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先祖さんが悲しがるよ 〜もう一つの視線も持つ事と「戦争広告代理店」を読んで〜 |
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小さい時から何かと問題を起こしていた気がする。隣のかず君の筆箱を隠しただの、奥田千里をいじめただの。それなりに理由があった気がするが、今となっては思い出せないからクソガキだったと考えるのが妥当だろう。その度に母親から「先祖さんが悲しがるよ」と言われていた。祖母が死ぬと、それがおばあさんに変わったりしたが、結局空から先祖が僕の行動を逐一見ていて、悪い子とをするとバチが当たるという事を言っていた。あ、ちなみにバチって罰と書くというのは今知りました。今考えると先祖も色々枝分かれした子孫が沢山いて、俺ばっかりには構ってられないだろうなどと冷静に考えるが、当時は大変だった。空から先祖が見張っていて、罰を当てるのだ。そりゃ、うかうか出来ない。 ましてや天狗で有名な高尾山が近くにあるせいか、泣いたりごねたりすれば天狗がさらいに来るなどと言うから、空はどうも物騒で邪魔くさい物だったのだ。天狗までもが見張ってるのだ。これまたうかうか出来ないじゃないか。 それでも悪さや泣いたりするのだから僕という子供はどうもいただけない。先祖も天狗も見張ってると本気で思っているのに、それに反する事ばかりしているのだから自然と人間とは愚かな物だという性悪説に辿り着いたりするのだろう。やっぱり人間は愚かで、何とか色々な抑制装置を考えなければならない生き物だと思うようになりました。アーメン。 元来、宗教にはいい加減だった日本という国は、そうやって抑制してきた気がする。時代によって、それが村という共同体になったり、目安箱なんて考えれば「ちくり」としか思えない物だったり。天皇だったり、妖怪だったり。でもって先祖という疑似の神様を作り出して何とかやりくりしていたのではないか。ましてや学級委員をリコールされたり、人の尻にティッシュを詰めて火を付けたり、授業中に無意味にヨーグルトを食ったりするプチ極悪人を気取っていた僕には強烈な抑制装置が無ければならず、それが天狗や先祖だったのだろう。 これは一種の別の視点と言えないだろうか?そんな事を、やたらと刺激的なノンフィクション「戦争広告代理店」を読んでいて思った。この本は、ボスニア紛争で何故ボスニアヘルツェゴビナが被害者となりセルビアが悪役になってしまったかを追った戦慄のドキュメンタリーである。ボスニアがアメリカのPR会社を雇い自国のイメージをアップしていったのと対称的にセルビアが情報操作に遅れを取り、信じ難い程簡単に国際社会で悪とみなされてしまう過程が克明に描かれている。メディアや単純な情報操作にコロリとやられる世論や、それに振り回される政治家やそのスタッフ達の姿は他人事ながら恐ろしい。メディアを疑ってかかるのもどうなの?と思う方もいるだろうが、このドキュメンタリーはNHKで放送されたものを元にしていると言えば多少は信じて貰えるに違いない。一読を勧める。 でもって、ある報道にしても行動にしても一つの側から見るのではなく、別の視点、他者の視点を持つ事の重要さをひしひしと感じるのである。うっかり自分の側や利害関係を考えた末の自分サイドから物事を見がちだが、敵側とか別の発想から物事を見ないと危うい事がこの本を読むと良く分かる。内戦が、いつの間にか虐殺に変わってしまう過程は寒気さえ覚える。 客観性とは情報や知識と他者に対する配慮などで成り立つのだ。今思えば両親が口にした先祖や天狗は客観性を持たせる為の、何か行動する前に別の視線から物事を考える装置として機能していた節がある。ほんのちょっとでも先祖がどう思うか考える事。こんな事すると先祖や天狗が怒ると思うと、幾らサルに限りなく近い八王子の一少年でも悪い事をするにも躊躇いの一つも生まれるという物だ。そういえば、今アメリカで叫びまくっている人もサルに似ていないでもない。先祖から罰でも当たらないだろうか心配である。 そういった抑制装置が日本には無いのかもしれない。それが酷く危険な匂いを発しているに違いない。 |