にしてもブッシュ達は、やっぱり悪いのねん、のねん。

「ドリームキャッチャー」に見る、アメリカ人の迷走と悩み

以前、ハリウッド映画の宇宙人襲来ものは、その時々のアメリカの外敵を反映している事が多いという話をした事がある。常に、市場を意識したハリウッドならではの現象とも言えるが、映画「ドリームキャッチャー」の原作者でもあるS・キングは、エッセイ「死の舞踏」で、そういった話をしている。(僕は、その話を踏まえて、そんな話をしました)

だからこそ、僕はファンとしても、キングは9・11を一体どう見たのだろう、というのは、何処かでずっと考えていたのだ。

映画「ドリームキャッチャー」は、宇宙人襲来の話である。キングがいつこの話を書いたかが気になる所だが、少なくともアメリカの現在の外敵を意識しつつ、この作品を書いたのはほぼ間違いなく、それこそがこの作品の興味の焦点だった。

ちなみに本編自体は、さして良い映画とは言えませんので悪しからず。

ただ、二つの点で発見があり、僕には結構収穫があった。

@キングの映画は、恐らく映画化しても殆ど成功する事はない

Aキングも、アメリカ同様悩んでいる

この2点である。

@は、今更言うまでもないが、キングの小説は数多く映画化されているにもかかわらず、成功作と言われたものは殆どないと言われている。強いて上げれば、キューブリックの「シャイニング」、デ・パルマの「キャリー」、クローネンバーグの「デッドゾーン」くらいのものである。

何故、映画化が悉く失敗するかと言えば、当然ではあるが、キングが優れた小説家である事にあると今回の映画で確信した。優れた小説家というのは、小説ならではの表現を得意とするものである。キングは、やはり小説家なのだなあ、と見ていてしみじみ思った。主人公とも言える男が異星人に乗り移られるが、意識の何処かで正常を保っている。頭の中で記憶を手繰りよせつつ、抵抗を試みるのだ。未だ原作を読んでいないのだが、この手法は小説ならではなのだろうなあ、と思う。映像化すると実に陳腐なので、見ている間ずっと「小説読もう」と思ってしまった。キングが生粋の小説家である事が、図らずとも、この映画で実感させられた形だ。

ちなみに、「シャイニング」はキング自身は失敗作と断言しているが、要は映画自体が生粋の映画人であるキューブリックと生粋の小説家であるキングの火花散る衝突であって、極めて高度な方法論のぶつかり合いが、あの映画を光らせていると考えるのが妥当な線かもしれない。小説界の巨匠キングを激しく嫉妬させ、感情的にさせたのだからキューブリックも凄いと思うと、またあの映画を観たくなる。

そんなキングが、どいつもこいつも俺の原作を活かし切れてないと、憤慨して自ら作ったのが「地獄のデビルトラック」というトラックが意志を持って襲って来るという、ちょっと聞かなかった事にしておきたい映画だというのも、彼が骨の髄まで小説家であると考えれば、何となく愛おしくなる。

とどのつまり、キングの作品の映画化は、今後も失敗作の山となるのであろう。

さて、本題は、キングが外敵をどう考えたか?と言う事である。

むしろ、ここにこそ、この映画が必ずしも成功しなかった最大の要因があるのではないか、と僕は思っている。

結論から言えば、彼は悩んでいる。確かにテロはアメリカ人にとって、脅威以外の何物でもないのだろう。無差別にアメリカ人を殺そうとしているのだから当然で、明日は我が身と考える方が普通である。

キングは異星人を中途半端にしか描いていない。正義の異星人と悪の異星人。この二つが登場し、その間で地球人(アメリカ人)は右往左往するだけなのである。完璧に悪を演じるのは、25年もの間異星人と闘い続け、少々頭がおかしくなっているM・フリーマン演じる軍人のみなのである。この軍人は、とにかく異星人を叩く事しか念頭になく、同情や共感は禁物であると信じ込んでいて、先制攻撃こそが肝心と言い切る。

異星人が、本当に悪なのかどうかは、この映画では描かれない。キング自身、作り手の良心として、外敵が本当に悪なのか?正義なのか?未だに判断が付きかねているという事なのかもしれない。

エンターテイメントとして見れば、善悪が付きかねるという事は、どちらに感情移入すれば良いか、観ている方は戸惑う結果になってしまっているのだ。物語の王道である勧善懲悪から大きく外れてしまっているのだから。

様々な歴史、様々な因果関係を捉えれば、判断が付きかねるというのは当然にも思える。私達日本人が、思う以上に9・11が与えた衝撃は大きいのだろう。

アメリカ人は直接狙われ、人数に関わらず虐殺された事実。(ちなみに9・11での被害者の数は、今までアメリカの横暴な政策で被害にあった人数から考えれば、微々たる物なのである。ここらはN・チョムスキーらの著作を参照されたし)その事実は、どんな物よりも大きいにちがいない。キングは、今のアメリカに異を唱える人々、その異を暴力という手段で訴えて来る人々に対して、胸を張って正しいとも間違っているとも言えない泥沼にはまり込んでいて、それこそが今の“誠実な”アメリカ人の心情を如実に表しているように見える。

異星人にも善と悪があるように、アメリカ人にも善と悪があるのだという、極めて当然の結論に行き着いたのではないか?

キングが、主人公が宇宙人に身体を乗っ取られてはいるが意識だけは残っており、記憶の倉庫(要は、主人公の生きて来た知識や経験がストックされた脳みそと言うとイメージが湧くだろうか?)を行ったり来たりしながら、どうにかして解決方法を探るという極めて小説らしい設定こそが、唯一取るべき道と考えるのは実に優等生らしい結論だ。

歴史や経験、知識を総動員する事で、何とか解決法法を見つけんとする事。勇気と素早い決断力をもって、例え見つけ出した方法が痛みを伴うものであるとしても、それを成し遂げる事に、最後の希望を見い出そうとするのは、キングが珍しくホラー作家としてではなく、一知識人として出した主張なのかもしれない。

主人公の少年時代のエピソードで、「何でお前らは体を張って、そんな事をするんだ?」と聞かれ、「どう見ても間違っているからだ。僕達は正義を貫く」と胸を張るシーン。ここにキングのアメリカ人としての気概を感じないだろうか?

そんな一面が、僕のアメリカを嫌いつつも興味を持つ大きな理由なのである。

にしても、結局、ブッシュやラムズフェルドなどは、やっぱり間違っているのだよと言う事と、成功作とは言えないまでも小説を読もうと思いながら映画館を出たのであった。