僕には彼女がいた。
物静かで優しくて可愛い彼女。
結婚も考えていた。
しかし僕は一人息子で。
父は社長で。
彼女は普通のサラリーマンの娘だった。
立場の違いが、僕達を壊した。
「お前にふさわしい女性を探したから。その人と結婚しなさい」
「僕には彼女がいるんだよ」
「別れなさい」
父の言葉は簡潔だった。
僕は彼女をとても愛していたけれど、父に逆らうこともできなかった。
だから、選択肢は一つしか残らなかった。
「君と結婚することはできないんだ」
「私は別れないわ」
「・・・どうして?」
「愛してるからよ」
僕は何も言えなくなってしまう。
僕だって愛しているからだ。
でも父の用意した婚約者とデートを重ね、彼女と会わなくなるにつれて、そんな気持ちも薄らいできた。
結婚の準備も着々と進んでいる。
結納も交わした。
しかし僕たちはまだ切れていない。
どうやら父は手切れ金を渡しに行ったりもしたらしいが、彼女は頑なに受け取らなかった。
父が言った。
「こうなったら消えてもらうしかないな」
「・・・どういうこと?」
「プロに頼むから大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい」
それはつまり、彼女を殺すということだろうか?
僕は急に恐ろしくなり、彼女の元へ走った。
早く僕と別れて逃げるように言わないと。
彼女は全て知っていたかのように、僕を迎えた。
「あら、来たの?」
「大事な用事なんだ。早く僕と別れないと・・・」
「私を殺すんでしょう?」
いいのよ、と彼女は微笑んだ。
私のこと邪魔になったんでしょう?と。
「どうせ死ぬのなら、貴方の手で殺して」
「そんな・・・出来ないよ・・・」
「貴方はね、薬を飲ませてくれるだけでいいのよ」
「薬?」
彼女はどこからか、小さなカプセルを取り出した。
「口移しで飲ませて」
「え?」
「大丈夫よ。これは胃でしか溶けないから。それにね、この薬だけじゃ死ねないの。これも一緒に飲まないと」
透明な瓶に入った、銀色の液体。
どう見ても、飲んで無事にいられるとは思えない色だった。
「最期くらい我侭聞いて。貴方が疑われることは絶対にないわ。この薬は体内に残らないし。周りは自殺だと思うわよ」
僕は逡巡した後、ゆっくりと頷いた。
「分かったよ」
カプセルを口に含む。
ほんのりと苦い味が舌に広がる。
彼女に最期のキスをして、カプセルを押し込んだ。
彼女が銀色のジュースを飲み干す。
水銀のようだ、と何故か思う。
ゆっくりと笑う。
「さようなら」
その言葉は、とても遠くで聞こえた。
動かなくなった彼を見下ろして、私は煙草を取り出す。
「馬鹿な男ね。そんなところも好きだったんだけど」
先程の薬は、カプセルの表面に毒が塗ってあったのだ。
銀色の液体は解毒剤。
彼は何も知らずに毒を飲まされたのだ。
口から紫煙を吐く。
扉の奥に声をかける。
「・・・これでいいの?」
彼女が出てくる。
「ありがとう。これで二人っきりね」
彼女・・・彼の婚約者だった女だ。
そして私の恋人でもある。
「怖い女ね」
「貴方もね」
どちらからともなく唇を合わせる。
甘ったるい、添加物の味のキス。
「水銀の味がするわ」
「舐めたことあるの?」
「ないけど。水銀飲んだら死んじゃうわよ」
「この男みたいに?」
部屋に笑い声が響いた。
