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月並みな言い方だけど、剣術とは精神との戦いである、と爺は言った。 〜井上雅彦の傑作「バガボンド」を読んで〜 |
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もう十数年経つ。 ある町道場で、私は剣道を教わっていた。古い日本風の家屋と繋がった小さな道場だ。先生は、かなり年齢のいった人だった。 渡り廊下があり、そこから白い着物を着た先生がやってくる。当時で、齢七十はいっていたのかもしれない。風格が、年齢を覆い隠すような迫力があったのを覚えている。多くの生徒は、いわゆる紺を基調にした剣道着で、その先生は、胴着も、防具も全て白だった。老先生を捕まえて縁起でもないが、まるで死に装束のような、格好だった。その先生が入ってくると、道場の空気が張りつめる。そして、多くの生徒が先生の一挙一投足に目を奪われる。とにかく、厳しい先生で、木刀で足は叩くわ、竹刀で横面、突き(共に小学生の試合では禁止されている技だ)を、繰り出して、多くの小学生の涙を絞り取っていた。 一列に並ばされた生徒達は、身を固くして、目の前にいる白い老人の姿に怯えたものだ。はなから負けている。というか、勝つとか、そういう事よりも、何より、無事に帰れる事を本気で祈っていた。 言うことをきかない足を無理矢理出して、突っかかっていけば、軽く突き(しつこいようだが、小学生には本来禁止)で、本当に秒殺されたものだ。 その先生が言った「剣道とは、気合いと精神のみで勝てる。小手先の剣ではない」と。 その道場では実践より、型や、姿勢を鍛える事が主だった。だから、試合で負けると、何となく不満が出る。実践的な事が少ないのではないか。近所の他の道場は、まるでスポーツのように、跳ね回り、竹刀を振り回していた。うちの道場だけは、へその辺りに左手の拳を据えて、姿勢を正し、相手を見据えるのだ、などと言っていた。 漫画「バガボンド」を読んでいて、久々に剣道をやりたくなった。 井上雅彦は、前作の「スラムダンク」でもそうだが、非常に構図の取り方が絶妙な漫画家だと思う。なんてことのない、シーンが、その捉える構図で感動的になったりする。ストーリーは比較的単純なものが多いのだが、絵の捉え方が圧倒的に違う。剣道(剣術)の描写としては、他の追随を許さない迫力があり、決闘のシーンの中に差し込まれるモノローグの挿入も絶妙だ。 映画でも取らせれば(少なくとも絵コンテを描かせれば)、今の日本映画の中でも、極めてスタイリッシュな映画を撮れるのではないか?タランティーノに似た魅力を感じる。 しかし、この「バガボンド」が素晴らしいと思うのは、それより、棒剣活劇(敢えて当て字ってみました)の印象を受けるが、極めて精神的な描写が多いことだ。確かに多くの剣豪と、宮本武蔵は剣を交えているが、この作品が主に置いているのは、飽くまでも精神的葛藤であり、その部分の描写が、剣を交えているコマの「動」を印象的にする「静」であるのが素晴らしい。 作品の焦点は、天下無双という「強さ」を描きながら、強さは確実に剣術のそれではなく、精神的な強さにすり変わっている。月並みな物言いになるが、実力が拮抗する相手が試合をした時、結局勝つのは精神的な部分だったりするのは確かだ。空手や、柔道がどうかは知らないが、少なくとも剣道に関しては、そうだったりする。凛とした自信と、強さを兼ね備えたものが、一瞬を掴む。その一瞬を掴む精神的な強さを、「バガボンド」は剣術だけに囚われない、普遍的な強さとして描いているのが感動的だ。 第5巻で、高僧と闘う場面で、挿入するモノローグは、こんな調子だ。 「一度戦いが始まったら、絶対に肯定してはならない、受け入れてはならない感情がある。(中略)武蔵は、勝者の立場で何度も見てきた。恐怖という魔が漢(おとこ)を押し潰すのを」正に、精神論。それが、説教臭くなく、しかも、男女関係ない普遍的な説得力を持っているのが素晴らしい。 この後、それなりに多くの人が知っている厳流島の戦いまで、どのように宮本武蔵が精神的な成長を遂げるのかが楽しみである。 思い出してみて、残念なのは、小学生の頃、道場で教わった精神論は試合では役に立たないことだ。精神をコントロールする事はおろか、その境地まで達している小学生はいない。所詮、目立ちたがり屋や、はしゃぐ子供が勝つと決まっていたのだから。 剣の道が、精神に繋がるのは結局、精神的なものが大きく作用してくる大人になってからの話なのは確かだろう。無邪気な小学生には、正に馬の耳に念仏だったのかもしれない。今だからこそ、響く言葉の数々。あの道場の事を思い出してしまった。 それにしても、バガボンドって、どういう意味だろう? |