太宰君とスズキ君

大人計画の芝居は、凄くロマンティックだ。

僕が、何回も一緒に行った人に、悲痛な程何遍も語った台詞です。確かに、ギョッとするシーンが幾つもあります。劇場で全裸の女性を見る衝撃は、テレビの比ではないし、肝心の作者・松尾スズキが、浮かない顔で(嬉しそうでも、哀しそうでもない。ホントに渋々というか、感情がない)痙攣しながら出てきたりすると、祈るのです。隣に座る、初めて大人計画を観た人に。

こういうことに惑わされちゃ駄目だ!これはギャグだ。いわば刺身のつまだ。だから、もっと作品の根底に流れるものを見てみて。ギャグも面白いけど、でも、ちょっと視点を変えてみてみて欲しいのよ、僕は。

こんな事を思うのです。(松尾スズキの痙攣に爆笑しながらも)

もちろん、正しいのは笑い、驚き、首を傾げることだと思います。テレビでは見ることの出来ないスリリングなギャグとストーリー。

目の前で繰り広げられる事は、安全ネットの上のスリルのみ、と思っているテレビに慣れきった人の膝をカックンするような、そんな芝居を固唾を呑んで観るのは、大人計画の、ある意味醍醐味と言って良いでしょう。今や、メジャー路線まっしぐらの宮藤官九朗、幼顔が、一層不気味さを漂わせる阿部サダヲ、馬鹿な女子高生をやると天下一品、池津祥子等々。それこそ放送コード一歩手前と言って良いメンツが見れるだけでも劇場に足を運ぶ価値があるかもしれない。

ただ、松尾スズキの書く戯曲の世界は、酷くロマンチックだと思うのです。これは、なかなか説明が出来ない。ホント、歯がゆいくらい説明が難しい。

例えば、ラストに恐ろしい程感動した「カウントダウン」という芝居は、こんなストーリーです。

1人の少女を励ます船上パーティの途中、船が漂流してしまい、とある島にたどり着く。その島は、実は日本帝国軍の軍事上の秘密が隠された島だった。その影響で、尻尾が生えた赤ちゃんが生まれるようになっていた。辿り着いた人々は、脱出を図るが、隠そうとする軍からの攻撃も受けて、徐々に醜い人間関係が浮き上がり・・・という話。

そんなヘヴィな展開の中、ヘリで高校生が銃殺されるシーンは、映画「男と女」のテーマ曲が流れながら「ダバダバダ、ダバダバダ」と撃たれるシーンは爆笑だった。(僕が観た、最も爆笑出来る、恐ろしい惨殺シーン)しかし、このラストは、本当に感動したのだ。ホントに、信じてよ。逃げまどう人間達は、己の命惜しさに醜い争いを初め、人々の醜い関係が露呈し、正にドロドロ状態になる。

その中で、尻尾の生えた赤ちゃんは、自力で生まれてくる。醜い姿をしながらも、軽やかにピンスポットを浴びて生まれてくる。その美しさは、劇場でしか恐らく感じられないだろう。

そして、船上パーティで艶やかに、装い、ロジックで飾りたてられた人々との対比は、正に感動的だった。どちらが綺麗なんだ、どちらが醜いのか?そんな問いさえ浮かぶラストだった。

で、この「カウントダウン」は、僕の心にずっと、引っかかっていた。その後に観た、「キレイ」も「母を逃がす」も「マシーン日記」も、どうも「カウントダウン」の延長線上にある気がしていたし、漠然と太宰治の影響を感じていた。特に、松尾スズキのエッセイは、濃厚に太宰臭がしていたのだ。

で、偶然、とある方のお勧めで、あるHPを見ていて、こんな太宰の文章の引用があって驚いた。正に「カウントダウン」の一節じゃないか!と

(引用)人間のみじめさ、自分の醜さに絶望せず、「凡(すべ)て汝の手に堪うる事は力をつくしてこれを為せ」務めなければならぬ。十字架から逃れようとしているのではない。自分の醜いしっぽをごまかさず、これを引きずって、歩一歩よろめきながら坂路をのぼるのだ。この坂路の果にあるものは十字架か、天国か、それは知らない。必ず十字架と決めてしまうのは、神を知らぬ人の言葉だ。ただ「御意(みこころ)のままになし給え。」(引用)

                  〜太宰治の「正義と微笑」からの引用〜

ああ、太宰治の作品の、この一節が、あの「カウントダウン」の底流にあったのだ、と思いましたよ。そして、僕は、こんな考えに熱烈に感動します。汚さも、醜さも全部ひっくるめて自分だということ。それを自覚することで、新たなる始まりがあるということ。綺麗事で全てを解決しようとする美しさ(醜さ)と、汚れても潔く、それを受け入れる汚さ(綺麗さ)の、その数百億光年の違いを「カウントダウン」や、一連の松尾ワールドは、過激なギャグを交えて見せてくれていたのです。ああ、あの作品を観て、早、数年。作品の底流に、やっと辿り着いたような感動。松尾スズキを観ていて良かった、そんな事を思った、温かい冬の日でした。

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