だからって、アメリカが世界で最低な国って笑っている場合なのだろうか?

〜映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」を観て思う事〜

個人的な話で恐縮だが、「あるある大辞典」が嫌いである。日曜日の夜、なんだか為になるんだかならないんだか分からない情報が湯水の如く流される様が苦手なのである。

だが、番組自体が嫌いなのかは分からない。月曜日に突如として「ねえ、土の中で育つ野菜は水に沈むけれど、土の上で育った野菜の多くは浮かぶらしいよ」と言う人が苦手なだけかもしれない。

それは一つの暴力である。

それに対して、どう答えるのか?どう反応して欲しいのか?

教養や知識とは別の、いわゆる雑学という気もする。知っている事がどうなのだ?と聴きたくなる情報、それこそが雑学という気がしないでもない。

何故そう思うかというと、情報の受け手が、その情報を無闇矢鱈にスルーさせているからと言う気がする。何かしらの解釈や理解が欠けているからにちがいない。蓄積され、役に立つ時に情報を活かすのでなく、ただひけらかす為だけの情報は死んでいるのである。それは張り子の虎に過ぎない。

これがふとした時、野菜が浮いている時に言われれば、それはまた別の話だが、突然、月曜の朝、会社でそんな事を言われても困るだけだという話だ。

ましてや、ほんの一週間鉄分を取らなければと思ったり、亜鉛が体に良いなんて思うだけなら、それは情報ではなく情報バブルだと思うのは、ちょっと気にし過ぎだろうか?

良い悪いを越えて、ただ役に立ちそうという一週間の流行。なんだかうんざりだったりする事があるのだが、それでも月曜日に一週間限定の豆知識は披露され消費し続けられる。

そんな「情報というもの」について色々と考えさせられたのが、久々に公開を楽しみにしていたマイケル・ムーア監督作品である「ボウリング・フォー・コロンバイン」である。ついつい公開二日目に行ってしまいました。

コロラド州のコロンバイン高校で学生二人が銃を乱射した、例のあの事件をきっかけに、アメリカを深く洞察した異色のコメディドキュメンタリーである。

監督であるマイケル・ムーアは、昨年「アホでマヌケなアメリカ白人」でも刺激的な思想と観察眼を見せつけたが、映画版は映像があるだけに、更に刺激が強い事は確かだ。

銃乱射事件を発端に、何故アメリカばかり銃による事件が絶えないのか?という疑問を追っていくのだが、そこから全米ライフル協会のチャールトン・へストンにインタビューしたり、隣の国カナダへ出掛けたり、その先に見え隠れする軍需産業、各州にいる民兵、オクラホマの爆破事件や9・11の事件までアメリカの現状を浮き彫りにする。

幾つものエピソードは、殆どブラックジョークとしか思えない程である。

口座を開くとライフルをプレゼントする銀行。弾丸を売る大手スーパー。銃の事件が起きた街に乗り込み、ライフル片手に「私は死んでも銃を離さない!」と決めのポーズをするチャールトン・ヘストンの姿。

そんな映像の数々に失笑とも言える笑いが、映画館に起きていた。

公開直後という事もあって、行列が出来る程のヒット。アメリカの愚かな一面が、こういった痛烈な批評と説得力を持って見られる事は、画期的な事かもしれない、と思った。

何しろマイケル・ムーアは、アメリカ人であり、いわば内部告発なのだから。

しかし、この映画、きちんとアメリカの文化を知った上での鑑賞をお勧めする。私のページのアメリカの欄もきっと役に立つだろうから、参考にしてもらえるとありがたい。(こちらから)

突如、民兵が出て来たり、コロンバインの乱射事件やオクラホマの連邦政府ビルの爆破事件が出て来ても、恐らく混乱する人が多いと思う。

ちびちびアメリカの勉強をしている僕でも「ほお」だの「へえ」だの言いつつ観たのだ。アメリカの文化や、こういった状況に親しみのない人は、イメージだけで捉えてしまうかもしれない。

日がなアメリカの悪口を言っていて、こう言うのも変だと思うかもしれないが、アメリカは決して愚かなだけの国ではない。

むしろ、この映画を観て、アメリカって馬鹿な国と捉えてしまう事も、ハリウッド映画を観たりニュースを観て無意味にアメリカを支持するのと同じ位、愚かな事だと思う。

それは、先程言った「情報をスルーしてしまう」事でしかないからだ。

今までも、こういったアメリカの愚行を書いた本は沢山あった。ノーム・チョムスキーの著作やスーザン・ソンダクの話題となった反アメリカ発言だけでなく、様々な本に描かれた。近所の本屋へ行けば、何冊も見つける事が出来た筈だ。

ましてや、9・11の事件があった時、アメリカの悪や愚かさを感じた人がどれくらいいただろう?被害者に同情し、ラディンを非難する人はいたが、私の周りでアメリカの愚行を口にしたのは、海外生活経験のある数人に過ぎない。

映画館に並ぶ多くの人が、どれだけアメリカに対する理解を持ち、この映画に接しているのだろう?と少しだけ不安になった。それが刺激的な映像として繰り出されるだけに、また別の誤解を生じかねないという事だ。

漠然としたイメージ。無思考のまま作り手の言う事を信じ込んでしまう恐ろしさ。

この映画を観た人は、「アホでマヌケなアメリカ白人」を読み、監督であるマイケル・ムーアがどれ程徹底的にアメリカ政府が行って来た愚行を調べ上げ、アメリカ政府、ひいてはブッシュ現大統領にアクションを起こして来たかを知って欲しい。

彼は、かのラルフ・ネーダーの側近を務め、ブッシュが勝利を収めそうになると、選挙を降り、ゴアに投票するよう説得までしようとしたのである。

気が付かねばならないのは、マイケル・ムーアのような人間を生み出すアメリカという国の懐の深さである。映画の冒頭、アメリカの人気コメディアン、クリス・ロックが映り、弾丸の値段を5千ドルにすれば良い。そうすれば勿体なくて人も殺せやしないだろう、というようなジョークを飛ばすシーンが映る。日本のコメディアンで、これだけ社会問題を扱うお笑い芸人がどれだけいるだろう?こういった所がアメリカの凄い所なのだ。

国が何かをすれば、それにNOを声高に唱える人が出て来る国。愚かであると共に、ある種の責任と知識と開拓精神を合わせ持つ国。その表裏一体こそが、アメリカの姿だ。

だからこそ、僕はアメリカという国に興味を持ち、勉強したいと思う。

レーガンやブッシュ(父)がガチガチの保守派であったり、クリントンが猛烈なすけべえであっても、それを非難したり、笑いでもって攻撃する知を持った人々がいる。全体で見れば、そりゃあ愚かでもあるのだけれど。

以前、伝説のコメディ集団モンティ・パイソンは言った。「私達には武器はないが、笑いで攻撃する事が出来る」。アメリカ人であるマイケル・ムーアに同じ格好良さを感じる。

そのアメリカに保護され、金や豊かさばかりに現を抜かした僕ら日本人は、アメリカ人を笑う事が出来るのだろうか?

終盤、カナダも同じ位、銃が普及しているのに、なぜ銃犯罪がアメリカ程起きないのか?をムーア監督は追い続ける。家のカギを掛けようとはしないカナダ人にインタビューをしている内に、一つの考えが、ゆっくりと浮かんで来る。

「カギを掛けると言う事をアメリカ人は外部を追い出すと思うけれど、カナダ人は閉じこもると考える」と言うような事をカナダ人が言う。

浮かび上がって来るのは、テレビの恐怖を煽り立てる報道の数々とコミュニケーションを取ろうとしないアメリカ人の姿だ。対話をする事なく武力攻撃をすぐにするアメリカ人。

事実、コロンバインの事件の日、父親の電話によれば、主犯の息子と父親は何の会話もしていない、という事実を想起させる。

そう、身内だろうと他の国だろうと、ある種の対話がアメリカには欠けている。

外から不用意に入って来た者や不穏な動きをする者には銃を。これがアメリカの考え方である。

現在進行形のイラクの問題も、冷戦時代から続いたアフガニスタン、そして9・11に続くビン・ラディンの物語も、この映画で取り上げられる銃の物語も、全てはそこに収斂していく。

アメリカを非難するのはた易い。それでは、この映画を観た甲斐がないじゃないか。

自分の足下や周囲を見回してみれば良い。

空虚な笑いやゴシップ、安っぽいヒューマニズムに振り回された報道が垂れ流され、そういった情報を無条件で受け入れている国だってある。

そこでは、夥しい情報がネットやテレビから垂れ流され、それらを噛み締める事も声を荒げてNOとも言わず、何も考える事なく馬鹿正直に信じ込む人々がいる。マイケル・ムーアのような、痛烈な社会批判をする作り手もいない。

アメリカの本当の姿を観て、笑い飛ばすだけでなく、その姿に己を映し見て、苦笑せざる得ない自分がいないだろうか?

少なくともアメリカには、直接巨大スーパーのオフィスに赴き、銃弾の販売を中止させるだけの行動力を持った人間がいて、自己治癒をするパワーがあるのだ。

見る側に刃を向ける。そういったドキュメンタリーとして、この映画が観られてもいい。

一つ救いは、このマイケル・ムーアが認めるドキュメンタリーは、日本が誇るドキュメンタリー作家である原一男の「ゆきゆきて神軍」だと言う。僕は、もう一人、森達也を挙げておきたいが、そういう人も、この国にはいるのだ。頑張ろう。