ハーフ&ハーフ
written & songs by amiJakanm
夕日が沈むと同時に降り出した雨が海岸沿いの道を黒く濡らしていく。車のライトが雨を追いかけるように滑らかにカーブを切っていく。フランス映画の中にいるような気分になったが、ぶちこわすようにとなりからいびきが聞こえてきた。ちらっと横目で見ると敏夫は首をこちらに傾げて眠っていた。
カーステレオのボリュームを下げてヒーターの温度を少し上げる。ワイパーの動きが音楽のリズムと合っているのに気づいて奈美は笑った。笑い声のせいか、それとも左にカーブしたせいか彼は窓の方に寝返りをうった。結婚前はいつも敏夫が車で送り迎えしてくれて、助手席で眠ってしまうのは奈美の方だった。3年経った今はドライブに行っても、行きは彼が運転するが、帰りは彼女が運転した。彼女の未来予想図とは少し違っていたが、それはそれで悪くない結婚生活だった。奈美は車を脇に止め、地図を広げてどの道を抜けていくか考えていた。しばらく地図を眺めているとラジオから好きな唄が流れてきたので奈美は音を少し大きくしようと左手を伸ばした。その時、車の中が明るく照らされた。顔を上げるとバックミラーの中の二つの光はみるみる大きくなり、あっという間に後ろに近づいた。恐怖で振り返った瞬間、激しい衝撃で体が前方にふられた。金属の擦れる音が続いたあと、突然静寂が訪れ、空が目の前にあらわれた。続いて水平線が見えゆるやかに海を眺めたあと、大きな音と共に暗闇が二人を包み込んだ。
懐かしい匂いがした。それは次第に私の意識を覚醒させ、ついには片方の目を開けさせた。白い壁の中からぼんやりと輪郭が現れ始め、充血した目がこちらを見つめていた。
「よかった、気がついたんだね。」
―おかあさん。―喋ろうとしたが声がでなかった。段々視界が広がり、私を覗き込んでる父の姿も見えた。母が私の左手をつかみ自分の頬にあてて涙を流していた。その温もりは生きている実感を与えてくれた。瞬間的に起きあがろうとしたが体は言うことを聞いてくれず、痛みを呼び起こしただけだった。母は手を戻して、子供の頃よくそうしてくれたように私の髪を優しくなでてから右頬に手をあてた。いや、あてたはずだった。でも感じなかった。頬だけでなく、右目も開かず、右半身の感覚がまるでなかった。途端に生きている実感は苦い味になった。
白衣を着た男性が勢いよく部屋に入ってきた。
「意識が戻って良かったですね。私の言うことわかりますか。」目をつむって答えた。
「話せますか。」口が自由に動かなくて、言葉にならない声で力無く呻いた。男性は小さなライトをつかって両目を覗き込み、少し首を傾げた。次に左手をとり、
「感じますか、わかったら握りかえしてください。」といかにも医者らしい口調で言った。言われるままに私は男にしてはうすい手を握り返した。右手も同じくされたが触られていることすらわからなかった。何分かの診察の後、医者は家族を連れて部屋を出ていった。廊下で話しているらしく、母の泣き声が聞こえてきた。父と母はしばらく部屋に帰ってこなかった。私は動く左手で頬を触った。妙な感触だった。手を下へ伸ばしたが、まるで死体を触ってるようだった。突然あの時の場面がフラッシュバックされ、恐怖がよみがえった。衝撃で飛ばされたあと、きれいな海が見えそして地面が近づいてきて、私は必死にハンドルを掴み、効果のないブレーキを思いきり踏みつけていた。最後の衝撃が訪れる前の何秒かは実際の時間以上にゆっくりと流れ、恐怖の到達点を待っているようだった。となりの敏夫は……。そうだ、敏夫はどうなったんだろう。右隣は見えないけどいるんだろうか。気が狂いそうになった時、父が一人で病室に入ってきた。俳優には向いてないと思う父が精一杯の演技をしているのが余計悲しくなった。私は不自由な口で精一杯、「ト・シ・オ、敏夫。」と言った。父は顔を近づけて聞き取ったあと、暗い顔で首を振った。
それから、私が五日間意識がなかったこと、敏夫の葬式がもうすんだこと、事故の原因はトラック運転手の居眠り運転だったことを聞いた。目覚めてから二日経っていたが、相変わらず右半身は眠ったままだった。すこし話せるようにもなったが、母の顔を見れば一生治らないのはわかっていた。もうどうでもいいと思った。敏夫と一緒に死んでいればよかった。悲しみと絶望が
私の心を覆っていた。四日目の朝、愛想のよい若い看護婦がカルテを片手に入ってきた。閉ざされたカーテンを開け、日差しを背に私を覗き込む。
「今日はすこしよさそうですね。熱もだいぶ下がりましたね。」そう言って、ふとんをかけ直してくれたが急に驚いたようにクルッと半回転して後ろに飛び退いた。目を見開いている彼女はお尻を左手で押さえながら、右手で私を指さし口をポカンと開けていた。
―わるい、わるい、つい手がでちゃった。― 聞き慣れた声が聞こえたような気がした。しかし部屋の中には私と看護婦以外誰もいないはずだ。
「えっ、何だって。」私は声に出して聞いた。先程の声が答える前に看護婦が答えた。
「今、お尻をさわりませんでしたか。」 ―何をいってるの。そんな覚えはないし、だいいちそんなことできない― しかし、私の右手がゆっくりと上がり申し訳なさそうに手を振るのが見えた。―勝手にうごいてる。― 頭の中はもうパニックってた。看護婦は医者を呼びに駆け足で出ていった。「いったいどうなってるの。」 先程の声がそれに答えた。
―おれだよ、俺。―
「俺って誰。いったい、どこにいるの。」恐くてつい大声になってしまった。すると右手が上がり、人差し指で私をさしてこう言った。
「わかんないか。俺だよ、敏夫。ここにいる。」
あの薄い手の医者がまたも勢い込んで現れた。「奇跡。奇跡」を連発しながら体のあちこちを調べて満足そうに頷いてる。買い物袋を下げて帰ってきた母は医者の話を聞き、またも涙を流していたが今度は喜びの涙だった。しかし私自身は勝手に動く半身を呆然と見つめるだけだった。今度は声に出さずに聞いてみた。―一体、どういうことなの。―
―俺にもわからないんだ。目が覚めたら、女が覆いかぶさってたからお前だと思ってさわったんだけど、こっちがびっくりしちゃったよ。―
―そんなことじゃなくて、どうして私の中にいるのよ。―
―はぁ、全然わかりません。―答え方が敏夫らしくて、思わず笑ってしまった。母もそれを見てうれしそうに笑った。
―ねえ、敏夫が右手をうごかしてるんでしょう。―
―そうだよ。鼻ほじってほしいのか。―
―バカ、ちがうわよ。そうじゃなくて、左半身の感覚はあるの。―
―あるよ。―
―えーっ。ほんとー。― 一挙に悲しくなり、うらやましく思えた。
―うそだよ、冗談。ごめん。まったく感じないよ。変な気分だ。―少しまじめな口調に戻った。彼の手が、いや私の手が私の手を握った。やっぱり彼の手だった。嬉しいような気持ち悪いような不思議な気分になった。
それから奇妙な共同生活が始まった。二人で協力して何とか起きあがることもできるようになったし、タイミングを合わせれば話すことも明瞭に言えた。段々このシステムに慣れるにしたがい、他人から見ればちょっと不自由そうに思えただろうが、うまく二人はうごけるようになった。例えて言うなら二人羽織を左右に分けてやってるような感じだった。2週間もすると食事もとれるようになったが、もともと左利きだった奈美が箸できゅうりの漬け物を口に運ぼうとしたとき、右手で払い落とされたことがあった。敏夫はきゅうりが嫌いだった。病院の食事では足りなくて、母にコンビニのお弁当を買ってきてもらい、あっという間にたいらげたのにはさすがに「あんた、だいじょうぶかい」と呆れていた。敏夫はよく冗談を言い、奈美を笑わせた。突然笑いだすので周囲を不思議がらせたが、大きな事故のあとでそれも仕方のないことだとみんな思っていたのが幸いだった。一人の体に二人いるせいか四,五時間もすると疲れてしまい、すぐに眠ってしまうこと以外、二人は順調に回復していった。それから一週間もすると「一,二,一,二」と声をだしながら―まるで二人三脚のようだったが―歩けるようにもなり、ついには一ヶ月で退院した。「一緒に暮らそう」と心配する母に「もう大丈夫だから」と説得して我が家へ戻ってきた。なつかしのスィートホームだった。ここで二人は結婚生活を始め、毎日食事をし、テレビを見て、語り合いそして
SEXをした。以前と同じように二人は存在したが、互いの体を愛し合うことはできなかった。しかし四六時中―あたりまえだが ―一緒にいて同一化してるようで、次第に違和感がなくなってきた。敏夫のしたい事が私のしたいことのようにスムーズに体が動くこともしばしばあった。何日かすると友だちで同僚でもあるケイコから電話がきた。
「奈美、大丈夫かい。これからヨシエと一緒に元気づけにいくからね。ケーキ買っていくから楽しみに待っててね。」友だちの声に喜んだが、一瞬不安がよぎった。 ― やばい。ケイコとヨシエといえば社内でも美人の二人だ。―
―知ってるよ。おまけにナイス・バディなんだよね。ヒッヒ、楽しみだなあ ―
「何考えているのよ。私の友だちなんだからね。へんなことしないでよ。」悪さをしないように彼の手をつねってやった。気のせいか私まで痛いような気がした。
チャイムの音で玄関に迎えにいくと、ケイコたちは元気よく部屋にはいってきた。
「なんだ、元気そうじゃない。ご主人が亡くなってげっそりしてるかなと思ったら、ニコニコしちゃって案外立ち直りはやいわね。」―ニコニコしているのは敏夫なの。―よっぽど言いたかったが飲み込んだ。
「おまけに少し太ったんじゃない。」ヨシエがコートを脱ぎながら言った。体にフィットしたセーターと革のミニをはいていた。ケイコはブラウスにパンツルックだったが、女同士の気安さで胸元が大胆に開いていた。
―マズイッ、これはまずい。ヤツは絶対暴走する。―しかし意外にも敏夫はおとなしかった。言いつけを守っているようだった。―ヨシ、よし。そのまま、そのまま。―何故かせわしない右手が左腕をさすった時、ジットリして気持ち悪かったがそれぐらいは許してやった。ケイコたちは勝手知ったる他人の家とばかりずかずかとキッチンに入り、皿とグラスなどをもって戻ってきた。
「ワインも買ってきたんだ。高かったんだぞー、これ。奈美ももう飲んで大丈夫なんでしょう。」
「ううん、まだ…」「すこしぐらいなら大丈夫。」―なにーっ。飲んだらヤバイって。―しかしもうグラスを持った右手はヨシエからワインを注いでもらっていた。
「乾杯。」敏夫の音頭でグラスを掲げた。―敵がフル・パワーになる前になんとかしなければ。―テーブルに置いたグラスを奪い、遠い所に離した。―敏夫は普段でもエッチだが、お酒を飲むとさらにスーパー・スケベ親父に変身するのだ。「酒さえ飲まなければいい人なのに」の典型といえる人なのだ。この魔物から友だちを守らなければ。―
敏夫に注意を払いながらも、久々のパーティを楽しんだ。言葉は乱暴だが二人とも優しくて、気を使ってくれているのが伝わって嬉しかった。結婚前に三人で温泉に行き、ビール10本、日本酒2本、ウイスキー1瓶を飲み明かした夜を思い出した。―私の結婚話を肴にうらやましいだの裏切り者とか言われながら朝までのんだっけ。旅館の仲居さんが部屋を片づけるとき、呆れ返って嫌みをいわれたけど最高の夜だった。― 昔に想いを馳せて少しボーッとしたのがまずかった。
「奈美、いつから煙草吸うようになったの。」ケイコが驚いた顔で私を見ている。ちょっと気を緩めたらもうケイコの煙草を拝借して吸っているではないか。
―あちゃぁ、何やってんのよ。私吸わないの知ってるくせに。―
―いいじゃん。目の前で煙草吸われたら俺だって吸いたいよ。もう一ヶ月も吸ってなかったんだぜ。俺が死んでから吸うようになったって言っといてくれよ。―
「うん、主人が亡くなってつい吸うようになっちゃたの。」しぶしぶ言うとおりにした。
「ふーん、あの奈美がね、煙草するようになったか。それにしてもうまそうに吸うよね。」
「えっ、そう。一本吸えば気がすむから、もう煙草しまっちゃっていいよ。」
「いいよ、いいよ。もう一箱あるからこれあげるよ。」待ってましたとばかり敏夫は手を伸ばし、私に取られないよう自分の傍らに置き呟いた。―ワインの仇はとったぞ。―
しばし昔のことや会社の話しをして盛り上がった。少しろれつの回らなくなったヨシエが立ち上がり、「トイレ借りるね。」と言って、奥に消えた。敏夫のスケベ光線でスカートに穴が開かないかちょっと心配だったが、そこまでのパワーは充填されてないようだ。
しばらくしてトイレのほうからヨシエが私を呼んだ。
―いけない、またもやピンチ到来。ペーパー補充するの忘れていた。―立ち上がってペーパーを持っていこうとする敏夫を必死に押さえつけて、ケイコに慌てて頼んだ。
「ケイコ、洗面所の横に棚があるから、そこにペーパーはいってるの。悪いけど持っていってくれる。」右腕を宙に伸ばし、左手でソファを掴んで中腰になってる私を気持ち悪そうに見ながらケイコはヨシエの所に行った。―もおーっ、アンタ、トイレで覗こうなんて思ったでしょう。―奈美はするどくつめよった。
―とんでもない。ボクは無実です。紙を持っていってあげようとしただけです。そんなエロジジイみたいに言わなくてもいいしょ。―外国人レスラーが大げさに許しを乞うような調子で敏夫は言い訳をした。
―嘘つくんじゃないの。何が「ボクは無実です」よ。すっかりお見通しなんだからね。君はれっきとした有罪、確信犯で無期懲役よ。まったく、もう。めちゃめちゃ格好悪いとこ見られちゃったじゃない。ケイコ変な顔して見てたわよ、このバカモンが―あまりに頭にきたので横っ面をひっぱだいた。あれからずっと中腰の体勢のままだったので、よろめいてソファに倒れ込んだ。ケイコが部屋に戻ってきた時、奈美が自分を叩いて倒れるのを目撃して口に手をあてた。―今日来たのは間違いだったかなあ。―しかし外見に似合わず母性本能の強いケイコはこのまま奈美を一人で置いておくのはしのびないと思い、トイレから出てきたヨシエに「ねえ、奈美やっぱりショック大きいんだよ。前と違うもん。今日一緒にいてあげようよ。」と余計な事を言うのであった。ヨシエもワインがまわって眠たかったので曖昧に返事をした。敏夫にとって「飛んで火に入る夏の虫」とは彼女達のことであった。ケイコたちが泊まると聞いたとき奈美の髪の毛が一瞬逆立った。敏夫は……もう起つ所はなかった。
「いいよ、いいよ。私ならだいじょうぶ。心配しなくても…」「一緒にお風呂はいろうか。」
―コイツ、たいしてお酒も飲んでないのにダイタン星人に変身してる。―
ケイコは私の懇願も聞かず、さっさと風呂を入れに行ってしまった。
―次なるヤツの行動はみえみえだ。こうなったら寝室に閉じこめるしかない。―
「ごめん、私眠いからもう寝るね。」そう言ってなんとか寝室に行こうとするが、敏夫はソファの背に腕を回して必死の抵抗をする。ヨシエは絨毯の上に寝そべってパントマイムの寸劇を唖然と見ていた。ケイコが戻ってきてやおら服を脱ぎ出しはじめた。瞬間的に私は目をつむった。しかし私が目を閉じても意味がないことに気づいた。慌てて彼の目を手で覆って親友のストリップを見せないようにした。しかしケイコはわざわざ私の手をよけて「どうしたの、一緒に入らないの。」と会社の3人の男しか知らない肢体を露出し、私の顔をのぞいて「奈美、だいじょうぶ。」と聞いてきた。目の前に嫉妬するほど形のよい乳房がゆれていた。
「んっ、なにが」私は視線をずらした。ケイコは心配そうな声で
「鼻血でてるよ。」
さぞかし楽しい夜だったに違いない。あれから敏夫は「お友達は遊びにこないのかな。」とか「ねえ、ほかにどんな友だちいるの。」としつこかった。女の裸はいやというほど毎日見てるのに、どうして男ってこうなんだろう。そのうち銭湯に行こうなんて言い出すんじゃないだろうか、私は野獣の調教師になった気分だった。
ケイコたちが会社に私の状況を報告したらしく、課長から電話がきた。内容は回りくどかったがこのまま会社をつづけるのかどうかを聞きたがっているようだった。「無理しないほうがいいよ」とか言葉は優しかったが、やめさせたがっているのはわかった。私も敏夫の保険金やら相手の賠償金でしばらくは生活の心配もなかったし、なによりこの状況で働けるとも思わなかったので「とりあえず、いろいろお世話になったので明日ご挨拶に伺います。」と言って電話を切った。
―やめるのか。―すこし寂しそうな感じで敏夫が聞いてきた。
―うん、だってこの状態ではやれないよ。敏夫は仕事したほうが良いと思ってるの―
すこし考えてから敏夫が言った。
―確かに難しいとは思う。でもこれからずっと家の中だけに閉じこもっているつもりかい。
俺達は、いや君はまだ二六才だよ。あと何十年も同じ生活をするのは苦痛に感じると思う。お金もそのうち底をつくだろうし、働いたほうが精神的にいいと思わないか。―そうかもしれなかった。最初は共同作業するのが大変で余裕なんてまるでなかったけど、最近では幾分かの不自由さはあったもののすっかり慣れて普通の生活を送れていた。食事をつくり、テレビや本を見て一日が過ぎてゆく。このままだと敏夫の言うとおり昨日のビデオを毎日再現するようなものかもしれない。
―でも、できるかなぁ。私たち四,五時間起きてたら疲れてすぐ眠っちゃうんだよ。今のままだと朝九時から夕方五時までの仕事なんてとても無理だよ。―
―それもそうなんだよな。俺達の一日は半日毎みたいだもんな。どうするべ。―
午前中仕事しても、昼から寝て退社時間になったら起きて帰るようなヤツは絶対クビになる。スーパーのパートでも雇って貰えるかどうか、事故の後だけに敬遠されそうだ。やるなら今の会社のほうが都合はいい。ケイコやヨシエもいるし何かとフォローしてくれそうだ。そうこう考えているうちにいつものように疲れて眠ってしまった。
目覚めると、すでに敏夫は起きているようだった。
―俺、考えたんだけどお互い時間をずらしたらどうなんだろう。―さっきのことをずっと考えていたらしい。―お前が寝たあと、俺も眠たかったけど頑張って起きてたんだ。テレビを見たり、本を読んだりしてさ。でも途中で頭がボーとしてきたから、こりゃいけないと思ってお前のオッパイ触ってたら、ちょっと興奮しちゃって今まで起きていられた。― 見たら前がはだけて胸がでていたので慌てて隠した。
「もう、私の体オモチャにしないでよ。」
―お前だけのものじゃないでしょう。―
「こっち側はわたしのなの。」油断も隙もあったもんじゃない。
―わかったって。それよりどう思う、名案だろ。俺は徹夜したから寝るけど、よーく考えておいて。それじゃ、おやすみ。―そう言うと敏夫は眠りにはいり、急に右半身がだらっとしてしまった。
―本当にそんな事が可能だろうか。今までもちょっと眠る時間がずれてその間顔を洗ったり、彼をひきずりながらふとんに入り込んだこともあった。私の仕事は経理でほとんど座りぱなしだから、やってやれないことはなさそうだけどそんなに上手くいくだろうか。―
試しにノートをつけたり、電卓をたたいてみたがなんとかいけそうだった。敏夫は疲れたらしく私が眠るとき起きてこなかった。夜の10時すぎに目をさましたら、敏夫が今度は悪さをせずにおとなしく私を待っていた。―いやあ、野球中継見たかったけどお前重くて動けなかったよ。―おどけた感じで敏夫は言った。
―えー、そんなことないでしょう。―たしかに二人分食べるせいか最近太ったけど。
―うそ、うそ。俺もさっき起きたとこなんだ。それで結論はでたかい。―
―うん。とりあえずやってみようと思う。無理だったらその時点であきらめる。―問題は色々考えられた。相手が寝ている時の不自由さもあるが、敏夫一人の時が心配だった。彼は営業だったから経理のことはわからないはずだし、それと部内には若い女性が七人もいるから変な気を起こすともかぎらない。とりあえず明日は挨拶だけだから、来週から仕事をさせてもらうようにして、それまで特訓して鍛えなければ。
―腹へったな、何か食べないか。―奈美のそんな心配をよそに敏夫はのんきだった。。
―ねえ、となりのコンビニに買い出しに行かない。明日の体慣らしにもなるし。―今までケータリングのサービスを使って食材など届けてもらって、外にはなるべく出ないようにしていた。まだ自信がなかったし、周りの人に変な目でみられることが厭だった。でも会社に行くからには覚悟を決めて、普通の生活をしなければ。コンビニはマンションとなりのビル1階に店舗を開いていた。昔は残業などで帰りが遅くなったとき、よくお弁当やビールを買っていた。歩いて一〇分ほどの所に商店街があったが、そこより少々値段が高くてもコンビニをよく利用していた。あの頃の私は恋人時代の気分そのままで敏夫に寄りかかって生きていた。共働きはしていたが世間からみれば恵まれた甘ったれの奥さんだった。休日には映画やドライブに行き、イタリア料理店や中華料理店のおいしい評判を聞くとおねだりしてよく連れてってもらった。父や母のように年老いていくことは想像できなかったし、ましてや夫が死んで一人になる未来なんて私の中では存在する筈もなかった。今が幸せとは言えないけど、敏夫が私の中にいてくれて良かったと思う。二人で話し合い、協力しあって生きていく本当の夫婦になったような気がする。
コンビニに入ると四〇代ぐらいのサラリーマンやら高校生らしい若者たちでいっぱいだった。ちょっと怖じ気づいたが慎重に歩を進めた。あまりに慎重すぎてまるで雪道を歩いてるかのように不自然な動きになってしまっていた。入口横のブックスタンドで本を立ち読みしていた若い男の子はジットリとしたワニ目で私たちを見ていたが、敏夫が睨みをきかすと慌てて本に視線を戻した。皆に見られているような気がして私はさらに緊張していたが、さすがに敏夫は平然とお弁当のコーナーに私を引きずっていき、焼き肉弁当とポテトサラダ、鶏の唐揚げをカゴに入れた。私も商品を目の前にしてやっと落ち着き、サンドイッチとツナサラダ、そして大好物のチョコミントのアイスを入れた。お菓子も買って店内を一周したところで敏夫が男性週刊誌を三冊とってカゴに入れた。
―ちょっと待って。これはまずいよ、元に戻して。―
―いいじゃん、別に。誰も気にしないって。たとえばそこの兄ちゃんが女性雑誌を買ったら、お前注意するのか。「それは女性が読むものです。」ってまさか説教しないだろう。何おどおどしてんだよ、万引きする訳じゃあるまいし。―敏夫は堂々としていた。
―そりゃ、そうだけど。でも店員が私のこと知ってるのに、変に思われるよ。―
―そんなことないって。いちいちお客の顔を憶えてるわけないしょ。一日に何人来ると思う。それよりさっきから何回も本を取ったり、しまったりする方がおかしく思われるよ。もっと気楽に考えないとこの先やっていけないぞ。―敏夫の言う通りかもしれない。私は自分が異常だと思いすぎて、他人の目を気にしすぎている。普通にしていれば私はただの一人の美しい女性にすぎない。
―誰が美しい女性だって。―
―あらっ、聞こえちゃったの。―
―よく言うよ、まったく。―敏夫は調子にのって『盗撮○○』という本を手にとったが、それだけはやめさせた。レジカウンターに行きカゴを置くとバイトの店員はたくさんの食品を確認してちらっとこちらを見たが、あとは無関心そうに一個づつバーコードを読みとっていった。袋二つを両手にさげて意気揚々と私たちはコンビニを後にした。
課長は「えっ」と言ったきりしばらく黙ってしまった。てっきり電話の感じでやめるものと思ってたようで、―確かにあの時はやめるつもりだったが。―あとで聞いたところによると後がまに自分の姪を採用するつもりだったらしい。私は「主人が亡くなって一人で家にいると想い出してしまうので仕事に集中していたい。」と懇願した。課長も事故の後だけに、今やめさせて「非情の男」のレッテルをはられるのは得策ではないと判断したらしく「まあ、あまり無理しない方がいいと思うけど。」としぶしぶ了承してくれた。私は社内のみんなにお見舞いのお礼を言いに回り、ケイコとヨシエには「来週からくるから何かとよろしくね。」と頼んでおいた。帰りに書店に寄り、経理事務の本を買いこみ早速特訓を開始した。普段はふまじめな敏夫だが、やはり男の人だけに仕事に飢えていたようで理解がはやく、週末にはなんとかいけそうなぐらい上達した。私たちは明日からの出勤を前にスケジュールの打ち合わせをした。会社は電車で二駅の所にあり歩く時間をいれても三〇分で着くが、二人一緒の時間をなるべく有効に使うためしばらくタクシーを使うことにした。車なら一〇分ほどで着くのでぎりぎりまで時間を使う事にする。まず敏夫が五時半に起き朝食と弁当の用意をし、思いのほか上手な化粧等を担当。私は八時に起き食事をすませ、八時三〇分家を出発。会社に着くと朝礼が一〇分ほどあるのでその後仕事にとりかかり、九時三〇分敏夫就寝。一二時からの昼休み、私は食事を五分で済ませメモを残してすぐさま就寝。敏夫は一時に起き仕事を続け、四時に目覚めた私と一緒に五時に退社。すぐにタクシーに乗り込み自宅に戻る。ケイコたちには「事故の後遺症でときたま半身が動かなくなる時があるから課長にばれないように助けてね。」とお願いしておいた。
翌日、計画通りに家を出て八時四〇分すぎに会社に到着、ロッカー室で制服に着替える。他の女の子たちも一緒に着替えるので、まさかこの中に男が混じっていることも知らずみんな無造作に裸になっていく。敏夫の目がギンギラギンになるが、―これぐらいの楽しみは与えてあげてもいいか、そのうちあきるだろうし。―と野獣の手綱をゆるめた。一分の猶予を与えたあと、自分の着替えも手伝わずボケーと見ている敏夫に喝を入れた。
―はい、ショータイムはおしまい。さっさと着替えて仕事、仕事。―
朝礼では課長が朝刊の記事を切り抜いたような訓示を話し、今日から復帰した私を紹介して「みんなで頑張りましょう。」と何をがんばるのか訳のわからない事を言って終了した。
私は座り慣れた椅子に腰掛け、大きく息を吸い込んで久しぶりの仕事を再開した。伝票を手にとり敏夫に教えながら、私はうきうきしてた。敏夫の言うとおりにしてよかった、慣れ親しんだ事だけどすべてが新鮮で、やる気が体に溢れた。課長が近くに来て、肩を叩いた。「どうだい、勘はもどってるかい。」笑顔の裏に「戻ってなかったらクビだぞ。」の思いが隠されていたが、「はい、大丈夫です。」と元気に答えると「そうか、そうか。」と人柄の良い上司を気取って周囲にアッピールし、意味もなく頷きながら自分のデスクに戻った。敏夫がまだ起きている時間で良かった。これでしばらく私の所には来ないだろう。敏夫は右手で頬杖して、いかにも目の前のパソコンを考え見てるような姿勢で眠りに入った。両隣はケイコとヨシエなので都合がよく、不審に思われることはないはずだ。敏夫が寝た後も私は順調に仕事をこなしていった。午後からが心配なので段取りなどをメモして支障のないよう心がけた。昼になり、すこしでも時間を節約するため机の上で食事をそそくさと済ませ、その場で寝た。四時すこし前に目をさますと敏夫はさすがに苦労してたらしく量がはかどっていなかったが、ミスもなく上手くやっていたようだった。両手を使ってキーボードを叩き出した私に向かって、右隣りのヨシエが「すこし元気がでてきたんだね、よかった。さっきまで具合悪そうにしてたから心配してたんだよ。」と耳元に近づいて囁いた。敏夫がビクンと体を硬直させたのがわかった。ヨシエの胸が肘にあたってる。
「ありがとう、でももう大丈夫。」―コラッ、肘うごかすんじゃないの。―
なんとか五時までに仕事を片づけ、飲みに誘うケイコたちに「今日は疲れたから」と断って急いでタクシーに乗り込み、自宅にたどり着くと同時に敏夫は眠り込んだ。寝ている敏夫に―お疲れさまでした。ありがとう、明日もよろしくね―と奈美は心から礼を言った。
敏夫は目を覚まして時計を確認した。もう九時半を過ぎていてリモコンでテレビをつけたが野球中継は終わっていた。―あー、これじゃいつも見られないな。―がっかりしたが、奈美の字で『野球、録画してます。巻き戻して見てください』とメモが残っていた。―嬉しかった。以前、奈美は俺が野球を見てると「つまんない。ドラマ見せて」とチャンネルを強引に切り替えた。俺の唯一の楽しみなのに「どこが面白いの。」と理解を示してくれなかった。お嬢さん育ちで一人っ子のせいか、ちょっとわがままで甘えん坊だった。たまに子供を相手にしているような気分になったこともある。それが今、あいつは自分の体を半分俺にとられて辛いだろうに、俺のために……。― 涙がでた。取るに足らないささいな事だが敏夫は奈美の優しさに触れて泣いた。奈美の体で目覚めてから敏夫は不安と失望を実は感じていた。敏夫の肉体はもう存在しておらず、前の自分には戻れない。奈美の半分を占領して不自由を与え、何のためにここにいるのか答えも探せなかった。神の存在を信じていなかったにも関わらず、神を呪った。何故俺は死ななかったのか、どうして俺達が事故に合わなきゃいけないのか、絡まった運命は神のいたずらなのか。敏夫の中では自分はもう死んだ人間だった。せいぜい自分に出来ることは不安と悲しみに暮れていた奈美を元気づけてあげることしかなかった。それしか意味を見いだせなかった。いま奈美はやっと生きることに前向きになってきた。いつまでこの状態が続くかわからないが、それまで奈美と夫婦として一緒に生きようと心に決めた。最近、奈美は気づいていないようだが、すこしづつ俺の部分が減ってきている。段々と奈美の部分が復活しはじめているようだ。天国の役人が間違いに気づいたのだろう。―それでいい、今の奈美ならひとりになっても何とかやっていけるだろう。それまでは二人で頑張ろうな。―敏夫は奈美にキスをしたかったがそれは叶わぬ夢だった。
翌日は前日より上手くやれた。昨日やり抜いた自信からかおどおどしなくなったし、なにより二人のコンビネーションが良かった。しかしちょっとしたトラブルが待っていた。予定通り私が四時に起き、ラストスパートをかけてたとき取引先の山崎さんがやってきた。いつもこの人は課長と少し談笑した後、意味もなく社内をブラブラして女の子にちょっかいをかける。みんな嫌っているが取引先の人だけに露骨に厭な顔もできないので困っている。たまに皮肉を言ってみても「また、また、そんなこと言っちゃって」と馬の耳に念仏なのである。関わり合いたくないと思って目をあわさないようにしていたが、肩をポンポンと叩かれた。「奈美ちゃーん、久しぶり。大変だったねえ、気を落としてないかい、心配してたんだよ。昨日から来てるって聞いたから、もう急いで飛んできたんだよ。体はもう大丈夫なの。」と妙に力の入った手で腕を握られた。「そうだ、ちょっと来て。」と言って手を引っ張られ、廊下に連れ出された。「これ、ボクからのお見舞い、受け取って。」財布からおもむろに一万円を抜き出し、裸のまま私によこした。「いいえ、そんな。結構です。」と返したが、その手を握り「いいの、いいの。遠慮しないでいいの、ボクのほんのきもちだから。」となかなか手を離さなかった。「そんな、困ります。」と強く言っても、相手は動じず「何が困るの、ボクと奈美ちゃんの仲でしょ、そんなこと言いっこなし。」
―誰と誰の仲だって。ふざけんなよ。―私はぶちきれそうだった。ケイコが心配してドアの隙間からこちらを見ていた。それに気づいた山崎は「まあ、ここじゃなんだから、今度ゆっくり食事でもしながら話しきくから。今日はこれ受け取りなさい。」と私の胸ポケットにお金を無理矢理入れたが、その時微妙に指が動き胸にふれた。―すけべじじい。―と私が思った瞬間、おとなしくしていた敏夫が爆発した。
「いらねえってさっきからいってんだろうが、このオタンコナス。なに考えてるんだ、テメエは。いやらしく人の手さわりやがって、なにが「ボクと奈美ちゃんの仲でしょ」だ。ふざけんじゃねえよ。「食事をしながら話し」だと、まっぴらごめんだよ。おまけに胸さわりやがって、このセクハラ親父。こんな汚い金いらねえからとっとと帰れ。」最後に膝で股間を蹴り上げた。「ヒエーッ」と悲鳴に近い声を上げて、体を折り曲げ大事なものを押さえながら山崎は退散した。課長は慌てて飛んできて「まずいよ、君。なんてことしてくれたんだ、とりかえしつかないよ。」とおろおろしながら山崎の後を追った。部屋に戻るとみんな拍手して迎えてくれ「すごいよ、奈美。よくぞ言ってくれた。すっきりしたわ。」「ほんと、ほんと。これでもうアイツこなきゃいいわ。」と喝采された。
―別に私がしたんじゃないけど、敏夫がやっつけてくれて助かった。これでクビになってもかまわないわ。― 敏夫は一転しておとなしくなっていた。
―ごめん。ついかっとなってあんな事しちゃって。これでクビ間違いなしだな。―
―いいじゃない、それでも。それより守ってくれてありがとう。―
みんな口々に「こんな事で奈美をやめさせないから、心配しないでいいよ。いざとなったら団結して頑張るから…」と励ましてくれた。しばらくして課長が戻り、私は呼ばれた。意外にもクビにならなかった。どうやら山崎はこの事が自分の会社にバレるのが困るようであった。課長も自分が今まで見て見ぬふりをしてたのがうしろめたそうで、大事にしたくなさそうだった。しかし今後行動を控えるよう注意をうけ、口外しないよう念を押された。一番喜んだのは敏夫だった。
―よかったぁ、助かった。どうなるかと思ったよ。ラッキー、ラッキー。―としばらくはしゃいでいた。なにより良かったのはこれ以降、課長が近づかなくなったことだ。
日にちを重ねる毎に、私たちはより順調に仕事をこなし、生活も楽しんだ。休日には公園にお弁当をもって出かけたり、映画を見たり―しかも一人分の入場料で―して一日を満喫した。そんな休日を楽しんで家に帰る途中、唐突に敏夫が「
愛してる。」と手を握った。久々に聞いた言葉だった。何年も言われてなかった気がする。心がこもっている暖かい響きで、今まで生きてきたなかで一番感動した。幸せという言葉の意味がわかった気がした。でもこの時、敏夫はこの先起こる事態を予感してたのかもしれない。未来は足音を忍ばせて近づいていたのだ。会社に行き始めて六週間が経った日の四時過ぎ、私は課長に言われて駅近くの印刷屋に注文してた伝票を取りに行った。着くと少し待たされたが紙袋に入った品を渡され、サインをして店を出た。袋はたいして重くもなく、距離も散歩にいいぐらいで気晴らしにちょうど良かった。商店街を通り、今晩のおかずに何か良い物があればついでに買おうと思っていた。肉屋の前で立ち止まり、今夜はすきやきにしようと肉を選んでいた。突然、右向こうの方から一七,八才ぐらいの男の子たちが三人、何か大声で叫びながらこちらに走ってくるのが見えた。よけようと思って後ろにすこし下がったが、勢い込んで走ってくる一人の子が私にぶつかった。反動で道路の方に飛ばされよろめいた時、私はオートバイの走行線上に立っていた。空気を切り裂くようなブレーキの音とともにバイクは倒れ、まるで氷の上を滑るように向かってきた。なぎ倒されるのは間違いなかった。私の体は硬直し、危険を回避する術はすでになかった。しかしあと一メートルに迫ったとき私の体はふわっと宙を舞い、バイクは下をすり抜けていった。敏夫が渾身の力で私の体を浮かせてくれたのだ。宙に浮いた体は地面に引き寄せられるように右肩から落下し、次に頭を強打した。私はそこで意識を失った。
強烈な痛みで意識が覚醒した。目を開けると今度は母ではなく、ケイコが心配そうに私を見ていた。痛みがまた襲ってきて私は低く唸った。
「痛いの、奈美。看護婦さん呼んでこようか。」ケイコがベッドの上のブザーを押すと、女性の声が部屋に流れた。「どうしました。」
「すいません、目覚ましたんですけどすごく痛がってるんです。」ケイコは天井を見上げながら話した。
「わかりました。今行きます。」ブツと音がして切れた。しかしすぐには来ず、しばらくして液体のはいった袋を持って慌てる様子もなくゆっくり入ってきた。痛いぐらいはここにいる住人たちには当たり前のことで、心臓停止ぐらいにならないとすぐには駆けつけないらしい。すでに腕に刺さっている管のさきにはなくなりそうな点滴の袋をぶら下がっており、看護婦はそれを今持ってきた袋と交換した。次に私の額に手をおき、顔をのぞいて
「これで大丈夫だと思います。」とケイコに告げ出ていった。すこしオロオロした様子で見ていたケイコは私に近寄り「奈美、事故にあったんだよ、憶えてる。」と聞いてきた。私は小さく頷いた。「でも命に別状なくてよかったね。わたし警察から電話きたとき、もうびっくりしちゃって血の気ひいちゃった。ヨシエなんか泣き出すし、もうみんな真っ青になってパニックになってた。さっきまで会社の人たちいたんだけど、落ち着いたみたいだったから帰ったの。しかし奈美もついてないよね。」本当についてない。薬はすぐには効かないみたいでまた痛みが襲った。背中にズキンとまるで蹴られたような痛みが走り、頭までそれが響いた。あまりの痛さを逃れようと首を振ると、今度はギプスをはめられている右肩に激痛が及んだ。私は痛みに耐えきれず声を上げた。ケイコは泣きそうな顔で
「もうすこしで薬効いてくるからね、頑張って。」と私を励ました。痛みが余韻を残しながら消えそうになった時、私は思わず右腕を見つめた。
―どうして感じるの。なんで右肩が痛いってわかるの…。―頭が混乱した。おそるおそる右手の指を動かそうとした。ちょっとした筋肉の動きでまた痛みがぶり返し、私は再度唸った。
―としお、敏夫。―呼びかけたが返事はない。イヤな予感が頭をよぎり、私はそれを必死に消し去ろうと何度も呼んだ。―敏夫、としお、敏夫……―ついには声に出して叫んでいた。「としおーっ」静まり返った夜の病院中に奈美の泣き叫ぶ声が何度も響いた。
母は夜行に乗って朝早く病院に駆けつけた。奈美の顔を見るなり「本当に可哀想な子だよ、事故にばかりあって。」と疲れた顔でつぶやいた。奈美は母をみても反応しなかった。医者が看護婦を連れて病室に現れ、母と挨拶を交わし症状を説明した。
「不幸中の幸いといいますか、どうやら頭から落ちたようですが脳に異常は見つかりませんでした。右肩を骨折してますが一ヶ月もすれば大丈夫でしょう。他は多少擦り傷があるくらいで母子ともに問題はありません。」母は驚き、聞き返した。
「えっ、母子共にって、おなかに赤ちゃんがいるんですか。」
「あっ、ご存知なかったんですか。いま四ヶ月から五ヶ月といったところでしょうか。」
母は奈美を見つめたが、表情がなく上の空だった。
「奈美、どうして教えてくれなかったのよ。」母は奈美をゆすぶった。
ゆすぶられた痛みで私は母に気づいた。なにを言っているのか最初わからなかった。
―えっ、何を教えなかったって。―母が妙にうれしそうな顔をしていたのが不思議だった。
「どうしたの、おかあさん。」
「何故、赤ちゃんのこと言わなかったのよ。」
「赤ちゃんって…。」―何のこと言ってるの。誰の赤ちゃんなの。―
「あんたのだよ、奈美の赤ちゃんに決まってるだろ。」母は興奮していた。
「私の赤ちゃん…。えっ、赤ちゃんがいるの…。全然知らなかったよ。」
「四ヶ月から五ヶ月だって。異常なくて元気だって。」母は痛みに苦しむ娘を前に喜んでいた。
―赤ちゃんか、わからなかった。つわりなんてなかったし、生理がこないのは体質が変わったせいだと思っていたから。思えば二人分の食欲は敏夫と私の分じゃなくて、赤ちゃんのせいだったかもしれない。あー、敏夫にはやく教えてあげたい。それとも敏夫は知っていたんだろうか。敏夫、ねえ聞いてる、返事して… ―しかし返事はなかった。
奈美は二,三日したら前のように敏夫があらわれるのではないかと心待ちにしていたが、一向に現れずに却って奈美の神経が回復していくのがもどかしかった。何度も敏夫の名を呼びかけたが、そのたびに少しづつあきらめの気持ちが積み重なっていった。そのうち敏夫が命をかけて守ってくれた私たちの赤ちゃんの事を考えなければいけないと思うようになった。大事に育てなければ…。頼りなかった私を支えてくれた敏夫のためにも、強く生きなければいけない。私はもうメソメソ泣くのをやめ、ふたりのために頑張ることを決心した。退院してから段々お腹が大きくなり、母親になる実感が湧いてきた。敏夫と一緒にいたときに感じた幸せとはまた何か違う幸せを感じていた。私は何度もお腹の子に語りかけ、返事はなかったがきっと通じていると思った。
四ヶ月後、かわいい女の子が生まれた。看護婦から渡されて、産まれる前から決めていた名前を呼んで赤ちゃんを抱きしめた。「こんにちは、敏美ちゃん。私がママですよ。」私を見て笑ったような気がした。一週間後、私たちは退院して二人だけの生活が始まった。四,五時間毎に敏美は眠ったり、起きたりしてた。お腹が減ると大声で泣き叫び、おっぱいをやるとおとなしくなった。敏夫に似ていた。私は思った、敏夫の生まれ変わりだと。なにもかも敏夫にそっくりで、こうしてまた私の元に帰ってきた。
奈美は赤ちゃんに話しかけた。
「敏夫、お帰り。また一緒に暮らせるね。」
しかし赤ん坊は目の前のオモチャに興味を示して、奈美の言葉に反応しなかった。
奈美はまだ気づいていなかった。事故の夜、奈美と一緒に運ばれたバイクの青年は危篤状態でずっと昏睡してた。ついには医者が首を振ったとき奇跡が起こり、意識を回復した。何カ所も複雑骨折をしていた体を五ヶ月でなんとか歩けるようになるまで回復して、彼は退院した。そしてマンションの隣部屋に引っ越してきたことを、今はまだ奈美は知る由もなかった。