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ひとえに今書かなければならなかったという事。 〜宮部みゆきの渾身の一作「模倣犯」という人間ドラマに強く共感したこと〜 |
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世界貿易センタービルに旅客機が突っ込む瞬間の映像を見ると、今でもちょっとした違和感を感じる。これが本当の事なのだろうか?SFXじゃないのか?月並みな言い方になるけれど、やっぱりそんな事が頭を過ぎります。 何回もその映像を見ている内に、その衝撃が薄れて、徐々に違う意味合いを感じてきました。21世紀の始まり、2001年にこんな衝撃的な事件が起こる事に、もっと違う意味を見出してしまうのです。それは、アメリカがアフガニスタンに侵攻した辺りから感じ始めました。一連のニュースを、現代アメリカという視点から興味を持って見ている内に、これは20世紀的な価値観が崩れる瞬間なのではないか?と思ったのです。 知人、友人にはよく話していました。資本主義経済って限界に来ているのかもしれない、と。今資本主義経済そのものが悲鳴を上げているんじゃないか、と。そして、それを実際の映像として見せたのが「あの事件」だったのではないかと思うのです。 資本主義がなくなるのではなく、価値観が変わらざる得ないと思っています。幻想としての紙幣を追い求めるだけの価値観。上手くやり抜ける事だけを主眼とおいた詐欺行為のような暗黙の一般常識。そんなものが、少しづつ変わっていく、そういう価値観が再び求められなければならない時が来たのではないか、と思うのです。 宮部みゆきの大作(総ページ1300余り)「模倣犯」は、そんな曖昧な考えがハッキリと見えてくる、もしくは、間違っていないな、と感じられる小説です。総ての誠実に活きている人々に捧げる小説と言っても良いかも知れないとまで思いました。 小説は、女性を狙った連続暴行殺人犯を中心に進みます。被害者の祖父である豆腐屋。家族を別件の強盗殺人事件で失い、不幸にも再び連続暴行殺人の第一発見者になってしまう少年。その少年の家族を殺した主犯の娘。事件を追う女性ノンフィクションライター。 複雑に絡み合う、それぞれの登場人物のエピソードから立ち上がる心象風景こそが、この小説の主題であり、事件はそのきっかけに過ぎません。これは群衆劇だと思いました。それぞれの思いが丁寧に描かれ、優しい視線が胸を打ちます。「火車」も同様ですが、非常に女性らしい繊細な心理描写は、この小説の大きな魅力です。 以前、妻と子を惨殺された方が、被告の死刑を要求した裁判沙汰がありました。原告の言い分は、いつも加害者の情状ばかりが問題とされる。被害者が立ち直る為のケアはされないのか?という疑問提起でした。そのニュースを見た時に、なんだか居心地が悪くなったのを覚えています。やった者勝ちの社会が、いつの間に出来上がったのだろう?そんな事を思った気がします。愛だの平和だのが、最も大切だと言われるようになってから、暴力は総て否定されている。なのに、初めに暴力を振るったものには情状があり、被害を受けた人間の言い分は、何処かへ葬り去られてしまう。狡賢い人なら、すぐにこう思うでしょう。世の中やった者勝ちかもしれないと。そして、誠実に、真正直に生きている人間が割を食う世の中になっていないだろうか?そんな事を思ったのです。 「模倣犯」の準主役とも言える豆腐屋の老人は、自らが被害者になった事で、その事を感じます。被害者でありながら、孫娘を救えなかった自責の念にさいなまれ自らを傷つけていると言います。その悲しい姿に、原告の悲しい言葉が重なりました。 いつから、こんな矛盾が起こったのだろう?そんな事を思います。悪が肯定されている訳でもない、ただ、そこにあるのは、責められた者のやりきれない思いがあるという事です。こちらには非がない売られた喧嘩をした時に、喧嘩両成敗として互いに叱られる。その時に感じるモヤモヤとした感情。解決方法として完全に正しいようで、腹の底に残る不完全燃焼の思いだけが、ささやかな残り火を残したままでいる状況。そういう思いが充満した世の中になっているのではないか? この小説には、幾つもの現在の社会の矛盾や病巣が立ち現れます。子に愛情を完全に持てない親、それを原因として道徳を持ち得ない娘。自尊心だけが強い男や、世界が狭い者。犯罪の悪よりもセンセーショナルな話題に飛びつくテレビ局。それらの多くの現象がそこかしこに現れます。そして、被害者であろうと、同情の余地なく否定されます。ここで、被害に合うのは、結局誠実に生きている人々なのです。相手を思いやり、考え、行動する者達が、受けるいわれのない被害を受け、更に自らに刃を向けてしまう誠実さで自らを傷つけるのです。それこそが悪が与えうる最大の災いのように思えてきます。 この小説が、非常に重厚になり得たのは、そんな厳しい現実を真正面から描いたからかもしれません。被害者の勝手な振る舞いさえもが、厳しい視点で描かれています。するすると見知らぬ男性に付いていく被害者の親類は、結局実質上の加害者からだけでなく、殺された被害者からも言い返す事の出来ない無言の攻撃を受けるのです。失った哀しみだけでなく、失った者からの声無き責めを受け、打ちひしがれる。 この切なさ、この哀しさ。これこそが、この小説の主題であり、善意の第三者の哀しみだけが立ち上がります。豆腐屋の主人が、孫娘を失った哀しみを背負い込んで頑張り続ける姿は感動します。言葉の一つ一つに哀しみと、強さがにじみ出て、後半は、主人の言葉だけでも心を揺さぶられる事は間違いないでしょう。 「人殺しが酷いのは、被害者を殺すだけじゃなくて、残ったまわりの人間をも、こうやってじわじわ殺してゆくからだ。そうして腹立たしいことに、それをやるのは人殺し本人じゃない。残された者が、自分で自分を殺すんだ。こんな理不尽な話はない。私はもう嫌だ。それが嫌になったんだ。私はどれだけ自分自身に責められて、じわじわ殺されかけても、じっとこらえていられる程強い人間じゃねえからな。弱虫だから、もうこんな非道いことには辛抱ができねえんだよ。今度は、私のすることを手伝っておくれよ。近くにいて、このジジイの悪あがきを見ているだけだっていい」(一部、省略) 悪あがきみたいな、無駄な事をしても良い。誠実に生きる為に全力を尽くす為に、効率の悪い事をしても良いじゃないか。そんな事を言っているような、そんな気持ちになりました。事件が解決し、豆腐屋の主人は、初めて涙を流します。声もあらわに泣き叫びます。その声と涙の中に詰められた多くの哀しみと切なさを強く感じる事こそ、今一番大事な事かもしれません。その為の膨大な上下2段1300ページ。決して苦痛でも無駄でもない実に有意義な時間を過ごせるのは間違いありません。 |