近寄ってはいけない気がする裸の中年女のような音楽

ヤポネシアン・ボールズ・ファウンデーション「アナザディ?」のきわどさ〜

ここの所でブルーハーツの1stを良く聴く。なんとも言えない切羽詰まった言葉。僕が高校の時に出た作品にも関わらず迫ってくるのだから凄いものだ。

爆弾が落っこちるとき、何も言わないってことは、爆弾が落っこちるとき、全てを受け入れる事だ

いやいや、本当に驚くのだ。こういった言葉が、今でも響く。彼らの後にフォロワーは沢山出たが、彼らを越えられないのは、やっぱり彼らの言葉の奥深さにある。モンゴル800は決して嫌いではないが、彼らの言葉とブルハの言葉の間には数光年の隔たりを感じるし、ブルハの音楽には漲るロックがある。

そう、きっとロックは死んでない。ただロックをやれる人間が減っただけだ。

そんな言葉を充実作ヤポネシアン・ボールズ・ファウンデーション「アナザディ?」を聴いていて本気で思った。ロックなのである。どうしようもないくらい。

ソウルフラワーで音楽的試行錯誤を繰り返し、遂にある種の頂きまで到達した中川にとって、高度な演奏形態は興奮と共に一種の物足りなさがあったのかもしれない。ロックが持っていた過激さとお手軽さ(良い意味で)をどうしよう?と言った感覚。

やりたい放題の演奏と、吐き出される言葉。言いたくてしょうがない言葉を吐き出す行為はロックである。ある種のタブーと斜め45度から捉えたもう一つの見解。ヤポネシアンとは、去勢されてしまった日本のロックと呼ばれているものに消え失せたカウンターカルチャーとしての音楽の衝撃を取り戻す作業だったのかもしれない。

ソウルフラワーは既に音楽の優等生でありインテリである。沖縄民謡や世界各国に埋もれる優れた音楽を闇雲に消化し、繰り返した結果辿り着いた地平は、ある種の行儀良さと知性を備えた音楽だった。それはそれで素晴らしいのだけれど、それだけが音楽じゃない。阪神大震災を契機に芸能に目覚め、息を飲む進化を遂げたが、それとは対称的にやんちゃに暴れ出したい衝動だってあるんだとぶっちゃけた作品こそ、これだと思う。

思い出したのはサンハウスの名作「クレイジーダイアモンズ」である。どろどろとした毒と凄みのある演奏の幸福な融合。初期衝動だけでは出せない勢いとしたたかさと凄み。キャリアを積み重ねた上で、いとも簡単にそれを叩いて崩れ去った光景に意味を見出す。そういった年甲斐もないパンクな精神を、この作品から感じたのは僕だけだろうか?ジャケットの蘭丸のヌードにしても、既に男を興奮させるエロスとは無縁の凄みのある裸の女。邪心を排除したある種の狂気さえ見えるとしたら、それこそがこの作品の全てだ。

仮にソウルフラワーで今の日本に拳を振り上げるなら、がっちり固めた理論と聴く者を説得出来るだけの理知的な言葉が必要とされる。ただ、ロックは「何だか知らんが、良くないぞお前ら!」と言った暴言めいた言葉で事足りる。そして、今必要なのは、そういった体育の先生の直感にも近い首根っこを掴んで引きずるような言葉の方が、よりインパクトと説得力を持つとしたら・・・。

ヤポネシアンには、それだけの暴力的な説得力がある。それだけで十分なのだ。理論もへったくれもなく、とりあえずカツをいてこます一枚。これだけ鋭い言葉が迫ってくる音楽は久々だ。ここの所でブルーハーツの1stを良く聴いていた。そこに垣間みていた何やら捉えきれない壮快感は、これだったのか!とスッキリした。何だ、こういう事だったのか。