小説家ではなく、エッセイスト的な彼女

〜見事に騙された!よしもとばななの「王国 その1 アンドロメダハイツ」〜

何かを作り出す時に二つの方法があると思っている。一つはパッケージに執着する事。もう一つは描く物に執着する事。こう言われれば、何でも後者だろうと思うだろうが、結構パッケージで勝負する表現者は増えていて、これが人気を博すのである。

これは当たり前の話で、結局その作品に触れるにはパッケージで判断するしかないのだから有利なのは当たり前。描き出した物は観賞したり触れるまで分からないしね。共感出来るかとかハードルが多い。

例えばオリバー・ストーンである。彼は、明らかに前者だ。ベトナム戦争、JFK、ニクソンなど、明らかに時代性をかぎ取りながら、これなら話題になるだろうとというプロデューサー的な感性で映画を作っていた。マーケティングとは少し違うのだろうけれど、彼が作る作品には、何だか必然性よりも前に何かがある気がして嫌だった。

オリバーストーンが描き出す題材に意義を見出すなら、タランティーノや岩井俊二は映像にそれを求めているように思えた。大概行き詰まるのだ、こういうパターンは。

さて、そんなパッケージにはごまかされないぞ!と固く誓っていても、そういう罠にかかる事がある。というより、初めからちょっと不安だったんだけれどね。うまいね、よしもとばななって。最新作「王国 その1 アンドロメダハイツ」で、すっかり騙された。

先ず引っ掛かったのがコピーである。「最高のものを探し続けなさい。そして謙虚でいなさい。憎しみはあなたの細胞まで傷つけてしまうから。大きなものに包まれ、守られている女の子の物語」。前半のコピーにおや?と思った。ばなならしくないコピー。ちょっと大きなものに包まれ、というのは不安に感じたが、とりあえずピンときたから読んでみようと思った。今までも川上弘美の「センセイの鞄」、松浦理英子の「裏バージョン」、星野博美の「転がる香港に苔は生えない」と女性ものでは直感が当たるケースが多かっただけに少々期待もしたのだ。しかもアンドロメダハイツって、恐らく愛しのプレファブスプラウトのタイトルから取ったんだろう、なんて後押しがあったから。

して読んでみたら、ありゃりゃなのである。最近注目を集めるオーガニック系の匂いを感じつつ、出てきたファッションとしての自然志向。まあ共感する部分はあるんだけどね。山奥の生活とか木々の大切さ。そして、それに反する都会の生活。ん〜予想を裏切らない展開に前半からウンザリだ。ストレートにそういった生活が通るほど自然は甘くない。

何より驚くのは、その描き出す世界が少女マンガのフレイヴァーを強く感じさせる事だ。

まさか「ほら鉄の鎖の匂いじゃなくて、おばあちゃんを思うときの太陽の乾いた匂いでしょ!」とかいでもらうわけにもいかず、なかなか誤解は解けなかった。

おいおい、これが地の文って良いのか?それで。全然変わってないじゃん。しかも、「美しい」とか「涙が出るほど嬉しかった」とか、「ありのままの自分」のつもりかしらんが、はっきり言って冷める。描いている世界もサボテンが死んで「ごめんなさい」とか、主人公と準主人公の楓の関係をXファイルに例えるなど、口半開き状態で読むしかない。

読んでいて思うのは、ばななの作品は小説なんかじゃなくエッセイに近い。漠然と感じる思い(この先見性こそばななの命綱)を、ある漠然とした設定で書き尽くす。だから、読み手が溜息をつく程の表現など必要とせず、飽くまでも直接的な表現で十分なのである。

ただ、ぐっと来るんだろうなあ、文学の匂いとこの身近さが、と思うのだ。ゲイの美少年とか、ちょっと拙い超能力者、優しさや自然、人々との繋がりを断定しないで描き出した少女のおとぎ話に毛が生えたような物語。ああ、ばななは一生、こういった断定を避けて、ちょっと辛い現実を、さもこれこそが現実なんて思いながら生きていくのかもしれないなあと思うのである。

ばなな、コピーの通り「最高のものを探し続け」て欲しいよ。プレファブの「アンドロメダハイツ」は少なくとも、レコード会社との確執や、どうしようもない完璧主義に囚われたマクルーハンが、葛藤の末に手に入れた桃源郷なんだよ。安易に使って欲しくないなあ