その日。
私は鬼になりました。
いつものように屋敷の警護をしていると、息せき切って藤姫様の所へ向かう貴方が見えたのです。
私はつい、耳をそばだててしまいました。
いけないことだと思いつつ。
「聞いて藤姫―!」
「まぁどうなされたのです?神子様」
「あのね、友雅さんがね・・・」
神子殿の声は、そこで一旦途切れました。
「友雅殿が?」
次の瞬間、私は自分の耳を疑いました。
はにかみながら、しかし嬉しそうにはずむ声。
「友雅さんが、結婚しようって言ってくれたの・・・」
「まあまあまあ!おめでたいことではございませんか!藤は嬉しゅうございますわ。友雅殿が相手なのは、少々不安ですが」
そこから先は、覚えていません。
私は世界が闇に閉ざされたのかと思いました。
目の前から景色が消え失せたのです。
もう二度と触れることの出来ない、貴方と一緒に。
ここで諦められれば良かったのです。
でも貴方の存在は、私にとって大きくなりすぎていた。
自分の主。
それ以上の感情を持ってしまったのです。
身分違いの浅ましい想いだと分かりつつ、それでも捨てることはできなかった。
他の男の元へ嫁ぐというのなら。
せめてもう一度だけ。
もう一度だけ、お時間を私にください。
気づいたら、私は神子殿の元へ向かっていました。
断られたら、もうきっぱり未練を断ち切ろうと決めて。
「神子殿」
「頼久さん?どうしたんですか?それに私、もう神子じゃありませんよ」
いたずらっぽく微笑む貴方。
私は思わず目を反らしてしまいました。
罪深い私には、貴方が眩しすぎたからです。
「少し・・・お時間をいただけないでしょうか?」
「時間?」
「ご一緒したい場所があるのです」
もしここで、貴方が否と答えたならば。
私の運命も、貴方の運命も、あのような結末にはならなかったのかもしれません。
しかし、貴方はこう答えました。
「いいですよ。どこですか?」
「・・・本当によろしいのですか?」
「?行きたくないんですか?」
「いえ、そのようなことはございません。少々遠いので、馬を連れてまいります」
「変な頼久さん」
貴方はいつも通りの微笑を浮かべました。
「ここに来たかったんですね。でもどうして?桜はもう散ってしまったのに」
私が貴方を連れてきたのは、墨染。
白い桜が咲くことで、有名な地です。
「貴方との・・・思い出の地だからです」
「春に、桜を見にきましたもんね。綺麗だったなぁ」
貴方はそう言って、懐かしむかのように目を細めました。
「覚えて・・・おいででしたか」
「忘れるわけないでしょう?初めて二人だけで出かけたんですよね」
一緒にここへ来れればよかった。
それだけでよかったはずなのに。
私はその先を望んでしまいました。
もう微笑まないでください。
私は貴方を地獄へと誘うのです。
貴方を離したくない。
傷つけることになったとしても、他の男に渡したりなどしない。
もう・・・誰にも止められない。
自分でさえ。
「頼久さん・・・?っ!嫌っ!!」
私は貴方を抱きしめ、夢中で唇を奪いました。
貴方は必死で抵抗しましたが、貴方のか弱い力など、私にはそよ風ほどにしか感じません。
もう貴方は捕まってしまったのです。
私という蜘蛛に。
巧妙に張り巡らされた罪の巣に、可憐な蝶は絡めとられたのです。
もがけばもがくほど、糸は体を縛り付ける。
抵抗すればするほど、暗い炎は燃え上がる。
もう逃げることなど、できないのです。
未来は閉ざされ、過去にも戻れない。
もう貴方は抵抗しませんでした。
人形のようになっていました。
頬には涙の跡が残り、髪の毛は乱れている。
いつも輝いている瞳は、光を失い何も映してはいない。
私が抱え上げて馬に乗せても、貴方は微動だにしませんでした。
「私は、後悔などしていません」
馬を走らせようとした時。
花びらが目の前を舞ってゆきました。
桜の季節でもないのに。
しかし、花びらはだんだんと増えてゆき、目の前が見えなくなるほどの桜吹雪となったのです。
しかし、桜の色は桃色でも、墨染めでもなく。
夜のような漆黒でした。
まるで、私の行く末を象徴しているかのように。
鬼は、私の心の中にこそいたのです。
忠実な下僕の面を被って。
