、阿久津さんが呟いた。

「まあ、君の曲が相手じゃ、彼は苦労しそうだけどね」

「それは、覚悟の上なんじゃない?それに、僕が彼の声をほしいと思ったんだから」

笑う僕の言葉に一瞬、阿久津さんが黙り、続いて吹き出した。

「それは、よけいに苦労しそうだ」

「当然」

笑って返しながら、僕はまだ会った事もない「彼」の事を思った。

 

END