Paradise Lost
桜
伊藤の手が気遣うようにそっと胸元を撫で上げる。
びくっと震える俺の身体を感じて一瞬手を止めるが、許しを乞うようにこめかみに口付けて愛撫を再開する。
伊藤に抱かれるのは今日で何度目になるのだろう。
初めての時は無理やりだった。なんの言葉も無く強引に引き裂かれた。身体も精神も傷ついて伊藤を憎んで、もう伊藤を許す事など出来ないと思っていた。
二度と会いたくないとさえ思った。
だが、日常の生活の中、自分が黒田倫弘として生活していく上で、どうしても伊藤の存在を消す事が出来なかった。
俺を愛してると言ってくれた恋人達。
大切にしてくれる友人達。
それらの人を消し去るような激しさで、唯一俺だけを求めてきた伊藤に、抗う事ができなかった。
汗に濡れはじめた伊藤のこめかみに紅く残る傷跡は、俺を守る為に傷ついたものだ。なんの躊躇いもなく自分の身を投げ出した伊藤を見た瞬間に、俺の気持ちは決まっていたのかもしれない。
今こうして伊藤に身を預けていることの意味。
「好きだ」という告白と、自分を抱き締めてきた腕。だが、伊藤が俺を想ってくれるようには返せない。それが分っていた俺は、伊藤にそう告げるしかなかった。
伊藤の想いには応えられない。けれど友人のままでいたいという俺の身勝手な願いを伊藤は受け入れてくれた。
だが、それは初めから無理なことだったのだ。
退院をした伊藤は、何事もなかったような顔をして、事務所に出勤し、スタジオワークをこなし、今まで通りに俺に接してくれた。それがどんなに伊藤にとって精神的に負担になっていたのか分らなかった。俺は一番大事なメンバーとして付き合える幸福に、伊藤の痛みを忘れていた。
無理を重ねた破綻は程なくやってきた。
作曲作業が佳境に入った頃、伊藤は連日のオーバーワークに疲れの色を隠せないでいた。スタジオのロビーのソファーにぐったりと身体を凭れさせて眼を閉じている伊藤に、俺は自販機のインスタントコーヒーを渡すことくらいしかできなかった。伊藤の名前を呼んでカップを渡そうとした。一瞬、触れあった指。
伊藤は煎れ立てのコーヒーよりももっと熱いものに触れたように手を引き、受け取ろうとしたカップを取り損ねた。
熱湯が伊藤の手を焼きながら床にこぼれる。慌てる俺をよそに、熱さを感じないかのように凍りついたままの伊藤。
訳が分からず、腕を引いて洗面所へ連れて行って冷やそうとする俺の手を伊藤が振り切った。むっとして強引に立たせた俺を、伊藤が突然、抱き締めてきた。片口に埋められた顔。苦しげな息遣いが聞こえ、俺は忘れようとしていた恐怖が蘇るのを感じていた。
優しい腕は、いつ俺を傷つけるか分らない凶器でもあることを自分は思い知っていたはずなのに。恐慌状態に陥った俺が伊藤を突き放そうとするのを、抱きこんだ伊藤の腕は許さず、俺は全身の血が引いていく感覚をあじわった。
「…もう、ダメだよ…」
苦しげな伊藤の声が耳元に流れ込んできた。
「…約束は守れない…!お前に触れたい…。抱きたいんだ…!」
裏切りのような言葉が告げられて、俺は怒りよりも哀しみのようなものに包まれた。大切なものが自分から離れてしまう悲しみ。もう一度伊藤を失う恐怖を味わわなければいけないのかと、自問する。嫌だと思う側から、別の声がする。では、伊藤の想いに応えられるのかと。
できる訳がないと忘れられない恐怖と痛みが訴える。
ただただ、伊藤から逃れようと抵抗する俺を抱き締めて、伊藤が縋るような眼差しで訴えてきた。
「…二度と黒田を傷つけないから…!酷いことは絶対にしないから…!」
だから、抱かせてくれ…。
そう言った伊藤のすべてに捕らわれた。プライドの高い伊藤が自分の前にそれらを投げ出した懇願に否を言えるはずがなかった。
明かりを消したままの休憩室に連れ込まれて鍵を掛ける音を背中で聞いた。
真夜中過ぎのスタジオに残っているのはわずかなスタッフのみで、俺達二人が姿を消しても気がついた者はいなかったと思う。
伊藤は、俺を抱き締めると頬に口付けた。唇で拭われて自分が泣いていたことに気がついた。
ごめん…、と謝る伊藤の言葉が胸に痛かった。伊藤が悪いわけではない。だが、だからといって自分が伊藤を受け入れられるかは、未だにわからなかった。ソファーに横たえられて、抗うこともその背を抱きしめ返すこともできずに伊藤のするがままに身体を預けながら、耐えるように唇を噛むしかなかった。
ボタンを外していく伊藤の手が焦りのためか上手くいかない。少しずつはだけられていく胸元に伊藤の唇が這わされる。長く砂漠をさ迷った者がやっとオアシスに辿りついて水を貪るような、そんな必死さすら感じさせる伊藤の姿が切なかった。
そんな心情とは別に、伊藤の手に、唇に反応していく身体。あがっていく息。胸から脇腹をさ迷っていた手が皮のパンツに掛かり、ボタンを外して前をくつろげる。もう熱くなっている箇所に伊藤の指が触れた。ためらいもなく俺を飲み込もうとする唇に気づいて、俺は一気に現実に引き戻された。
「や…っ」
伊藤の手を退けようとする俺の手を軽く払って伊藤が囁いた。
「大丈夫だから…。嫌なら女としてる時のこと考えてろよ…」
その言葉に、一瞬正気に戻った俺は、伊藤の言ったことにまさか、と思った。
熱く濡れた感触に包まれて全身を甘い痺れが駆けめぐり、一気に高みに追い上げられた。言葉を作ることもできないほど喘ぎながら、俺は伊藤が言った傷つけないからという言葉の意味を身体で理解した。
文字通り伊藤に愛されて、その指で、唇でイカされながら俺は苦しさに涙を零した。
傷つけないからという言葉のとおり、伊藤は一度も俺の身体を開くことはなかった。身体中にほどこす愛撫で俺に快楽を植え付けながら、俺の中に入って自分の欲望を満たすことはしなかった。俺を抱いて高まった熱さは自分で処理をした。
そして、身体の痛みの代りに俺は、あの日から胸を引き裂かれるような苦しみを与えられるようになった。
伊藤の愛撫に快楽を覚えさせられ、伊藤の手の感触も唇の熱さも肌に刻み込まれた。俺の身体の隅々まで触れながら、唯一、聖域のように伊藤が侵さない箇所。
伊藤の愛撫に慣らされた俺の身体は、抱かれるたびに貪欲に奴の与える快楽を取りこみ、別のものに変化していく。
伊藤の手を、唇を待つ淫らな身体へと。
一つに繋がる事のないsexは、胸の中に空洞を作っていく。だんだん広がっていく胸の穴を伊藤で埋めてほしいと、いつしか願うようになった自分を知って愕然とした。
抱いてほしい…。
そう口に出しそうな自分が信じられなかった。
一方的に追い上げられて突き落とされるのではなく、伊藤を身体の中に感じて一緒に落ちていきたい…。
そう思ってしまう自分が、自分で許せなかった。
だが、伊藤に作り変えられていく身体は、一度だけ知っている伊藤の獣のような激しさを欲していた。
伊藤がすべての服を剥ぎ取った俺の身体に重なってくる。
抱き締めて口付けをした後、俺の瞳を覗きこんで、そして目を伏せる。俺が伊藤の顔を見る事ができず、目を閉じて横を向いてしまうからだ。
伊藤が俺を抱くたびに罪悪感を感じているのを知っている。同情から俺が伊藤に抱かれるのを我慢しているのだと思っているのだ。
伊藤の思っているとおりならどんなに楽だっただろう。自分の心の中の変化を認める事ができずにいながら、どうしようもなく堕ちていく身体。
伊藤の背に腕を回して縋りついて、足を絡めあって一つになりたいと思ってしまう自分。
今にも組み伏せられた身体の下で、伊藤を待って揺れ出しそうな腰を認めたくなくて唇を噛む。
伊藤を欲しがる自分と、それを許せない自分。二つの感情に引き裂かれて狂いそうになる。紅い髪の悪魔の誘惑は痺れるように甘く、その毒は麻薬のように身体に沁みこんでいく。
いつまで伊藤に隠していられるのだろう。
もう堕ちてしまいそうな俺を…。
END