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食と宗教 〜日々の生活から教わった食と人のあり方〜 |
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禅の修行などで、食事が質素であるのは多くの知る所だが、それ以外に不思議な事がある。ごはんを匙で一すくい食べる前に取って、それを最後に庭にまくのだそうだ。それを鳥などがついばむのである。 不思議な風習だなあと思ったのだが、これには訳がある。仏教では人が生きるというのは、他の物を犠牲にして生きている事と同義なのだそうだ。人は世界に迷惑をかけながら生きていて、御飯を匙に一杯庭にまくのは感謝と謝罪の意味があるという。 一人暮らしをして数年になるが、この考え方は非常に共感する。魚や野菜、肉等を買うといつも思う事がある。魚のはらわたを出したり、骨を取り除いたり、卵を割ったり。そういう作業から「これが人間だったら、どんなにおぞましいだろう」と思う。 ましてや、日々調理していると、特に暑い季節は生ゴミの匂いがきつくなる。生ゴミ自体に虫がたかったりする事も少なくない。 これを不潔だと思う事はないと最近思う。仮に「俺は外食だから」とか「うちは妻がきちんとしてるから」と言う人が居たら、それはただ単に汚い状況を他に回しているだけで、目を逸らしているに過ぎない。結局生きている以上、臭いゴミを出し、生きとし生ける物を殺し、そういった犠牲の下に生きている事には変わりはない。それを目にするかしないかの違いだけである。 別に、お前ら皆虐殺者だ!等と攻撃する気も別になく、全ての人がそうである事を認識する方が良いのだろうなあ、と思うのだ。逆に言えば、ベジタリアンの人の中に「知能のある物を殺すのは酷い」とかという物言いも、結局、そういう部分を意識していないからこそ言える物言いに違いない気がする。 これは人の死と一緒である。都市から死は見えない所に隔離されているという。だから人々は死を実感する事が出来ない。若年層になればなる程、死に対して希薄なのだそうだ。 夏、会社から帰って来ると生ゴミが溜まった三角コーナーから異臭が漂ったり、置きっぱなしだった鍋のスープの上に膜が出来ていたりする。その度に、最近は申し訳ない気持ちになる。鳥肉さんも玉葱さんもハマグリさんも無駄死にさせてしまったなあと。もし自分が食料にされたら最後まで無駄なく食べてもらいたいなあと思うのである。目の玉の奥まで、骨にこびり付いた肉片まで、綺麗に食べ尽くして貰いたい。仮に、鳥葬されて鳥にもハイエナにもハゲタカにも食べて貰えず腐っていたら寂しいなあ、と思うのである。 きちっと食材の出元を確認し、生き物を調理して食べている事。それは生き物の宿命であり、犠牲になった生き物への感謝やほんの少しの懺悔の気持ちを持って接していけば良いと思う。そういう業を人間も他の動物も背負い込んでいる。綺麗事ではないのだ。 魚屋へ行って鮎やイカを買う。ままの姿をまな板に乗せて、それをさばく。イカは足を根本から引き、はらわたまで綺麗に抜き取る。はらわたとゲソは和えて塩辛に。本体の真ん中に包丁を入れ、熱湯に潜らせてから冷たい水に当てれば皮は綺麗に取れる。それを細く切り、塩辛に少し、イカ素麺にしたりバターで炙っても良い。鮎は姿のまま塩をまぶして黄金色になるまで焼く。 最高のごちそうだ。ごはんと一緒に口に運びながら、その幸福を噛みしめる。最後にちょっとイカ君や鮎君に感謝の気持ちも忘れずに。米粒の一つ一つにも同様に。それが大事な気が、最近とてもするのだ。 |