井筒監督が分からないと言ったから

〜マルホランド・ドライヴはサンセット大通りの手前にあるから哀しいの巻〜

毎週楽しみにしているテレビ朝日系深夜番組「虎ノ門」の井筒監督の映画コーナーで、突如面白い発言があった。井筒監督が「分からない」と言い出したのだ。いやいや、仮にも映画を語る者が「分からなかった」発言をするのもどうかと思うが、非常に親切な発言だ。

一回観ただけじゃ理解出来なかった、とまで言う作品なのだから難解なのだろうか?俄然興味が湧くのはしょうがない。早速観に行きました。

「ロード・オブ・ザ・リング」から吐き出てくる多くの観客を尻目にシネマスクエアとうきゅうへ。お客さんは、ほぼ満員。井筒効果か?それとも純粋にリンチファンが集まるとこの程度か?微妙な客入りも、非常に曖昧でリンチの映画らしい。既に曖昧。

元々リンチの作品とは理解をする事を拒否する事から始めなければいけないような代物である。(こりゃ、元も子もない発言)大体にして一大ブームを巻き起こした「ツインピークス」からして謎解きと称しながら、最終的にはハチャメチャなラストなのである。つまりは、一見推理劇と称しながら、犯人なんてどうでも良かったし、それがお父さんだったら何となく衝撃的じゃない?ぐらいのノリだったに違いないのだ。

つまりはファンキーな人なのだ。「ブルーベルベット」にしても「ワイルド・アット・ハート」にしてもそうなのだけど、論理をうっちゃる卑怯な人なのだ。

じゃあ、どういう事かというと、なかなか説明が出来ない。ファンキーの定義を語る事は難しいが、ちょっとそんな話を。

日本を代表するファンキー野郎、アントニオ猪木が、有力選手の離脱で危機に瀕した新日マットに登場した。若手、ベテラン、様々な慰留組を前にして「おい、お前ら言いたい事があったら言ってみろ」と息巻いた。若手選手が「俺は武藤(電撃移籍をした問題の張本人)を許さないっす!」というと、猪木は一拍置いて「まあ、それは良いにして」。(会場爆笑)質問しておいて聞かないのだ。良い訳がないのである。普通なら。ただ猪木だから許される。そして、緻密に考えられたコントより数倍笑えるし、何回観ても笑える。そして「スゲエなあ、猪木って」と思える。

猪木だから、で許される。そういう存在こそがファンキーである。で、何故、これが許されるかと言えば、猪木は強いし実績があるし結果を出しているからである。存在が理由になるそれこそがファンキー。同じくリンチが作った映画が荒唐無稽でも許せる。なぜならリンチが作った映画だからだ。

更に厄介なのは、リンチはアーティスティックなのである。芸術は分からないものだ、と思っている人達にとってリンチは、ただ肯定するしかないくらいの評価を得ている。それこそが厄介な訳で、実はリンチとは笑える映画ばっかり撮っていると、僕は秘かに思っている。

さて、この「マルホランド・ドライブ」が、そういう映画か、と言えば、吃驚するけれど、そういう映画なのである。恐らく井筒監督が言う「分からない」は、理性や論理で芸術的アプローチをしようとしたから迷ってしまった気がする。あるがままに「リンチだから」で楽しめば、十分に楽しめるファンキー映画だと思う。勿論、ハリウッドに対するアンチテーゼはあるにしてもである。

〜ここからは映画を観たいと思っている人は観てから読んでね〜

本編は実に単純で、ビリー・ワイルダーの大傑作「サンセット大通り」の現代版だと言い切って良いと思う。この映画が変則的なのは、「マルホランド・ドライブ」が、ハリウッドの中にあるサンセット大通りに対して、手前にあるという所がみそ。主人公の一人リタはマルホランド・ドライヴで交通事故に遭い、サンセット大通りにやってくる。つまりは、手前で傷付いているのだ。(パンフレットを読めば、かつてのスタッフがマルホランドドライヴで死亡していて、その女性に捧げる映画だそう)つまりはハリウッドが持つ、エゴと金と名声に埋没し、その常習者となった人々の光と影(ハリウッドバビロン)を描くという意味では、典型的なテーマを扱っていると言って良い筈。付け加えるならば、個人的には印象的だった叶わぬ愛を切々と口パクで歌う女性のシーンが象徴する「叶わぬ祈り」半ばにして砕けた魂への鎮魂歌なのかもしれない。

ただ、リンチが凄いのは、それを理性とか論理で物語を進めない所にある。重要なアイテムとなる青い鍵と青い箱は、現実と虚構をつなぐ入り口のような物である。これが、丁度映画という虚構の中の更に虚構と現実の転換のきっかけでありながら、実に曖昧。本編中、リタとベティの関係が、どちらが現実だろうと虚構だろうと観る人次第。僕は、展開通り、前半を現実、後半を虚構として観たけれど、後半を現実、前半を虚構と観ても良い筈。そして、他の全てのサイドストーリーは、リンチの永遠のテーマ、綺麗に飾った世界の底流にこそおどろおどろしい物を踏襲しているに過ぎない。一見のどかな田舎街の裏側に汚らしい世界が、痛快なぐらい横たわっているという「ブルーベルベット」「ツインピークス」にあった悪意に満ちた物語の舞台をハリウッドに移しただけだと思う。

映画製作の裏側で操作する小人も、その手下と思われるカウボーイ、映画監督が映画を作るのに渋々キャスト変更を飲み込むエピソードだの、漠然とした「裏側」と呼ばれる世界を淡々と描き出す。ただ、「裏側」と言われる薄闇の世界は、実はその世界に住んでいる人々の中にあるという事。青い箱も鍵も自らの内面に入っていく事なのかもしれない。

後で気付いたのだけれど、主人公ベティの叔母が出掛ける時にリタが家に入っていくのを見掛けるが、それを黙って見ているシーン。(劇場で「な訳ないじゃん」て一人でクスクス笑ったけれど)それは、ハリウッドでそれなりの地位を築いたリタの叔母にとっては、生きる為に受け入れざる得ない闇でしかなかったのかもしれない。叔母が、かつて飲み込んだ闇。それこそがリタであって、ベティもそれを受け入れるべきだという黙認だったのかもしれない。リタは、そういった人間の闇の象徴として出てくるトリックスターとして観れば、それなりに映画を読み取れるんじゃないだろうか?事実、後半でリタは、ベティにハリウッドへの近道(監督の邸宅への近道)を教え、精神的にベティを虜にしてしまう。突拍子もなくレズとして描かれている。

「裏側」を作り出すのは人間の内面であり、それを形にするのは名声や金や快楽の虜になったごくごく普通(だと自分では思っている)の人々である。ハリウッドの名声や富の虜になった者達が作り出すのが、曖昧模糊とした「ハリウッドの裏側」であり、その過程は、とんだ人間喜劇なのだ、と言うことを実に美しく、アーティスティックに描き出したのが「マルホランド・ドライブ」という怪作だと私は言い切りたい。こんな破天荒な映画、言い切った者の勝ちなのである。

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