家族の風景

〜言葉に出来ない何かを、言葉にしようとする試み、もしくは、習作〜

別に笑わす気もないし、まあ全ての男がマザコンだと言うなれば、それを否定する気はない。ただ、この前、会社で携帯を見たら留守電が入っていて、母から「今日、映画『さびしんぼう』が放送されます。見て下さい」と入っていた時、そんな母親を愛おしく、偉大だと思った。

「さびしんぼう」は、僕が中学の時に観て、えらい感動した映画だったのだ。

「別にあんたが放送する訳じゃないだろ!」と突っ込みの一つも入れたくもなるが、そんなしょーもない事を電話してくる母は、やっぱり僕にとってはグレートマザーなのだ。

ちなみに「お前がROVO買って焼いてくれると思っているから、俺買ってないよ」と平気のヘの字で言う兄も、「キャンプに連れてけ」と偉そうに頼む父も僕には大事な家族だ。

皆、なんだかちょっとすっとぼけている所もあるけれど、なんだか和むじゃないか。

年食ったと言われても全然大丈夫で、むしろ、年齢分の感受性を手に入れたと、少々嬉しく思いつつ、今更「スタンド・バイ・ミー」って、とっても切実な言葉だなあ、と思う。

誰かの側にいるだけで役に立てるなら、いつでも行きまっせ、大事な人達よ。って素直に思える位にはなったのかな。

優しい言葉も慰めも、いつの間にやら信じられない「すれっからし」になってしまった気もするけれど、本当に大事な事って、もっと違う何かなのだ。言葉とか行動の隙間から匂い立つ、ごまかしようのない物にちがいない。それから目を逸らさぬようにしようなどと思うのだ。

母の言葉は、いつも笑いを誘うし、馬鹿馬鹿しいと思う。で、その隙間から匂い立つ、装おう事の出来ない「無償の愛」的な物を感じて、ちょっと胸がつっかえる。

だからと言って、実家に戻ろうとか、母の近くにいつも居てやろう、と思わないのには、それなりの訳があるんだけどね。でも、本当の本当に側に居てあげなきゃいけない時と思ったら、別なんだろう。

そんな小っ恥ずかしい事に思いを馳せるのも、永積タカシのソロユニット、ハナレグミの歌にやられたからだ。

聴いた多くの人がそうであるように、スーパー・バタードッグの「サヨナラCOLOUR」を聞いた時の感動は、ずっと尾を引いた。真実の言葉とか、そんな事を言うつもりはないけれど、やるせない気持ちを、ここまで的確にしれっと歌ったこの歌は一生何処かで口ずさむにちがいない大名曲だと思う。

インタビューで、永積タカシが「あの作品があって、ハナレグミを作ろうと思った」と言う言葉は、ハナレグミを早く聴きたいという気持ちを沸き上がらせた。

新宿ロフトで彼のライブを見た時、ライブハウスというより、何処かの応接間で歌を聞かせてもらった時のような、不思議な興奮があった。目の前3メートルくらいの所に彼が居て、その歌声が直に耳に入って来た。

初期の竹中直人のような、素直に言葉を発してみたら、余りにも照れくさくて一人で失笑してごまかすようなMCも、らしかった。

本当の事は余りにもシンプルで、素直に聴くには恥ずかしくてどうにもいただけない、って事が分かってる人なのだ。永積タカシは。

歌にする事で、何とか伝える事が出来る感じで、その実直さが歌が終わっても消えてくれない。クラムボンのミトが「余りにもライブが良かったから、そこで立ってろ」なんて台詞は、決してお世辞でも内輪受けでもなく、本気で言っていたと思う。

帰り道、僕は久々に素敵な歌に会えた興奮で、ちょっとどうかなってしまいそうだった。

歌い手としての永積タカシが素晴らしい事は言うまでもないが、それよりも歌詞の隙間から沸き上がる感情や情景の数々の素晴らしさを、もっと多くの人が分かったら、もっと素敵な世の中になるのになあと、本気で思うのだ。

酷く平凡な癖に、憧れてしまう何かが、彼の歌にはある。先日、テレビで永積タカシのインタビュー番組があった。自宅や国立の喫茶店、そして母校である高校。なんだか、余りにも想像通り過ぎて笑ってしまう位、彼のキャラが滲み出る番組だった。

人の気持ちの分かる子でした」永積タカシの母の言葉にぐっと来た。

それを照れ笑いする永積タカシの横顔も、とても素敵だった。

階下で家族がマージャンをしてる音がして、それを何とはなしに聞きながら床につく時の幸福感が凄く大きいという言葉も、なんだか「らしかった」。

ニュースを見れば憂鬱になる。社会情勢も、大きく見れば地球という星から見ても、なんだかぎくしゃくした時代だ。

だからと言って、知らない振りを決め込むつもりはなくて、綿々と続く人の生活の通り道として今がある以上、知っておかなければならない事がある。だから目を逸らしたくないけれど、それでも「きついなあ」と思った時、家族や友人がいたりするとホッとする。

永積タカシの歌う歌は、そんな大切な事を思い出させてくれる歌だ。