「舞踏会へ向かう三人の農夫」への思い

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ニューヨークへ行った時、「20世紀」と銘打った写真集で、この小説の元となった写真を見た。もちろん、柴田元幸が翻訳を希望していたこともあって、写真自体は知っていたし、小さいサイズのモノは見ていたけれど、大きな写真を見た時、なるほど不思議な写真だと思った。

果たして、この3人は農夫なのか?舞踏会へ向かう筈なのに、なぜシビアな表情なのか?荒れ果てた平原の中の燕尾服も不自然だ。ましてや中央の男の顔がまるで死んでいるみたいだ、等など。見れば見るほど不思議な感じがしてくる。まるでエッシャーの絵を見ているような感覚。是非とも写真を試しに見て下さい。ちょっとした不思議な感覚に陥ります。

このRパワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」。僕の中では英米文学の翻訳本として、ピンチョンの「ヴァインランド」(佐藤良明さんの翻訳が光った)以来の、話題の本です。

で、単純なのですが、この本を読んだ時、ピンチョンとスティーヴエリクソンを思い浮かべたのです。何よりも、想像力と知識を錘に物語を天高く投げ上げる力技。(まるで、ハンマー投げの室伏のように)これだけでも圧倒させられます。センテンスの一つ一つに塗り込められた情報量の圧倒的な多さ。表現の余りの深さに緊張感を保っていないと、すぐに物語からはじき飛ばされてしまう一種の不親切さ。初めの3ページを読んだ時点で、僕は襟を正す羽目になりました。

しかしながら、こういう本を前にすると、ピンチョン同様、作者の知識の豊富さに畏敬の念さえ感じます。事実、ピンチョンなどは、作者の正体が分かっていない事もあって、複数説(何人かの専門家が書いている)が、まことしやかに囁かれる程です。つまりは物理学や経済、科学や軍事関係など、複数の専門家が各々専門分野を書き入れてるんじゃないか?って事ですね。確かに、あの知識は半端じゃない。

スティーヴエリクソンも同様の情報量で圧倒します。傑作「黒い時計の旅」ではヒットラー、「Xのアーチ」では、トマスジェファーソン各々の愛人関係を時間軸を交錯させて描いた、小説ならではの物語に圧倒させられるのです。

これらの作家が持つ、恐らくあり得ない物語を、不思議なリンクでつないでいく小説はSFと括られがちですが、さにあらず。歴史、人間、時間、宿命、様々な要素が競うように、作家の想像力でミックスされて、独特の香りが臭い立ちます。それは現実ではあり得ないだけであって、純粋な人間ドラマ、もしくは歴史絵巻の風格です。

とある人から、様々な話を聞くと、事実を書くときには入念な取材と証拠、実証がなければ断定では書いてはいけない。もちろんです。特にジャーナリズムにおいて、それは責任でもあると思います。しかし、もっと大きな話となったらどうだろう?と思うのです。事実だけで括る事で、そこからこぼれ落ちる「何か」があるような気がするのです。

例えば、何かもめ事が起こった時に、最終的に手を出した者が非難される時。「やっぱり暴力はいけないから」と言い切られた時の、釈然としない思い。そこには、それまでの仮定がある。そこに行き着くまでの過程を、巧く口に出来ない釈然としない思い。その思いを形に出来るのは「小説」だけなのかもしれない。

そう言った事を「舞踏会へ向かう〜」で、思ったのですが、この小説は20世紀自体を総括しようという、全くもって途方もない試みをした小説と言って良いでしょう。で、歴史的事実を集めている内に、ちょっとした仮説が頭に浮かびます。20世紀とは、こういう時代だったのではないか?

で、それを実証するには、膨大な情報と、実証例が必要になります。しかし、20世紀を、こういう時代だ、と言い切るには、余りにも20世紀は大きすぎる。ましてや、そこに横たわる様々な事件や、発明、戦争、革命。それらを全て網羅した作品など作りようがない。

そこで、作者の想像力がモノを言うのです。フィクションと言うカテゴリーを借りて、20世紀を解釈してしまう。作者が持つ、ありったけの知識と、想像力の中で踊る架空の人物達の振る舞いを借りて。パワーズが、この作品を書くにあたって考えたのは、こういう事じゃないか?って気がしたのです。あくまでもパワーズが感じた20世紀。しかし、その解釈は20世紀と確実に交わっている。

80年代に、立花隆や猪瀬直樹(「ミカドの肖像」)らが出てくることで、ノンフィクションが力を持ちました。徹底的な取材と圧倒的な情報量。そこには、正に事実は小説より奇なり、を地で行くような凄さがありました。とある評論家は、明らかに純文学(というのがあればの話になりますが)は、彼らの前に屈せざる得なかった、と言うほどです。

確かに、人間を描くとき、事実という冠は、圧倒的な存在感を持つと思います。で、小説が、それに抗すには、感情移入や想像力を駆使した、思い入れ一歩手前の解釈が有効な手段の一つではないか、と思うのです。小説が持つ力を巧く利用した作品。しかも強力な。

で、それを実践しているのが、この小説ではないか、と。

20世紀が、その歴史の中に内包した人類が残した「思い」。もしくは、多くの個人が感じた筈の、もっと抽象的ではあるがハッキリとした形を持っていた筈の、証明不可能の「思い」を何とか言葉にしようとしたのが、この小説かもしれない。

決して万人に、お勧め出来る小説ではありません。思想書一歩手前。ギリギリの所で成り立っているような小説です。しかし、21世紀を前にして、この小説で20世紀がどんな時代だったか?と考えてみるのも、なかなか格好良いかも・・・。

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