サービスは人の為ならず

フィンランドの奇才アキ・カウリスマキの映画を鑑賞する為の幾つかのヒント

親切が過剰になると迷惑になる。

ごく当たり前のことだ。

例えば、コンビニやファミレスはどうだろう?おつりを渡される時「千円、二千円、三千円、よんせえんえん、先にお渡ししまぁす」と笑顔で言われた時、ふとよぎる「俺は小学生か?」といった感覚。居心地の悪さ。

よくある例え話は、電子レンジの説明書である。

「猫を入れないで下さい」

入れるか、そんなもん。というが、実際にいたのだから始末が悪い。猫を乾かそうと電子レンジに入れたら死んでしまった、と訴えた人がいるのだから。そうすると、メーカーがキッチリ明記しないのがいけない、って事になる。

使用する人が増えれば増えるほど、予想だにしない事が起きる。その為に、最小公倍数を提示する。そういう事だ。(内緒だけどバカっているんだよねえ、吃驚するようなのが)

最近のバラエティのテロップもそうだ。

ギャグや、滑稽な発言を、わざわざ大きくテロップで出す。

見る者をなめているのか?と言いたくなる。注意力が散漫で、聞き逃したり、見逃したりするのは困るから、とでも言いたげだ。

バカにしてんのか?

映像技術が発達するのは凄い事だが、近頃のSFXを多用したハリウッド映画を見ていると、その隙のなさに辟易してしまう。余りにも詰まり過ぎていて息苦しくないだろうか?

ファミレスや、コンビニと同じようなサービス過剰、一歩間違って、見下してるだろ?状態に陥っているような気がする。

ここまで来ると、極力説明を省いた表現は、逆に受け手を信頼してくれているような気がして嬉しくなる。というより、監督と分かり合えているような快感がないだろうか?

ヒッチコックの「サイコ」の、あの名シーンにしてもそうだ。バスカーテンの影で何回も刺される女性。排水溝に吸い込まれる血。

そのシーンを見て、無惨に刺され死んでいく女性を、観ている側は想像し、より恐ろしい光景を映画の中に付加していく。今の技術があれば、観客の想像を越えた残忍なシーンを作り出せるかもしれない。ただ、味も素気もない、ただ目を覆うようなシーンになってしまい、名シーンとは言えないPTA非難ばりばりのシーンになるだろう(そういえば、最近PTAって文句言わないなあ)

こちら側が想像しなくても、全てをお膳立てしてくれる事は、良いことなのだろうか?ある時、それは見ている側をバカにした陳腐な表現だと思う。端的に言わせて貰えば、粋じゃない。観客と監督が、互いに信頼し合える。そういう粋な映画が僕は好きだ。

フィンランドの奇才アキ・カウリスマキの作品を観ると、不思議な懐かしさと粋な表現を感じる。出世作の「コントラクト・キラー」「マッチ工場の少女」「浮き雲」などだ。

まるで、技術など使わない、30年前の作品と言われれば、そう感じてしまうような映画ばかり撮っている。

不自然に哀しそうに佇んでいたり、座っていたりする。まるでモジリアーニか、エドワード・ホッパーか何かの絵画を観ているようだ。

役者の使い方も独特で、キューブリックのような無個性な役者を使うことが多い。悪く言えば、すげ替え無限可能な感じ。機械的な動き、無表情さ、独特の悲哀を醸し出す。この三つが条件だろうか?

それらが演じる、ごくごく平凡な人間達が巻き起こす、微かなドラマ。これに耳を傾けて、じっくりと味わうのがカウリスマキの作品の魅力だ。

幾つか観てもらえば分かるが、とにかく音が少ない。静寂の中にドラマがある。過剰な説明は一切省き(もしくは削り)、観る側の思惑を喚起させる。

その静寂の中にドラマが幾つも作られている。

カウリスマキの映画の見方は、読書に似ている。提出される物語を、受け手が様々な想像をする。昨今のハリウッド映画のように忙しなく提示される映像や物語を消費するので精一杯のものと違い、観る側が咀嚼して、組み立ててからでないと次へ進めない。

その為に、静寂や、奇妙な間(ま)が、観る側の為に沢山しつらえられている。

その独特の静寂や間が、カウリスマキの映画の醍醐味とも言えるかもしれない。

カウリスマキの映画は、ファミレスのように親切で、幾つも新しい商品を次々と出してきたり、お札を一枚一枚数えてくれるサービスはない。

ただ、材料を吟味し、納得のいく素材だけを使って作った料理を出してくれる、こだわりの料理店のような趣がある。

どちらが良いかは、好みだろう。

僕は、その吟味された味わい深く、簡素な料理を食べるだけだ。

カウリスマキの映画は、カウリスマキにしか出せない味がある。

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