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脳も体も使わんと、だちかんぞー 〜野田秀樹 作・演出「半神」〜 |
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かなり前の事になるが、演出家の鴻上尚史がこんな事を言っていた。「頭ばかり使っていると精神衛生上良くない。体ばかり使っていると馬鹿になる」。 単純な事だが、結構衝撃的な言葉だった。 当時、高校生だった僕は、帰宅部であり、かといって勉強を頑張っているかというと、お世辞にも勉強をしているとも言えず、頭も体も酷使している訳でもなかったので、苦笑いするしかなかったのだけれど。 実際、後で知った事だが、結局運動するというのも脳から指令を体に送っている訳で、運動も脳のトレーニングでもある、というのは今や定説である。脳に障害のある者へのリハビリで、人間の進化の過程を辿らせる方法があり、ワニのようにほふく前進させたりするのだそうだが、体を動かす事で脳を活性化させるというのだから、この説もそうそう外れてはいない筈だ。 という事は脳を動かしていないと体も不自由になるという事で、先程の言葉は、それなりに的を射ているのだろう。 という事は、体をひたすら酷使する運動馬鹿も脳を勢い使っているとも思えなくもないが、単純な反復運動、レスラーがやるようなスクワット500回なんて言うのは、単純な運動の連続で結構催眠作用にも似た所があり、多くのレスラーの言動を見ると、ちょっと違うのかもしれない。やはり脳は難しいのである。 最近、めまいに襲われて病院に行く羽目になったのだが、三半規管と小脳を結ぶ血管の流れが悪くなっているのが原因と言われてしまった。目が霞んだり、目眩がしたので行ったのだが、眼科だと思ったらすっとこどっこいで、脳への働きが鈍ったのが原因と知って、自分の事ながら感心してしまった。見たり、聞いたりするのも、そういう所へ結びつく。脳恐るべしである。 スポーツ選手の不祥事も、ガリ勉君の自殺や精神以上の類も、このバランスというのが極端に崩れたという事で、根っこは同じにちがいない。気を付けよう。 どちらかと言えば、運動には余り力を入れてこなかった僕が肉体に興味を持ったのは、やはり演劇というものが大きかったと思う。 舞台上で汗を掻き、酸欠寸前まで台詞を吐き、飛び回る役者達の姿は衝撃的だった。 ある種の極限まで行くと人間というのは、剥き出しになり、ある種の素っ裸状態になるのだと思う。役者も、台詞を記憶するというより体で覚えるなんて言うから、記憶力とは違う所にあるのか?演出家の多くが役者の殆どは馬鹿だ、というのもレスラーと同じ反復に起因するのかもしれない。脳の凄さもさる事ながら、反復も恐ろしい。 しかしながら、その極限状態で、魅せる事が出来る役者を演劇では名優と言う。 名優というのは、素晴らしい戯曲、演出、名台詞を飛び越えて、存在感を示す。そういう論理を軽く越えて魅せてくれる。 今まで、それを強く感じた役者は、筧利夫、古田新太、富田靖子、勝村政信、上杉祥三、渡辺いっけいなどがいる。 そして、脚本家の癖に存在感を魅せる特殊な存在に野田秀樹がいる。 この人は特殊だ。自分で脚本を書き、そして役者として脚本を凌駕していく。いわば、自分で作り出した理論を、自分で越えて行くのだ。 初めて舞台で、この人を見た時、こういうのを天才と言うんだな、と感心した覚えがある。 下北沢の本多劇場。脚本は、漫画家の萩尾望都との合作「半神」。今までに都合4回は上演している名作だが、上杉祥三が家庭教師役だった時の野田との掛け合いは衝撃的だった。 初演は、記憶によれば石舞台三部作一挙上演で話題をさらった代々木第一体育館での公演、初めての外部公演となった大地真央主演「野田秀樹の十ニ夜」を立続けに行った昭和61年の年末の筈だから、ある意味野田秀樹がノリにのっている時の作品である。私が観たのは、一回目の再演。キャスト自体には大きな変更が無かったのを記憶している。 どちらかと言うと、作品の論理から逸脱して体力と美声で観客を引き込む上杉と、物語を辛うじてつなぎ止め、その卑怯なしわがれ声と強烈な跳躍力で観客を魅了した野田の絡みは鬼気迫るものがあった。 人間が生まれるまでの10ヶ月の期間を、彼流の針小棒大なエピソードの数々で彩り、人間の誕生の意味とは何か?を描いた作品は、野田の遊眠社後期の代表作の一つにちがいない。 夢の遊眠社が凄かった頃、この上杉祥三、野田秀樹、段田安則の三名+竹下明子、円城寺あや辺りの絡みは、何を喋っていようが感動的だった。脈略ない事言ってても感動出来たんじゃないか、と思う位だ。とにかく台詞のリズムを大事にしていた野田秀樹の脚本は、耳心地の良さと, 一緒に台詞を唱えたくなる快感があった。 「さあ、離せ、まさかの友」「あまりにも長い時間。この右手、グーからパー。離し方を忘れてしまった」「ロウソク一本真っ黒の黒、酸素の足りないダスターシュート。肩甲骨から血の出た思案のしどころろくろの中」なんて台詞。とにかく口にしたくなって口にしている内に覚えてしまった。そういったリズムと語呂を合わせる事にかけて、野田秀樹は天才的な才能を持っていたと言える。 「半神」は、都合3度。NODAMAPを含めて観てるが、結局、この上杉、野田の絡みを越える出来の物には出会えていない。演劇が聴覚と役者を楽しむものとするならば、この二人は、正に最強だったのではないか?と今では思える位だ。 野田の奇怪な動きと、上杉の無意味な程に動く体。ラスト近くでの上杉の長台詞。視覚、聴覚を刺激されるという意味では、物凄い体験だったと言って良い。 人間の誕生をこれだけドラマチックに魅せた芝居としてだけでなく、発語欲求に駆られ、役者が正に輝いて見えたという意味でも、上杉、野田の二人と竹下明子、円城寺あやで上演された「半神」は正に神がかっていた。 一瞬の奇跡。再現不可能な舞台だからこその永遠の記憶。 大仰な言い方になるが、そんな奇跡が「半神」にはあった。観た後の脱力具合と押し寄せた感動。体も動かさなきゃと本気で思ったのも、そういった野田流のメソッドを観たからだった。 未だ思い出せば、正に「小劇場演劇」の一つの頂点を観た、という気がしてならない。 |