銭湯という空間を考える。

〜人は人と比較して、初めておのれの小ささを知る〜

時折、銭湯に行く。もう余り行く人もいなくなった銭湯。温泉ブームなどと言って温泉は喜んで行く人が多いのに、同業者と言っても良い銭湯は余り流行らない。あの開放感。独特のカツーンと響き渡る桶の音。皆が大好きなマイナスイオンだって出まくっているし、おじいちゃんも、どう見ても堅気とは思えない人も子供達もが共に同じ湯に浸かる異次元空間銭湯は、ある意味で温泉より刺激的だ。

銭湯も頑張っているのだ。菖蒲湯にゆず湯。場所によってはワイン湯などと趣向を凝らしてお客さんを呼び込もうと必死だ。銭湯の日というのもあって、ヤクルトを一本プレゼントしてくれたりする。ヤクルトを貰って喜ぶべきかどうかも悩むところだが、それがまたいとおしい。湯上がりにヤクルト飲むと、余計喉が乾くんだよね。

そうは言いつつも銭湯とは様々な事を学ぶ素晴らしい場所だと思っている。以前大阪の友人の家へ遊びに行った時、銭湯に行った。東京よりもずっと銭湯社会は生きていて、結構近所の寄り合い風の雰囲気が漂っていて好感が持てた。全裸でゲームに夢中になるおやじ。パンツくらいはいてからやれば良いのにと思いつつ、その風景は悪くなかった。

うちの近所は脱衣所の横に小さな縁側があって、ちょっとした和風の庭園がある。盆栽や植木の類があって、そこでバスタオル一枚で外気に当たると、これがなかなか良い。

最近、社会全体にモラルが足りないと言われる事がある。結局己の世界に埋没する機会はゴロゴロあるのに、人の目にさらされたり共同作業なんてチャンスはそうそうない。銭湯は、ある種のルールが必要になるし、周囲の目というのも気にしなければならない。単純な話だが湯船から下手、入り口になる場合が多いが緩やかに下っている。湯を流す時余り泡を流すと下手の人に迷惑をかけるので気を付けなければならない。湯船に浸かるにしても局部をきちんと洗ってからとか、タオルは湯船に浸けない等など。様々なルールがあって互いに入浴を満喫出来る状況を作らなければならないのだ。これは自然とモラルや公共のルールを体で知る事になる。銭湯には民主主義の基本が守られている。

そして、何よりも大事なのは己を知るという事である。多くの物は全裸という無防備な状況を一人で過ごしているのだが、そんな時他者と接する事で己を知る。そして謙虚になるのだ。(ああ、ここから女性の方は不愉快にならないでね)子供はジャングルと化した大人達のそれを見て大人を敬うのである。「ああ、俺はつるつるの子供じゃないか」と。

そして、年齢を経てトイレなどで横目で盗み見るなんて卑怯な事をしないでも人は他者と自然と見比べる。「俺ってちっちゃな人間だな」とポツリと呟いてみるがいい。泉谷しげるの名曲「春夏秋冬」の一節「隣を横目で覗き、自分の道を確かめる。又一つずるくなった、当分照れ笑いが続く」ではないが、ひとしきり謙虚になり再スタートを切る事が出来るに違いないのだ。女性も同じだろう。胸元を見て謙虚になったり、自信を持ったりしてるにちがいない。自信過剰や狭い視野に良い事はないのだ。

体に絵が彩られた兄ちゃんがブティックの店員ばりに丁寧に服を畳んだり、背の低いおじいさんの一物に目を奪われたり、体育会系の人が姿見を前に仁王立ちしていたり、銭湯には様々な人間模様や意外な一面を見ることが出来る。それは人という物を見る目を養う事にも繋がるに違いないのだ。良い面も悪い面も見る事が出来るに違いない。

そして、湯船に浸かっている時に小柄なおじいさんが近付いて来て、マナー通りタオルをはだけた瞬間、僕は思うのだ。「神々の作りしたもう物が目の前にある。謙虚であれ。先人を敬うべきだ」と。そして、じっとうなだれて見るのだ。