私達はおしなべて田中真紀子である

〜彼女は知らない。悩める世代のイコンとして存在する事を〜

あのダミ声と、ウルトラマンに出てきたべムラーと鳳圭介を足して二で割ったような風貌にあけすけな発言。忘れてはいけない、彼女が出てきた時、殆どの人が拍手喝采で迎えたのだ。彼女の出現が政治を変える。そして、テレビでコメディアン同様絶叫する勢いだけで人気を勝ち得た、あの田村正和もどきの髪型のおじさんと共に期待と下世話な興味を持ってテレビで政治を見てきたのだ。

彼女が出て来た時、なんとなく違和感を感じたのだ。結局、我侭なお嬢さんが、二世ならではの七光で言いたい事をずけずけと言い、拍手喝采を浴びる。ビートたけしが、コメディアンならではの笑いをまぶした発言を、まるで大切な言葉のように扱う国である。彼女の存在に惹かれない訳がないのだ。

立花隆が急遽「田中真紀子研究」という本を出した。広告を見た時、そうか!と読む前から感じた事があった。いや、まだ読書中だが、最早それは確信に変わっている。

田中真紀子とは、バブラーとまで言われる私達世代の象徴とも言って良いのだろう。

勿論、父親は「あの田中角栄」である。偉大にして巨悪。アントニオ猪木を政治家にして毒をまぶして、更にスケールを十倍にしたような人である。今だったら、予備校生をズラリと並べて、「すいません、扇子で仰いで下さい!」と言われて「ま、この〜」なんて仰いで有り難がられてもおかしくない程の昭和の巨人である。

彼がやった事。それはすさまじい。詳しくは是非本を読んで貰いたいのだが、地方献金の嵐に公共事業。政治汚職は無論の事、土建会社との癒着に政党内の派閥作りに奔放した事等々。とにかく今の日本の哀しい姿の原型を作り出したのは彼と断言出来る程である。

しかし、彼のスケールは違う。とにかくでかい。今の政治家と比べれば、池乃めだかとアンドレ・ザ・ジャイアント位の差がある。だからこそ、田中角栄は、ある種の威厳と憎悪を背負っているし、語られるべき存在になっている。

そんな父親を持った彼女は、正しくアンビバレンツな感情を持ってしまった。憎悪する父と尊敬する父。その二つを持ちつつ彼女はぬくぬくと成長し、我侭放題の女性になってしまう。周囲には全く気を使わず、使用人扱い。自分が正しいと信じて疑わない姿勢もそうだが、豊かな日本を作り出した大人達(父)を越える事も憎悪しきるだけの強さもない。彼女は、父に反発しながらも何処かで父を敬意の眼差しで見ている小さな自分に苛立っているに違いない。

そして、あらゆる意味での力が無いのは明白なのに、それでも空威張りを続けるのだ。彼女の悲劇は、父の威光があるが故に、誰も諌めてくれない事である。それは、甘やかされて自由奔放にされた僕らに、何処か被さってくる気がしないか?

「田中真紀子研究」は、今の日本のくすんだ状況を嘆く為にある本ではないかもしれない。僕らは、彼女に感情移入し、そして自らを振り返らなければならないのだろう。

この豊かな日本を作る為に善悪の区別も無しにガムシャラに走り続けた世代をちょろちょろと振り返りつつ、それだけの熱意も目的意識もなく、ぬくぬくと育ったが上に世界を直視せずに空威張りを続ける姿は、正しく僕らが目を反らし続けた自らの姿ではないのか?闇雲に批判し続けてもその矢が最終的に自分の背中に突き刺さるような目眩のする状況。全国に作られた無意味な道路や建物を笑い飛ばしてみても、その恩恵が最終的に自分達が甘受してきた豊かさに繋がっていく絶望的なスパイラル現象。

ああ、彼女は何を思う?そして、僕らは、そんな彼女から何を学ぶべきだろうか?その答の断片が、この本には埋もれている気がしてならない。