僕は毎年梅雨になると、ある喫茶店に通うことにしています。
梅雨入りの日から梅雨が明ける日までの短い季節を。
その喫茶店までは、かなり歩かなくてはなりません。雨が傘を打つ音を聞き、紫陽花を眺めながら散歩をします。

扉を開けるとカランという音が鳴り、静かなジャズが耳に入ります。
扉を開けた僕を、マスターとウエイトレスがふっと見て不思議そうな顔をした後、視線を元に戻しました。
僕はいつもの窓際の席に座りました。僕はここから外を眺めるのが好きなのです。雨の雫が散ったガラスの外で、色とりどりの傘を差した人々がせわしなく通り過ぎていきます。
僕は必ずホットコーヒーを頼みます。
マスターは静かにゆっくりと丁寧に黒い液体を淹れ、僕はその一杯をゆっくりと時間をかけて飲み干します。
いくら常連と言っても、マスターは決して話し掛けてきたりはしません。
流れる音楽と、コーヒーを淹れる音と、雨の音以外は何も聞こえない。そんなところが、お気に入りなのでした。
しかし今日は違いました。
「・・・来ませんね」
「・・・ああ」「今日からなのに」
「・・・そうだな」
僕はマスターとウエイトレスが注文以外の言葉を交わすのを初めて聞きました。
今日はおかしなことばかりです。
いつまで経っても注文を取ってくれないどころか水さえ出してくれないので、僕は店を出ることにしました。
今日は本当は休みだったのかもしれない。
僕が扉を開けると、二人はまた不思議そうにこちらを見ました。

道には水溜りができていました。道行く人がそれを踏んで、飛び散った雫に濡れて悪態をついていきます。
僕は何気なくそれを覗き込みました。
しかし、水溜りは僕を映してはいませんでした。
横を通る人々は映っているのに。ためしに踏んでみました。
でも水は撥ねることを拒否しました。
僕の足など、存在しないかのようです。ふらふらと歩いていると、道路の端に人だかりができていました。
救急隊員が「どいてください!」と叫んでいます。
人垣が割れたとき、倒れている人間がいました。
流れ落ちる血を、降り続ける雨が洗い流してゆきます。
人間は、僕でした。

僕は喫茶店に来る途中で、車に轢かれたのです。
でもどうしても喫茶店に行きたかった僕は、魂だけお店に行ったのでした。
来ない、というのは僕の事だったのです。
誰もが僕を見ながら、誰もが僕を見ていない。
ふと思いました。
僕はこれからどうなるのでしょう?
梅雨の間くらいは、ふらりとしていましょうか。
梅雨明けと同時に、僕の魂も太陽に溶けてしまうでしょうから。