アメリカの無政府主義哲学者ハキムベイは、臨時自治区と言う概念を打ち出している。監視が厳しくなっている自由市場経済への対抗の手段は。官憲の魔の手から離れ、混沌としたいきいきとした生活を享受できる文化的、社会的生活の場「臨時自治区」を作ることだ、と唱えた。臨時自治区とは、ある領域を開放し、国家が、それを踏みつぶす前に自ら解体し、他の場所、他の時間へ向かうゲリラ作戦であるという。官憲とか国家とか、ちょっと大袈裟じゃないか、とも思えるが、根本的な思想は実に共感できるものだと思う。
これを読んで、思い浮かぶのがクラブカルチャーや、インターネットである。この2つは、いまや容易に参加することが出来、かなりの支持を得ている。
これらが引き起こすものは何であろう?一種の民主主義が、緩やかな監視状態、もしくは自意識が引き起こす自縛状態を作り出しているとすれば、ここで求められているのは、やはり匿名的な場、一切の社会的責任や、立場から逃亡可能な空間での圧倒的な自己開放感なのではないだろうか。
共同体というものが美しいはじまりであるのと同時に、必ず終焉があることを自覚してしまった時代で、緩やかな共同体、一つの目的(音楽的嗜好や趣味)のために自然発生的に作られる一時的な共同の場は、もっとも魅力的な集団を作りうる。つまり、全ての結果を見通せてしまう、あらかじめ失うことを知ってしまった世代に信じる力を持たせてくれるものなのでないだろうか。
僕らは、全共闘も、反政府組織も、ヒッピーも、家庭も、全てが崩壊していく過程を見すぎた。僕らは集団が固まっていくと同時に、腐食していくことを知っているのだ。それは、よくある色恋沙汰から、権力闘争まで、僕達が、ついつい見てしまう事なのだ。
最近ロックから離れることが多くなった。まあ、ロックというものが、どういうものかと聞かれれば返答に困ってしまうのだけれど、とにかく、レコード屋でロックというコーナーに入れられるような音楽からは離れてしまっている。
以前、清志朗が熱望して、共演をはたしたジャズバンド、デガショーのアルバム「ホスピタル」(痛快極まりないジャズロック)のライナーにタモリが「芸能というものは怪しさを含んでいるものだと思っている」と言っているが、僕も賛成である。日常生活を根本から揺さぶる怪しさを持ったものこそ、従来のロックも含んだ芸能なのではないだろうか。そして、僕は怪しさを含んだ芸能というものに惹かれる。そして、僕がロックに夢中だった時はロックが十分怪しさを放っていたのだ。
最近、ロックのライブに初めて行った時のような怪しさに出会えるのは、ジャズ系のライブハウスだ。今や、ロック系のライブハウスが一般的な明るい遊び場として認知されている中で、そこには独特な怪しさが、未だある。集う人間も何だか怪しい人が多いし、スーツ姿の人もいるけれど、その人さえ怪しく見えてくる。場の持つ力、と言うのだろうか。そこには怪しげな何かが漂っている。
そんなジャズバンドでも、僕が特に気に入っているのが渋さ知らズである。鬼才不破大輔率いるバンドで、メンバーは不特定多数。都内で月一ペースでライブを行っている。往年のじゃがたらを彷彿させる無国籍ファンクジャズバンド。総勢40人もいようかというメンバー。既におでこが広がりつつあるようなおじさんから、パンク風の若者まで多種多様な人間がいる。そして、それに呼応するように音楽は、全く分類不可能の音楽を奏でている。
それは強いて言えば、人を狂わす音楽だ。千葉のライブハウスで演った時は、偶然立ち寄った音楽とは無縁と思えるような初老の人が狂ったように踊っていた。そういう力を渋さ知らズは持っている。
渋さ知らズには、幾つかのライブ形態がある。少人数で行われる「渋さちびず」10人前後で行われる「渋さ知らズ」そして、2,30人で挑みかかってくるような「渋さ知らズオーケストラ」。
その中でも、空前絶後と言ってもいい渋さ知らズオーケストラを初めて見たときの感動を忘れることが出来ない。狭いステージにバラバラと座り始めるメンバー。各々、楽器を手に取り、音を出す。チェックをすました人、集中力を高めるように空を見つめる人。一人二人と、小刻みに音を出し始める。その音が幾つも重なり始めて、音がうねり出す。指揮者であるリーダーの不破大輔が正面に立って、手を振り上げた瞬間、ザラザラとした巨大な音の波が一気にステージから吹き出る。まるでスライか、Pファンクか、ザッパか、と言うようなフリーキーな曲が始まった途端、涙が出てきた。
それは感動の涙と言うには陳腐すぎる。何か得体の知れないものを目前にした人間の無意識な反応。センスオブワンダーとでも言うのか。既成の価値観が、もろくも崩れさる快感。音楽によって本能の何かがむき出しにされたような感じだった。
それは渋さ知らズという理想的な音楽集団に出会った感動だったのかもしれない。
渋さ知らズの曲には幾つかのフレーズがある。しかし、それ以外は演奏者は自由である。ソロでは、それぞれが自己主張をする。清志朗がリスペクトするサックスの片山広明、小沢健二が師と仰ぐ渋谷毅、テクニシャン北陽一朗、など実力者は、己の持っているものをさらけ出すようにソロを瞬間的に作り上げていく。
その瞬間、瞬間の積み重ねが、旋律を作り出す。他のメンバーは、ソロに耳を傾け、指揮者の支持を待つ。そして、渋さ知らズ唯一のルールである旋律とリズムに体を預けている。彼らは、その旋律に参加する喜びのために集まっているようだ。そんなに大きくないライブハウスで100人程度の客を入れて、2,30人で演奏すれば、一人の取り分なんてたかが知れている。それでも、彼らは嬉々として演奏する。それは不破大輔が作り上げる曲と旋律の素晴らしさに身を委ねる快感を客以上に体感しているからに違いない。僕は、ステージのメンバーに嫉妬さえ感じる。ライブに行けば行くほど、強い嫉妬を感じる。渋さ知らズのライブは、メンバーが渋さ知らズと言う旋律を感じるために用意された密かな集まりのようだ。何処からともなく、メンバーは集まる。時々、予定していたメンバーが来ていないような時もある。でも、その時は曲を変えたりする。そして、その演奏が凄かったりする。そう、渋さ知らズは圧倒的に自由なバンドなのだ。
約2時間30分。集中力の続く限り演奏をする。そして、何もなかったかのように消えてしまう。まるで、ハキムベイが唱えた「自由自治区」のようなバンド。それが渋さ知らズだ。
次にライブに来たときは、また変わっている。二度と出会うことの出来ない旋律を。毎回作り上げては消えていく。渋さ知らズのライブは、僕達観客よりも、メンバーのために用意された空間のように思える。彼らは、お互いが共有する気持ちの良い旋律の中に入り込むために一時的に集まる。そして、彼らは、その旋律を感じとったら何処へともなく行方知らずになっていく。そして、次に、その旋律が奏でられる場所が決まれば、またそこにやってくる。そして、それは僕ら観客も同様である。
僕達観客は、そんな祝祭の場に立ち合える幸運を感謝する。
圧倒的に幸福な集団である渋さ知らズのライブを見ることは、ひとえに幸福な集団の幸福な瞬間を共有させてもらう自由自治区に参加する事である。