極私的演劇論

 

 演劇など観たことございません。って方、きっと多いと思います。小学生の時、中学生の時、そんな時に観たしょうもない演劇教室の作品を観て、演劇ってつまらないねえ、と思った貴方。それは偏見ですよ。偏見。

 もっとラジカルで刺激的な演劇も沢山あるのです。テレビが、しょうもないドラマを垂れ流ししている今、演劇に流れてもいいのになあ、と思います。残念ながら今の演劇界は活況とは言えません。でもでもでも、それでも面白いモノが結構あるのです。一度、劇場に足を運んでみたら、どうでしょう。そこには才能があるのに自分の信念を曲げることが出来ない不器用な生き方しかできない人が、凄い熱意で作品を上演しています。昔、ある演劇評論家が、こんな事を言ってました。「演劇は、誰ももうからない。だから素敵だ。皆、楽しむだけに劇場という空間に集まっている。そんな素敵な空間は、今、そう滅多にないじゃないか」と。よこしまな商売っけでテレビや、映画を作る人達とは、ちょっと違う、そういう人達の魅力を伝える為の極私的演劇論。演劇を観た事のない人こそ読んで欲しいです。

 

 第三舞台を主催する鴻上尚史は、かつて、こんな事を言っていた。「第三舞台と言う名前の由来は、役者達が作り上げる舞台を第一舞台、観客が楽しむ場所が第二舞台。そして、その二つが作り上げる幸福な空間こそが第三舞台なのだ」と。

 これは、演劇を語る上で、非常に重要な事です。以前、野田秀樹という人の「キル」と言う作品で、渡辺いっけいという役者が、演技をしている時、突如客席から携帯電話の鳴る音が聞こえてきました。客席は、一瞬にして固まりました。奇妙な緊張感と、しらっとした雰囲気。その時、渡辺いっけいは、その携帯電話の人を叱りながら、それでも巧く作品のギャグに変えてしまいました。「う〜ん、役者の鏡だ」と、その時僕は思いました。観客の拍手と爆笑を受けて、渡辺いっけいは俄然調子を上げていきました。

 これはベテランだからこそ出来る芸当ですが、演劇というのは、観客のちょっとした事で、もろくも作品が壊れてしまうこともあるのです。その逆で、観客が素敵な反応、爆笑とか、感動の雰囲気が劇場を包んだ瞬間とかがあれば、役者が普段以上の力を出す事もあるのです。それこそが、観客と役者の化学反応的な奇跡的瞬間なのです。それこそが演劇の一つの魅力かもしれません。

 さて、昔観た凄く良い映画を、もう一度観てガッカリした事はないでしょうか?テレビでも可なのですが、「あれ、こんなに安っぽい奴だったっけ、みなきゃ良かった」と思った事があるはず。これこそが形で残ってしまうものの宿命。形あるものは古びていくのです。演劇の良さは、常に同時代的であれば良いと言うことになるでしょう。映画等は、特にそうで、常に普遍的であることを強いられます。鴻上尚史が映画監督に挑戦した「ジュリエットゲーム」と言う映画が失敗したのは、結局、普遍性を考えすぎたからではないだろうか、と僕は思っています。

 例えば、演劇では同じモノを観るということは不可能です。ある作品が上演されたとき、その作品は、その時代背景を抜きに考えることは出来ません。つかこうへいの「飛龍伝」と言う作品がありました。学生運動を扱った、この作品は筧利夫と富田靖子の素晴らしい演技と、つかこうへいらしい素敵な戯曲が奇跡的にも融合した、傑作でした。この作品が上演された時、ベルリンの壁が壊れ、おじさん達の哀愁が世間に流布した時でした。作品の上演について、つか氏は「学生運動を通った中年の人達にエールを送るつもりで、この作品を作った」と言っていました。つまり、そういうタイミングがあるのです。観客も、何かしら、その時代の雰囲気を体で感じている。その感覚を引き出していく作品。もしかしたら、そういう作品が、演劇で言う名作なのかもしれません。作品を観て、それは一種幻想のようなモノになります。その作品が良ければ良いほどに、その印象は強烈に残ります。それは時と共に、強烈さを増し、美化されていくのです。しかし、演劇は美化される芸術なのです。その人が観たものは、再現不可能なのですから。決して再現できない芸術の持つ美しさは、花火の美しさに似ています。それは一瞬のきらめきなのです。

 

 演劇は、聴覚の芸術と言われることがあります。演劇界で名優と言われる人の多くが美しい、もしくは、個性的な声を持っています。小劇場演劇の多くが、恐らくつかこうへいの影響でしょうが、裸舞台で作品を作り上げるとき、まず、役者が立っていなければ、成立しない。それは、役者を窮地に追い込んでいるとも言えます。そして、ビジュアル的には、映画に勝てっこないのです。とすれば、生の人間の肉体と声、響き渡る台詞で客を引き込んでいくしかないでしょう。

 夢の遊眠社の看板俳優だった上杉祥三は、特に声の良い役者でした。筧利夫しかり、野田秀樹しかり、皆きめるシーンで出す声が、例外なく魅力的なのです。野田秀樹の作品を観た人は心当たりがあると思いますが、あの人の泣いてるような嗚咽しているような声は天下一品です。その声が劇場に響き渡るだけで作品が、良いような気がして来ます。もちろん良い芝居なのですが、その声は、その感動を倍増させる。観ていて、時々詐欺みたいだ、と思ってしまうほどです。

 それにBGMも重要です。鴻上尚史は音楽の使い方が非常にポップな演出家で、小劇場では一風変わった使い方をしています。野田秀樹は、とても感傷的な使い方。その使い方は、蜷川幸夫の使い方に似ているかもしれません。パッヘルベルの「カノン」は、頻繁に使われる定番だと思いますが、これを使うのは、演出としては手抜きと言えるかもしれません。あの曲は卑怯です。音楽だけで感動させる演出は、それを怠慢と言って良いでしょう。遊機械全自動シアターの白井晃(「王様のレストラン」のソムリエをやった人)などは、ジャズ好きでジャズを巧く使ったり、名作「僕の時間の深呼吸」での、ペリーアンドキングスレーの曲(エレクトリカルパレードのテーマソング)など、使い方は非常に巧い。今は、なくなってしまったのかもしれませんが、劇団青い鳥の芹川藍の音楽の使い方なども、非常に印象的でした。

 とりあえず、役者の声、音楽に注目してみるのも良いかもしれません。

 まあ、色々書いてきましたが、良い芝居を観るというのはギャンブルに近い。結局は情報収集と、勘、それに演出家、出演者などを考慮に入れて「これだ」というのに行ってみる。そして、当たりだと膝が踊るくらい感動するし、はずれだと「ちぇっ、高い金払わせて、これかよ」ってな事になります。何でも、そうですが当たりを引いた人は、ズボズボと、その快楽地獄にはまっていくし、はずれの人は、すっと引いていきます。

 と言うことで、無謀企画「演劇を科学する」を、やってみようと思います。演劇を観る時の傾向と対策。飽くまでも、僕が観た中での傾向と対策です。

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