青年の主張「私とアーヴィング」

杉並地区代表 さとし

私がジョン・アーヴィングに出会ったのは、中3の時の事でした。

その頃、一緒に暮らしていた祖父が、一ヶ月にある程度なら本を買ってくれると言ってくれて、思い切って買って貰ったのが、サンリオから出ていた単行本の「ガープの世界」でした。

当時、映画が上映(しかし、日本では大コケでした。何せ、その頃はロビン・ウィリアムスも、どこぞの馬の骨のような役者でしたから)された直後だったので映画のスチールが表紙でした。

その頃、大江健三郎の「新しい人よ目覚めよ」で、全然分からない事に感動したり(きっと凄い事言ってるんだろうなあ、なんて感動しつつ、ブレイクの詩に得体のしれない感動をしてました)、安部公房の「人間そっくり」に純文学と呼ばれるモノにも面白い本はあるんだ!と感動したり、筒井康隆の「俗物図鑑」に、得体の知れない世界を垣間見たような興奮を覚えたりしていました。

で、アーヴィングを紐解くと、そこには日本の文学にはない、軽やかな感覚を感じたのを覚えています。その頃聴いていたXTCや、トッドラングレンの通好みと言われつつ、実は聴いてみると、驚く程美しい調べだったような、意外な喜び。

僕にとってアーヴィングは、それと同じようなモノに思えました。

確かに、スタジャン(スタジアムジャンパーですね)や、マディソンスクエアガーデンのボストンバック、プーマのTシャツに憧れていた中学生には刺激的な表現もありました。レイプをされた上に、証言出来ないように舌を切られた少女。性転換をしたプロフットボーラー。愛人のナニを噛みちぎった上に、愛する子供も失ってしまうガープの妻。それらを、訳も分からず「エグい」と思いつつ、地方の中学生が見る事など絶対ない未知の世界にときめきました。

ただ、映画を見ていたせいもあったのでしょう。何故か、そこに、仄かな温かさを感じたのです。丁度、映画のロビン・ウィリアムスの軽やかな笑顔や、ジョージ・ロイ・ヒルの古き良きアメリカを彷彿とさせる映像をダブらせながら、そんな和やかな「何か」を思い浮かべながら読んでいたのです。

私にとって、アーヴィングの世界は、常にそういうものでした。そう、ロビン・ウィリアムスの、ちょっと寂しげだけれど、屈託のない笑顔、あの笑顔こそ、アーヴィングの作品を表現するのにうってつけだったのだと、今は思えるのです。

 

私がアーヴィングの世界にのめり込んだのは、その後、翻訳された「ホテル・ニューハンプシャー」で決定的になりました。

自殺する少女、失明する主人公。近親相姦を繰り返す姉弟。極めて奇怪な家族が織りなすハートウォーミングホームドラマ。恐らく読んでいない方は、眉をひそめることでしょう。しかし、「ホテル・ニューハンプシャー」は、正に、そういう作品だったのです。しかも信じられない位、和むのです。

そして、前述した「和やかな何か」を、ハッキリと言葉にされて驚いたのが、高校の後半から狂ったように見ていた小劇場演劇の中でも、人気のあった第三舞台の鴻上尚史の言葉でした。

「何も知らないで笑っている若者は愚かだ。かといって哲学とかを読んで眉間にしわを寄せている若者にも興味がない。僕は、残酷な現実を見つめて、それでも笑っていられる強さを持ちたい」

確か、そんな事を言っていたのを聞いて、「これこそアーヴィングの世界だ!」と膝を叩いたのです。

正に、ガープの強さは、その言葉に凝縮されているような気がしました。「ガープの世界」が発売された当初、ガープを異形のヒーローと定義づけているエッセイがあって、その表現が分かりませんでした。ガープの、決意にも近い楽観的な姿勢を、若かった私は強さと思うことが出来なかったのだと思います。なんて青いんでしょう!

 

徐々に海外文学にのめり込んだ僕が、アーヴィングと同じような匂いを感じたのがボネガットでした。どこか食えないひねくれ者の文章と、ほのかに漂う優しさが印象的でした。

そのボネガットが、アーヴィングの小説の先生だったのは、かなり後になって知るのですが、そのボネガットにアーヴィングと同じモノを感じたのは、とあるエピソードからでした。

ドイツ系のボネガットは、第二次世界大戦でドイツに赴きました。そして、彼は、かの有名なドレスデンの大空襲を体験するのです。秘かに第二の祖国と思っていただろうドイツの地で、自分と同族の者と闘う皮肉な巡り合わせ、祖国のアメリカの、東京大空襲以上と言われる攻撃を(決してボネガット達を攻撃する為ではない、と分かっていながらも)受けた苦しみは想像を絶します。

ただ、その想像を絶するような悲劇的体験を、彼は「スローターハウス5」という、明るくはないけれど、皮肉やユーモアを交えた小説として世に出すのです。

その姿勢。悲劇的な事柄で溢れ返った自らの過去さえ、皮肉とユーモアで帳尻を付けようとする強さ。これを強さと言わずに、何を強さと言うでしょう。

そんな強さに、高校生〜大学生の時に、心底憧れたのです。

 

話は戻して、アーヴィングです。先日読んだ「サーカスの息子」は、アーヴィングの最高傑作とは、お世辞にも言えない作品でした。今まで読んだアーヴィングの作品の中で最も荒唐無稽かもしれません。アメリカでも、インドを舞台にした事が話題になったと書かれていますが、それ以上の事は書いていないのです。つまりは、失敗作と言えるかもしれません。

しかし、私は、これを読んでいる時幸せでした。もしかしたら、最もアーヴィングらしいエピソードが散りばめられていたのではないか?と思うのです。空中歩行をする女性。何処にも属す事が出来ない、宙ぶらりんな主人公の医者兼脚本家。幼稚なゾウの絵を死体に描く連続殺人犯。足をゾウに踏みつけられた少年。あいもかわらぬアーヴィングらしい登場人物。それらが、インドの至る所で交わって、巻き起こるエピソードは、収集がついていないのです。ただ、その一つ一つのエピソードが、少しばかり微笑みを与えてくれて、ほんわかとした気持ちにさせてくれるのです。

ただ、この小説はアーヴィングが新たなる地平へ進み出ようとしているような予感をかんじさせます。ラスト近くの、この文章はどうでしょう。

 

彼の話はあまりに人と違いすぎていた〜そして、彼自身、あまりに異質でありすぎた。ファルークが行く先々で出会うもの、それは消えることのない永遠の違和感〜彼自身の心の特殊性がもつ、異質さの反映だった。

 

まるでアーヴィング自身が、自分の描いている小説の世界について感じている事を描いているように僕には思えました。今まで描いてきた小説が異質だと自覚したような、そんな気がしたのです。

この記述は、主人公の脚本家が、自らの作品内に、足が不自由な少年が空中歩行(ロープに足をかけて、逆さにぶら下がって歩く)をする時は、不自由なく歩ける、というエピソードを考えつくのですが、それが無邪気な空想だと感じた後に書かれているのです。事実、足の不自由な少年は空中歩行を試している最中に落ちて死んでしまうのです。

今まで書いてきた事への無力感か?それとも、暴力や死がはびこる現実世界に対抗する手段としての虚構さえ鼻で笑い先へ行こうとしているのか。

僕には、未だ分かりませんが、ただ、大きな変化があったように思えたのです。

アーヴィングが、どんな作品を出してくるのか?どんな作品でも、アーヴィング独特の視点で世界を切り取ってくれれさえすれば、楽しめるだろう、と思って期待しています。

そういえば、前述したボネガットは、好きな映画に、僕も大好きな映画「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」を上げていました。アーヴィングが脚本を担当した映画「サイダー・ハウス・ルール」も、監督が「マイ・ライフ〜」のラッセ・ハルストレムでした。

きっと、アーヴィングも「マイ・ライフ〜」が好きなのだろうなあ、等とほくそ笑みながらも、アーヴィングの描く作品を、ずっとずっと楽しみにしているのです。

おしまい

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