邪頭について

 渋さ知らズをご利用になる方への説明書

 ジャズは、一部の愛好家の音楽になってしまっている。(少なくともメインストリームからは外れてしまった)60年代を頂点にロックこそ自由を象徴する音楽だったと思う。クラッシックもジャズも権威主義が横行したせいもあるだろう。芸術性といった、高貴なイメージは、ジャズの人気に大きな打撃を加えたのではないか、と僕は思っている。(事実、僕がそうだった)

 試しに、余りジャズを聴かない人に、と言うよりは、音楽を聞かない人に「ジャズ聴くんですよ」と言ってみると分かる。「え?ジャズ。へ〜、ジャズなんて聴くんだ」と明らかに「へー東大出身ですか」と同じような目で見る人がいるはずだ。

 これは、明らかにジャズを、高貴で難解な音楽と認識をしている証だと思う。しかし、ジャズは、そういう音楽ではなく、ロックと同じか、それ以上に人を興奮させ、快感を与える音楽でもあると思う。

 汗と肉体と横隔膜の弾ける音楽なのだ。(かなり大胆に)もっと言ってしまえば、ロックなんかより、ずっと自由な音楽であると思う。

 ジャズとは基本的には混沌と快感を求める、邪(よこしま)な音楽かもしれないと思うことがある。

 ロックからジャズに入った人間としては、いつもそう思うのだ。ロックとは、いくら激しく演奏しようと、その曲に参加している人達は、他のメンバーに合わせなければならない。余り逸脱を好む音楽とは言えない。

 しかし、ジャズは違うことがある。

 ジャズは音楽の中で、ひたすら自由であろうとする意志が強いと思う。

 その快感は、初めは極めて個人的な快感で始まる。アドリブで、自分なりに気持ちの良い音を出そうとするのだ。(要は勝手に気持ちよくなろうとする)

 そして、あろうことか、その個人的快感に賛同する厄介者がいるのがジャズの面白い所だ。

 「あ、それ気持ち良さそう。俺も、そっちへ行くわ」といった事を考える人間が、アドリブという個人的快感に追従していくのだ。しかも、笑っちゃう位圧倒的技術を持って、そっちへ参加していくのだ。これをギリギリ許せる所までやってしまうのがジャズである。

 ロックが、最大公約数の快感を作り上げ、それを復元していく作業だとすると、ジャズは最小公倍数を競い合う、反集団的快楽を追求する音楽である。

 ジャズバンドは修学旅行で、より楽しい悪戯を考案し、それを楽しもうとするふとどき者が集まってハイになっている集団と余り変わらない。「おい、女の部屋行こうぜ」の一言で、いきり立ってしまうような輩達だ。

 ジャズをやるバンドは極めて邪(よこしま)な頭(考え)を持った人々の非常に緩い集団である。

 ジャズは邪頭を持った人達の音楽だ。

 そして、渋さ知らズは正しく邪頭を持った人達の集まりだ。

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邪頭シリーズ第2弾「サルのオナニーとジャズ」につづく